義久が苦笑を漏らし、隣の美恵子がくすくすと噴き出す。その笑いは、張り詰めた部屋の緊張を薄める。笑いはいつでも高見にいる者の特権だ。

「ま、話もだいたい終わったようだし、我々は失礼するよ」

義久は椅子を立ち上がる。濃紺のスーツが椅子から離れるとき、布と皮の擦れる音が小さく響いた。彼の動きには余裕というよりも、長年の「権力」の習慣が乗っている。

「せいぜいその名探偵さんに、アドバイス……ふふ?もらえるといいわね。あなた、近くのスパに行きたいんだけど」

美恵子は首にかけたショールをひらりと整え、宝石の指輪を軽く鳴らすようにして笑う。声には上流階級の訓練された抑揚があって、場を支配する冷たさが混じっている。

「温泉か。悪くないな」

「スパね」

二人は小さな会釈を交わすと、食堂を出る体勢を取った。美恵子のヒールが床に軽く小気味よい音を刻む。社交と外見が先行する人々の歩き方だ。場の空気は少しだけ軽くなったように思えた――だが、それは長続きしない。

「きゃはは! 人を見た目で判断するおっさんとおばさん、ガチ失礼~~パンチ!パンチ!」

エラの声が跳ねた。小柄な身体で腕を小さく振り、ジャブの真似をする。金ピンクのツインテが左右に揺れる。

義久と美恵子の顔が一瞬で固まる。彼らはそのまま薄気味悪いものから逃げるように、食堂を去った。

三田村が間をとって立ち上がる。

「では私も、ホテルに戻りますか……」

「人減って助かる~。多すぎて映画の撮影みたいだったし。はい、いっていいよ~」

エラは軽やかに拍手して、そのまま三田村を送り出す。三田村は微妙な顔つきで首をすくめ、言葉を濁して退出していった。


食堂の窓から、高級車が二台、ゆっくりと敷地を後にするのが見える。一台は義久の運転する車、もう一台は三田村の車だ。エンジン音が遠ざかり、石造りのゲート越しに黒い車体が小さくなる。軽井沢の風が芝生を撫で、落ち葉がひとつ転がった。


食堂に残された僕たち四人――エラ、志保、明日香、そして僕。皆、窓際に固まって立ち、去っていく車を見送っていた。窓ガラスに映る僕らの顔が、どこか奇妙に揺れて見える。

「さーて、名探偵エラちゃん仕事開始!いえい!」

エラがギャルピースでまた自撮りをかます。スマホ越しの彼女の表情は満開だ。画面にはここがまるで観光地であるかのような軽やかさしかない。実際は殺人事件の現場だけど。

「じゃあ僕も……何かわかったら伝えてください」

どさくさにまぎれて僕も食堂を出ようとする。今日の会合の結果をどう課長に説明しようか、気が重いな……などと考えていると、肩に手が触れる感覚がある。振り返るとエラが僕の肩をつかんでいる。

「ちょい待ち神谷っち! 警察の人でしょ! 話聞きたいから残って、置いてったら訴えるよ~」

「神谷っち……? いや、捜査情報は一般人には話せないよ」

僕は反射的に言葉を返す。正直、この娘の相手は面倒くさそうだ。

「めんどいだけでしょ?神谷っち」

なぜわかった!? 精一杯刑事っぽく振舞ったつもりなのだが。

そこに志保が静かに半歩踏み出しで割って入る。

「ご協力をお願いします。捜査情報は私たちに話した範囲で構いません」

志保の声は低く、しかし芯がある。派手な人々の中で鍛えられたような静かな強さを持つ。彼女のその目に見透かされると、公僕としての建前が、いやに薄っぺらく感じられる。

「だってさ、どうすんの? 神谷っち」

エラがもう一度尋ねる。その表情はどこか偉そうで、やるんだろ?と言っているかのようだ。三人の視線が一斉に僕に向かう。幼女、ギャル、妙齢の女性に見つめられると、神経が妙に弱くなるのは、僕が二十代の独身男性だからだろうか。

計算を始める。今帰れば課長にどやされるだけだろう。けれど、エラという娘の調査に付き合ってみれば、思わぬ手がかりが出るかもしれない――ほんとに? いやいや、0%に近い確率だとは思う。それでも不機嫌そうな課長の前に立つのと、とりあえず不機嫌ではない女子三人と過ごすのとを天秤にかける。

「はあ……わかりましたよ」

「いえぃ!」

エラがはしゃぎ、体当たり気味にハイタッチを求める。僕は驚いて手を上げ損ねた。すると彼女の手の平は僕の手の平をすべり、その勢いのまま思い切り僕の頬にぺちんと当たった。スナップを利かせて。

「いだっ」

エラが鼻で笑う。

「さては慣れてないねぇ~神谷っち」

いやまず謝れよ! 事故とはいえ、顔をひっぱたいたんだから!

