2日目 印石と輪 〜最初の取引、最初の相手〜
夜の気配を引きずった朝だった。雲ではなく砂が薄く層を作り、足裏に細かな段差があった。眠っているあいだに、島がまた微かに動いたのだとわかる。
在庫/二日目・朝
・水:0.5L(節水)/小雨なし
・食:菓子1(溶けかけ)
・塩:昨夜の残り 少量
・道具:流木(短)3/ほつれロープ少々/レシート皿
・体調:喉の渇き強い/右足親指に違和感
・所感:夜間に低い唸り音。杭の影が拳半分ずれていた
砂の印を増やす。小石を三角に置き、一辺を正午の影と重ねる。夕方、どれだけ歪むか測れば数字が出る。数字が出れば怖さは縮む。怖さは単位にすると小さくなる。
浜の端で小さな薄青い貝殻を拾った。光の具合で、内側が乳白色に濁って見える。これを印石と呼ぶことにする。提供と取得を記録するための仮の通貨。相手はまだいないが先に仕組みを置けば、来たときに説明はいらない。
取引規約・草案(0.1)
・道具の貸借は印石2個(貸主1・借主1)返却で双方回収
・食は等量交換。過不足は印石で調整(1印=干し身ひと欠片)
・捨て場と貯め場を分ける(衛生)
・夜のずれに備え回収不能物を作らない。杭は仮設結び目は低く
制度は相手が現れる前に始めるのがいい。空席に耐えられる仕組みは満席でも暴れない。
観測/午前
・鳥:往復軌道、昨日より沖にシフト(+一羽合流)
・潮:朝の下げ短い/昼過ぎの上げ強い
・砂紋:東へ引く筋が濃い(表層流 東→西)
・漂着:釘穴の並ぶ板片/読めない刻印(擦過で薄い)
板片の穴を指でなぞる。規則はあるが意味は読めない。誰かの作の残り火のように冷たさだけが残っていた。
喉が主張する。だが飲まずに塩を仕込む。昨日のレシート皿の隣に帆布の切れ端を敷いた。繊維に塩を残す方が湿気に戻りにくい。
最小クラフト(午前)
・濾し布の再生:灰で脱脂し海水で洗い日向で乾かす
・吊り棚の強化:流木を一本追加。貝殻を舵釘代わりに支点へ
・印石袋:帆布端を折り返しロープのほつれで縁をかがり腰に吊る
帆布に細い線を描くため炭の粉と海水を混ぜて指で擦った。墨にはならないが灰色の跡は残る。文字の延命が今日の静かな目的だ。電子の文字はいつか死ぬ。死ぬ前に別の器を用意する。
昼が近づく。鳥の声が一段高くなる。私は往復の数を三度数えた。四十を数える前に戻り、また同じ弧を描く。待つ時間に体が小さく揺れ続けているのに気づく。島が止まらないから私も止まれない。
浜を回って腰の高さほどの場所を探す。石が積まれた小さな祠を見つけた。器があり内側に雨の痕跡。器の縁に爪で薄い“=”を刻む。等号。ここを共同の合図の場…共同圏の起点にする。
共同圏・覚え書き(0.1)
・輪の内では走らない
・入口に手洗い印(貝刻印:水)
・食と道具の面を分ける(帆布で区切る)
・使用後は灰水で拭く
祠の近くに交換用の帆布を敷いた。中央に印石を置く場、右に提供の場、左に取得の場。奪うより置く方が楽になるように動線を狭めた。奪うには逆走しなければならない。
在庫/二日目・昼
・水:0.4L
・食:菓子0(食べ切り)/海藻少量(乾燥中)
・塩:帆布塩 少量/紙皿塩 少量(計つまみ2)
・道具:濾し布(小)1/印石(薄青)7
・記録材:帆布片2/炭灰少々
塩を口にのせる。「ざらり」喉の奥が一瞬鳴りすぐ静かになる。必要な音は短い。
午後。鳥が近くに降り砂を蹴って飛び去った。そこに薄青い貝殻が残る。偶然かもしれない。だが帳に記す。昨日の塩の欠片と等価だと見なして。
