首狩り姫と緋色の暗示

大伴正雨

第1話 闘技場の赤い暗示

左目に映る死の暗示が、薄い赤から濃い赤へと変わった。

(相手は女だ。得物ありの戦場ならともかく、素手の戦いだぞ?まじかよ——)


「次の試合!こう見えて、ガキの頃から戦場で生き抜いてきた期待のルーキー対、皆さまご存知の、あの『首狩り姫』だ!賭けは受付終了まであと五分だ!」


司会者の野太い声が、自由都市サルタニアの闘技場に響き渡る。


五千の観客席がどよめいた。

賭けのオッズを示す木札が慌ただしく差し替えられていく。

オッズを見る限り、俺が勝てば俺に賭けているヤツはまとまった金を得られるだろう。


(つまり・・・まったく期待されていないということか)


ルシアンは昇降台の中央で呼吸を整えながら、五十メートル先で上昇する対向の台を見つめていた。十五歳の少年にしては身長百七十センチと背は高いが、その分華奢に見える体躯は傭兵にしては頼りない。


焦げ茶色のくせ毛を後ろで結び、闘技者を特定をさせないための、申し訳程度の『銀のアイマスク』を着けている。


(『首狩り姫』……あのクレア・ライネルなのか?)


以前、戦場で遠目から見たことがある。

「傭兵王」や「暴君」の異名を持つゴリアテ・ライネルの娘で、二振りのショートソードで相手の首を瞬時に落とす姿から『首狩り姫』と呼ばれている、戦場の有名人だ。


命のやり取りをする戦場では圧倒的に格上の相手だ。だが、ここ(闘技場)の戦いに武器はない。


いくら『首狩り姫』が相手でも素手なら——


互いの昇降台が上がりきる。相手の全身を瞳に映したルシアンは愕然とした。

赤銅色の髪が西日を受けて燃えるように輝いている。自分と同じアイマスク越しに覗く琥珀色の瞳が、獲物を見定める肉食獣のように細められた。黒革のビスチェとショートパンツに身を包んだ体は、しなやかで危険な曲線を描いている。


そして何より——彼女の全身が、濃い赤い光に包まれて見える。


八年前に得た、忌々しくも今日まで自分を生かしてくれた、この呪われた力の警告が脳裏によみがえる。


『薄い赤なら要注意、血みたいに真っ赤なら回れ右して逃げだすことをお勧めするぜ』


(逃げなきゃ、今すぐ逃げないと!)

本能が叫んでいる。


だが、ここは逃げ場のない闘技場。

周囲を五メートルの壁に囲まれた円形の砂場で、出入り口の昇降機はすでに逃げ場を塞いでいる。


膝が震えるのを必死で隠し、ゆっくりと闘技場の中央へ歩く。

二人の距離はほんの数メートルまで縮まった。


クレアとの距離が縮まった瞬間、風が彼女の匂いを運んでくる。

汗と砂埃に混じって、ほのかに甘い香り


——戦場では滅多に感じない、女性の匂いだ。一瞬、気が緩みかける。


(いや、集中しろ、殺されるぞ!)


「あんたも傭兵?もし、つまらない相手だったら——」

クレアの薄い唇が、残酷な笑みを形作った。


「三十秒で終わらせてあげる」

彼女は右手を腰に当て、わずかに腰をひねって立っている。

その仕草だけで、観客席から歓声と口笛が響いた。


「おい、首狩り姫。アナウンスを聞いてたろ?こっちは期待のルーキーなんだ…手加減してくれよ」

ルシアンは声が震えないように、精一杯虚勢を張って言い返した。


「私をその二つ名で呼ぶな」

口元に浮かんでいた笑みが消え、視線に怒りに似たものが混じる。

その眼光に気おされたのか、周囲の気温すら下がった気がする。


(間違いない!こいつはあのクレア・ライネルだ。そして、この色はやばい!)


——ゴォォォン!


開始の鐘が鳴り響いた。

クレアが地を蹴り、ルシアンとの距離をゼロにした瞬間、ルシアンは左に転がった。魔眼が捉えた軌跡——彼女の右拳が、さっきまで自分の顔があった場所を通り抜ける。


「え?」


クレアの瞳に驚きがよぎった。

明らかに初撃で仕留めるつもりだったこぶしが空を切ったのだ。


ルシアンは砂を舞い上げて立ち上がると、距離を取ろうと後退した。

だが、クレアの追撃は容赦ない。左のフックが唸りを上げて迫る。


またも魔眼が赤い軌跡を示す。

ルシアンは上体を反らして回避し、よろめきながらもなんとか体勢を立て直した。

(あの拳、喰らったら死ぬな)


「へえ、理屈はわからないけど、私の動きが見えてるみたいだね」

クレアは笑みを深める。


「でも——」 次の瞬間、クレアは意図的にゆっくりと拳を振るった。

フェイントか?赤い軌跡は見えない。


なのに—— (避けられない!)