「ごめんね♡」

エラが顔の前で両手を合わせてにこりと笑う。謝られてしまっては、この憤りを持って行く先がないじゃないか。

志保がクスッと笑い、落ち着いた口調で場を収める。この人、笑うのを初めて見た気がする。

「お茶でも入れましょうか」

「志保っち!ついでに甘いもんもよろしく!」

エラの声が弾む。彼女の声は、耳に刺さる。

「ではキッチンへ。あちらにもテーブルがあります」

志保は会釈をし、くるりとキッチンへ向かう。僕らはその後をついていった。


別荘のキッチンは、ホテルのラウンジを思わせるような広さだった。中央には艶やかな人工大理石のアイランドカウンターが鎮座し、その天板にはまだ水滴のついたカットグラスの花瓶が置かれている。 壁際には最新式のオーブンや食洗機がビルトインされ、ステンレスの光沢が冷たく光っていた。吊り下げられた銅鍋やフライパンはインテリアの一部のように整列していて、料理をする場所というより「見せるための空間」に近い。

「おっしゃー」

そんなところにギャルがいる。

志保が手慣れた動作で茶器を整えている。コンロに灯る小さな炎が揺れる。熱い湯気の匂いが、これから訪れるであろう温かさを予告する。

僕たちはキッチンにの一角を占めるテーブルにつく。これも普通の家の食卓ほどもある広いテーブルだ。明日香は椅子に座り、大きな瞳でエラを見上げる。お菓子をくわえたままだ。

「お姉ちゃん……ママ、助けにきたの?」

エラはスマホを打つ手を止め、にかっと笑った。

「もち! うち名探偵エラちゃん☆ ママ救出ミッションなんてすぐクリアだよ! おっけー!?」

両手でサムズアップ。金ピンクのツインテもふわりと揺れる。彼女の笑顔は、まるで外国のスーパーヒーローのようだ。この自信だけは大したものだし、羨ましさをも感じる。何より明日香はエラを見て、くししっと笑う。

本当なら、刑事の僕がこの子に言ってあげなくてはならない言葉なのに、警察は、彼女のママ――志保には頼りにならないと判断した。それについては弁解の余地もない。ただ、その結果がこのギャルである。

「名前は?」

「あすか」

明日香は恥ずかしげに答える。

「おばさん、ママにいじわる言う」

明日香の言葉で、志保の表情が一瞬だけ曇る。しかし彼女は微笑みをすぐに取り戻し、お盆に茶器をのせ、ゆっくりとテーブルまで歩み寄る。その仕草には母親としての強さと疲労が混在しているように見えた。

「心配かけてごめんね。ありがとう」

志保が、娘の髪を優しく撫でる。明日香は母から目を背け、うつむいてしまう。

「照れてる~。かわいい~」

エラが満面の笑みで、明日香のほっぺたをつつこうと指を突き出そうとする。

「態度はあれだけど……悪い娘ではないのかなぁ」

僕は小声で、ティーカップを前に置こうとする志保に呟く。志保は静かに頷き、ティーカップをエラの前にも運んだ。


紅茶の匂いが鼻腔を満たし、少しだけ僕の肩の力が抜ける。四人ともふぅ、と緊張をほぐすように息を吐いた。

「美恵子さんはね、明日香が私と康介さんの子どもではないと思っていますから」

「康介って誰?」

エラが首を傾げる。彼女は先ほどここに来たばかりで、何も敬意を知らない。

「堂島康介氏だよ。この別荘のオーナーで……亡くなった」

僕は短く説明する。彼女は驚きもしない。軽い返事が返ってくる。

「ちょい待ち!ここからは話がめんどくなりそうだから、うちの脳みそじゃ回せないかも! さ、いくよワトソン!」

僕は一瞬、何を言われたのか飲み込めなかった。ワトソン――その名にピンと来るものがあるが。

エラはスマホのストラップからぬいぐるみを外し、テーブルに置いた。魔法少女が返信するときのような軽やかな鼻歌を添えて。

そのぬいぐるみは奇妙な混ざりもののような造形だ。頭は犬、胴は虎、手足も虎、尻尾は蛇。だが全体的にふわふわで、どこか愛嬌がある。黄色と青のまだらのパステルカラーで、色だけはどうにも安物っぽさが漂う。