取引帳/第0葉(自然相手)
・相手:鳥(白灰/沖の弧)
・与えた:なし(観測のみ)
・受けた:薄青の貝殻1
・評価:印石1相当
備考:次回は干物を等価見本として提示
制度は思い込みから始まる。思い込みを続けられる者だけが、制度を現実に変える。
観測/午後
・影:三角印の一辺、正午から指幅二つのずれ
・潮:返し強い/表層流は東→西
・砂:足跡有午後の風で半分消失
夕方。杭の影は予測より半歩ずれた。私は計算をやり直し吊り棚をさらに上げる。流木の束に乾いた海藻の浮きを括りつけ、流されても回収できるようにした。
最小クラフト(夕方)
・交換台(簡易):流木の脚に帆布を張り砂面から手の幅三つ分上げる
・貝刻印:平たい貝片に炭灰で「水・食・道具・時間」の印を描く
・帆布地図(1号):北の指標/祠/交換台/三角印を記す。端に“=”を縫い込む
夜が近づく。祠に印石をひとつ供え交換台の前に立った。そこに私のものとは違う乾き方をした足跡があった。最近の足だ。砂の端に木槌で割られた貝の欠片が落ちている。
誰かがいる。
声は出さない。交換台の右に濾し布を置き左に印石を二つ置いた。提供:濾し布。希望:印石2。中央の場を空け祠の陰に半歩下がる。
潮の気配の合間に足音が一度だけ混じった。交換台に影が落ちる。濡れた手だ。
彼女は濾し布をつまみ、水を落として確かめる。
その手の甲に月明かりが一瞬きらめいた。細い指先は女のもののように思えたが、次の瞬間には影に溶けていた。
音も立てずに印石を二つ左に滑らせ、そのまま貝の束を右に置いた。
取引帳/第1葉(初対面)
・相手:潮の人(女)
・与えた:濾し布(小)1
・受けた:印石2+貝8
・所感:手の動きが正確。輪の規則に自然に従った
私はうなずき中央に印石をひとつ戻す。往復で信を刻むためだ。彼女は目で私の動きを追い。何も言わずにうなずいた。言葉はまだ持ち寄っていないが監査は共有できる。
調理・衛生覚書(夜支度)
・貝は口の閉じないものを捨てる
・海水で予洗い淡水で仕上げ
・トイレは風下に穴を掘り灰で覆う
・交換台は灰水で拭き布を干す
ふたりで黙って作業した。私が吊り棚に貝を並べ彼女は木槌で割り、内臓を小さな山に分ける。山のひとつに印石を置く。印の付いた山は共同の分だ。彼女はうなずき別の山から貝を二つ私の側へ寄せた。等号の重みが静かに合った。
夜、砂が二度震えた。杭の影が走り、祠の器の水面に細い輪が重なり消えた。中央に置いた印石が、わずかに跳ねた。
走行仮記(二日目)
・三角印:正午→夕刻=指幅二つ半のずれ
・祠の器:波紋 三回(弱・弱・中)
・鳥の往復:周期短縮(-2)
眠る前に帆布地図の端に今日の“=”を縫い足した。私は彼女に布端を見せ指で輪を描く。輪の内側では走らないこと、手を洗うこと、印を置くことを示した。彼女は木槌の柄で砂に円を描いた。輪ができた。
在庫/二日目・夜
・食:貝(即食)6/海藻(乾)1束
・水:祠の器 半分+水筒 0.3L
・塩:帆布塩 ひとつまみ
・道具:濾し布(小)0(交換済)/印石 合計12
・記録材:帆布片2/炭灰少々(翌日、貝粉を混ぜて改良予定)
彼女が胸の前に円を描く。私はうなずき輪の中央に印石を一つ置いた。夜風で布が揺れる。島は歩き輪は面になり、帳簿は櫂になった。胸に帆布地図を当て目を閉じる。
記録の器は生き延びる器だ。明日も同じ器で測る。
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