身体の構造上、動きは骨や関節に支配される。

自由に形状を変えるスライムのようにはいかない。

拳を守る革のグラブに意地悪くついた鋲がルシアンの右頬に一筋の傷をつけた。


「ふふ、やっぱりね。見えても体が追いつかないでしょ?」

面白い玩具をみつけたように、口の端がさらに上がる。


(この、戦闘狂め...もう気付かれたのか…)


ルシアンは心の中でつぶやいた。

魔眼は死の危険を示すだけで、回避方法を教えてくれるわけではない。

それに命の危険に直結しない攻撃は魔眼では予見できない。


それでも八年間の実戦経験が、反射的に体を動かしていた。


クレアが再び踏み込んでくる。今度は連続攻撃だった。

右ストレート、左フック、右アッパー。まるで嵐のような拳の雨。


必死に無様にかわすルシアンの動きに合わせるように攻撃が激しさを増す。

左の掌底、右の膝蹴り、そして—— (上か!?いや、下だ!) 魔眼が示す赤い軌跡とフェイントの攻撃。

虚実が複雑に絡み合い、もはや全てを避けることは不可能だった。


明らかに致命傷になりそうな赤い軌跡だけは喰らわないように意識を集中する。


ルシアンは時には砂の上を転がりながら攻撃をかわし続けた。

だが、三分も経つと息が上がってしまう。


(このままじゃ……)


魔眼に映る赤い光が、さらに濃く血のような色に変わった。

クレアの琥珀色の瞳が、戦闘の興奮か、金色を帯びたように見える。


「ハハッ…ハハハハッ、よくかわすね。じゃあ、これはどう?」


意図的にゆっくりと構えを変えた瞬間、動きが変わった。

今までは直線的だった攻撃に、高度な技術が加わる。

フェイントを織り交ぜ、ルシアンの回避の癖を読んで攻撃が軌道を変える。


(やばい……)


左のジャブがフェイントで、本命は赤い光に包まれた右のストレート。

ルシアンはそれを読んで左に避けようとしたが、クレアはさらにその上を行っていた。

右拳を途中で止めて、左の肘打ちに切り替える。


技量に差がありすぎた。

クレアにとっては右拳が当たればよし、避けるようであればルシアンの動きに合わせて攻撃を変えればよい。見えていても避けられない攻撃、肘がルシアンの脇腹に突き刺さった。


「がはっ!」


鈍い衝撃と共に息が止まる。ルシアンは砂の上に膝をついた。


観客席からは歓声と罵声が入り混じって響く。


「おい、立てよ新人!」

「姫さまの本気はこんなもんじゃないぞ!」


クレアがゆっくりと近づいてくる。

その足音が砂を踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。


「もう終わり?」

彼女は膝をついたルシアンを見下ろしながら言った。汗で濡れた頬が夕日に照らされて輝いている。


「……まだだよ」

立ち上がったが、脇腹の痛みで両腕が上手く上がらない。


クレアの瞳が細くなった。何かを見抜いたような、確信めいた光が宿る。

「頑張るじゃない……でも、これならどう?」

瞬き一つ、次の瞬間、クレアが眼前にいた。


彼女の双眸には驚愕の表情をした自分が映っていた。

「死にたくなければ、頭を守ることね」

ささやくような声だがハッキリと聞こえた。


クレアはルシアンに密着すると腕の可動域の外側をすべるように背後に回り込んだ。

するりと腰に回された腕に力が入ると、自分の身体が宙に浮くのを感じた。

背中に柔らかな感触と、汗に混じってほのかに甘い匂いを感じる…


(こんなに柔らかいのにな)


命の瀬戸際に、他愛もない事を考えながらルシアンは思考を放棄した。


クレアはルシアンの体勢を崩すと、そのまま地面に叩きつけた。背中から砂場に落ちたルシアンは、衝撃で息が止まる。


「がはっ……!」

背中を強烈に叩きつけられて、呼吸が上手くできない。

背中の痛みに負けじと、脇腹も痛みを主張しはじめる。


(ここまでか……でも殺されずにすんだのか?)


「勝者、首狩り姫!」

司会者の声が響く。観客席からは割れんばかりの拍手と歓声。


クレアは観客に向かって片手を上げて応える。

それから、大の字に倒れているルシアンのそばにやってきた。


屈み込んだ拍子に、汗で濡れたビスチェが肌に張り付き、豊かな胸の谷間が見えそうになる。


「ちゃんと生きてるよね。あなた、面白い戦いをするじゃない。けっこう楽しかった」


顔を近づけられ、汗の匂いと熱い吐息を感じる。赤銅色の髪が頬を掠めて、彼女は立ち去っていく。


ルシアンは左目の奥に残る、微かな赤い光を感じていた。薄れてはいるが、それでもうっすらと残っている。


(まだ消えてない……なぜだ?)