「これは?」

僕は問いかける。エラは得意げに胸を張り、ぬいぐるみを指差す。

「わんちゃんへびとらくん。知らない?」

全く知らない。

「最近若い子の間で流行ってますよね」

志保が話を継ぐ。そうなのか。僕には、鵺(ぬえ)のゆるキャラにしか見えない。

そこでエラのスマホから、低めの男の声が発せられた。抑揚のある、どこか落ち着いた声。いわゆる「イケボ」が、ステンレスの壁に反響している。

『わが愛しのエラちゃん。やっと私の出番かい。君の呼びかけがない間はまるで氷に閉ざされた闇の中のようだったけれど、今は春の温かい日差しを浴びた新芽のようだね』

声に一同が驚く。志保は一瞬だけ眉をひそめ、明日香は興味津々に首を傾げる。

「ごめんねえ、ワトソン! 自己紹介よろ!」

『ああ、皆さん、こんにちは。私はAIのワトソン。このスマホに搭載されている探偵助手AIだ。エラちゃんの活動をサポートするためにだけ作られた、たった一つのAI。どうぞお見知りおきを。ここからは私も調査に参加させてもらう』

エラは得意げにスマホを皆に向ける。画面にはどこかのスマホのAIコンシェルジュのようなオーブがくるくると動いていて、話すたびに輪郭が揺らぐ。

「お兄が作ったんだよ! よろしくっち」

どうも彼女は「っち」を付けるのが口癖らしい。しかし、江野良探偵事務所の所長、風邪を引いて寝込んでいるというが、こんなものを開発するなんて……探偵よりシステムエンジニアの方が向いているのではないだろうか。

ワトソンの声は機械的だが、どこか愛嬌がある。エラがスマホを操作する。すると、ぬいぐるみの口元がひとりでにパカパカと動き出し、音声はぬいぐるみ側から発されるように切り替わった。

「どうも。皆さんのアフィニティを考慮して、このぬいぐるみの身体を拝借します」

エラは満面の笑みでぬいぐるみを撫でる。明日香が興味津々で見ているが、僕と志保は呆気に取られている。

「ワトソンはねー、うちのことすっごい可愛い可愛いしてくれるし、頭いいし、最高の相棒なの!」

その言葉を聞き、僕はどんな顔をしていただろう。そもそも、今見ているものを説明するのが難しい。「相棒」なのか「道具」なのか「ペット」なのか。そんなワトソンは僕に構わず話し続ける。

「ありがとうエラちゃん。でも実際エラちゃんはかわいいから、君の声を聴くだけで僕のアルゴリズムはいつもオーバークロックしてしまうんだよ。私はAIだから事実しか言わないよ」

なにを言っている、このぬいぐるみ……歯の浮くようなセリフなのはわかる。いや、ぬいぐるみじゃない、AIか。

「もう、照れるよぉ!」

エラがぬいぐるみを小突く。彼女は彼女で、まんざらではないどころか、恋する乙女全開である。AI(ぬいぐるみ)に溺愛されるギャルの照れ顔を、僕はただ茫然と見つめる。

志保もまた呆気に取られている。明日香はワトソンに触りたそうに手を伸ばすが、届かない。

僕はカップの紅茶を一口すすり、状況を整理しようとする。行きがかり上ここにいるが――いい大人がAIとぬいぐるみを相棒にするのか、そんな時代なのか? 時代の問題じゃなくないか?などと思考は堂々巡りを続ける。

「さて、調査を開始する前に、今回の依頼をもう一度確認しておこう。依頼者は黒瀬志保氏」

「は、はい」

志保がぎこちない様子で、ワトソンに受け答えをする。

「依頼内容は、堂島康介氏と黒瀬明日香氏が親子関係にあると証明したいが、2か月前に康介氏の亡くなった事件の捜査が難航しており、証明が難しい状況にある。この問題を解決するために江野良探偵事務所は事件の調査を行い、適切な助言を行う。これでよろしいか?」

まともに話している……むしろエラよりワトソンの方が、むしろ内容が真面目だ。なんてことだ。僕は刑事になって初めて、ギャルと、AIの乗り移ったぬいぐるみと、捜査会議をしなければいけないらしい。

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