第25話 妊娠の発覚
和真が姿をくらましてから数週間が過ぎた。季節は夏の燃えるような暑さをどこかへ置き忘れてきてしまったようだった。教室の窓から吹き込む風は肌寒ささえ感じさせる。彼のいなくなった世界は何もかもが色褪せて見えた。学校ではまだ彼の失踪が噂の種として囁かれていた。しかし、その声も日を追うごとに小さくなっていく。人々の記憶から彼の存在が薄れていくことが私にはたまらなく怖かった。
その頃からだった。私の身体に明らかな異変が現れ始めたのは。最初はただの風邪かストレスだと思っていた。朝起きると胃がむかむかする。好きだったはずの甘いお菓子の匂いがひどく不快に感じられた。常に微熱が続いているような気だるさが全身を支配していた。そして、何よりも決定的だったのは毎月正確に来ていたはずの月経が止まったことだった。
まさか。その最悪の可能性が頭をよぎるたびに、私は必死でそれを打ち消した。そんなはずはない。ありえない。しかし、私の身体は私の必死の否定を嘲笑うかのように日に日にその兆候を強くしていった。ホテルでのあの夜の記憶。私の愚かな勝利の確信。それが今取り返しのつかない現実となって私に襲いかかってこようとしていた。
ある日の朝、私は洗面所で激しい吐き気に襲われその場にうずくまってしまった。駆けつけてきた母の心配そうな顔を見て、もう隠し通すことはできないと悟った。私は震える声で体の異変と、そして和真との関係を全て打ち明けた。母は何も言わずただ黙って私の背中をさすってくれた。その優しい温もりが逆に私の罪悪感を抉った。
翌日、私は母に付き添われて産婦人科の門をくぐった。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。待合室のソファには幸せそうにお腹をさする女性や小さな子供を連れた母親たちが座っていた。そのあまりにも穏やかな光景は、場違いな私にとって針の筵のようだった。不安と恐怖で指先が氷のように冷たくなっていく。
やがて私の名前が呼ばれ診察室へと通された。初老の男性医師は私の顔を見ることもなく淡々と質問を重ねていく。内診台の上で私はぎゅっと目を閉じた。お願いだから間違いであってほしい。そう心の中で何度願っただろうか。
診察を終え再び待合室で待つように言われる。母と二人並んでソファに座る。どちらも一言も発しない。時間だけが残酷なほどゆっくりと過ぎていった。再び私の名前が呼ばれた。医師は検査結果の紙を見ながら静かに、そして事務的に告げた。
「高瀬さん、ご懐妊ですよ」
その言葉はまるで遠い国の出来事のように現実味がなかった。頭が真っ白になる。私のこの中に和真との命が宿っている。その事実が重い錨のように私の心に突き刺さった。これは罰なのだ。私の未熟な嫉妬が招いた、これは罰なのだ。
放心状態で待合室に戻る。その時だった。クリニックのドアが開き見知った顔が入ってきたのは。
涼子だった。
彼女もまた心配そうな母親らしき女性に付き添われていた。こんな場所でまさかの再会。私たちは互いに言葉を失い、ただ凍りついたように見つめ合う。気まずい沈黙。
その時、私の視線は涼子の母親が手に持っている一枚の紙に釘付けになった。それは超音波検査で撮影された胎児の写真。エコー写真だった。その小さな写真を握りしめる彼女の母親の手が微かに震えている。涼子の顔は血の気が引いて青ざめていた。
嘘だ。そんなはずはない。
しかし、その一枚の写真と涼子の絶望に満ちた表情とが、残酷な真実を雄弁に物語っていた。彼女もまた私と同じ。その一枚の紙が私たちの行動の重さと、そして予期せぬ事態の恐怖を、二人同時に突きつけていた。
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