魔眼の警告は通常、危険が去れば消える。

それなのに、この薄い残光は何を意味しているのか。


ルシアンは傷ついた脇腹を押さえながら、なんとか立ち上がり、重い足取りで闘技場の地下控え室へと向かった。


「おい、ルシアン!」

待っていたのは兄貴分のドノヴァンだった。二十歳の青年は心配そうにルシアンを見つめている。


「大丈夫か、相手が相手だけに心配したぜ。まぁ、あのお姫様も手加減してくれたみたいだな」


「……手加減?」


「魔獣討伐の戦場で見たことがあるんだが、同じ人間かってくらい速かったぜ。俺だって敵同士で会うのはご遠慮願いたいね」


ドノヴァンは肩をすくめた。

「それにしても、よく三分も持ちこたえたな。見てる方がハラハラしたぜ」


たった三分。ルシアンにはもっと長く感じられた。


「さっきまで、親父・・・団長もお前の戦いをみていたんだぜ、あっちは大笑いしてた」

あの情けない姿を団長に見られたと思うと苦々しい気持ちになる。


「その団長から伝言だ。俺たちは近々、王都に向けて大規模な商隊の護衛に出るらしい。組織的な盗賊団が出るらしくてな」


「盗賊団?」


「ああ。最近、グラナ街道で商隊襲撃が多発してるんだ。あまり詳しい事は聞いてないが、三日後には出発するんだと」


ドノヴァンは肩をすくめた。


「ただ、お前は今回は留守番かな?脇腹痛てぇんだろ?かなり『いいの』をもらってたもんな」

ドノヴァンの言葉に返事をするように脇腹がズキンと痛みを主張する。


「留守番……」


ルシアンは少し安堵した。正直なところ直ぐにでもベッドに倒れこみたかった。


「俺たちが護衛任務に行っている間に体を治しておけよ。次の仕事には参加してもらうからな」

ドノヴァンは立ち上がると、ルシアンの肩を軽く叩いた。


「それじゃあ、俺は準備があるから先に帰る。お疲れさん」


ドノヴァンを目で追いながら、左目の奥に残る微かな赤い光のことを考えていた。

あの光は何を警告しているのか。クレア・ライネルとの戦いは終わったはずなのに——


その時、控え室のドアが勢いよく開いた。


「あんた達ガーゴイル団よね?」

顔をあげると、そこにはクレア・ライネルが立っていた。


ドノヴァンの目が驚きで見開かれる。

「首狩り姫……!」


振り返ると、そこにはクレア・ライネルが立っていた。

二つ名で呼ばれて渋い顔をする。


当然、試合中につけていた仮面は外しているが、彼女はそもそもが有名人だ。

イングラス王国内の傭兵で彼女を知らないものはほぼいないだろう。


試合後に着替えたのか、白いシャツに革のパンツ。

汗を流したのか、濡れた髪から、水滴が鎖骨に落ちる。


ドノヴァン、そしてルシアンに視線を移す。


「あなた、ルシアンっていうんだって?私の名前は知ってるみたいだけどクレアよ。そんな顔してたんだね。思ったより若いじゃない。さっきは割と面白い動きだったわよ」


「天下のサイクロプス団のクレア・ライネルが、ガーゴイル団に何の用だ?」

ドノヴァンがいぶかし気な表情で尋ねる。


「えっと、あんた達の団長——ゲイルさんだったよね?」


「あ、ああ…」


「明日の会合は正午に『緑竜の翼』亭でと伝えて。あんた達の団長さんにも『雇い主』から伝わってると思うけど、傭兵団合同の仕事の話があるから」


ドノヴァンが息を飲んだ。

「合同って、まさかサイクロプス団との?」


クレアは肩をすくめる。

「もちろん、私の独断じゃないわよ。グラナ街道で暴れてる盗賊団から商隊を護衛してくれって話がギルド経由でうちにきたのよ。でも、今この街にきているサイクロプス団で、動けるのは十名程度なの。商隊の列が長いらしくて、うちだけじゃ人が足りないって時に、この自由都市サルタニアを拠点にしている『つかえる傭兵団がもうひとつある』ってギルドが教えてくれたの。それで雇い主様はあんたたちにも声をかけたってわけ。じゃ、確かに伝えたからね」


クレアは去り際、振り返って付け加えた。


「ああ、それと——ルシアン、明日の会合、あんたも来なさいよ」


ドアが閉まった後、ルシアンは自分の鼓動が早鐘を打っているのを自覚した。

左目に映る赤い光は消えるどころか再び濃くなっていた。


しかも、色が変わったように感じた。赤から、より鮮やかな、黄味を帯びた緋色へと。

(緋色の暗示……これは、何を意味している?)


夕日が闘技場を赤く染める中、ルシアンは初めて感じる種類の不安を抱えながら、控え室を後にした。

明日、自分も『緑竜の翼』亭へ行くことになるだろう。


その時、この緋色の意味が分かるのだろうか——

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