私の未熟が彼を壊した

舞夢宜人

第1話 無垢な日常の終わり


 グラウンドを駆けるサッカー部員たちの雄叫びが、防球ネットを越えて微かに聞こえてくる。西に傾いた太陽が放つ最後の光は、校舎の窓ガラスを燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。夏の残滓がアスファルトに陽炎を揺らす。そんな季節の変わり目を告げる空気の中、私は柏木和真の少しだけ斜め後ろを歩いていた。彼の広い背中。汗の匂いが混じった、清潔なシャツの香り。それが私の世界のすべてだった。


 今日の数学の小テスト、最後の問題がどうしても解けなかったと私が愚痴をこぼす。和真は「あー、あれな」と笑いながら、驚くほど簡単な解法を口にした。悔しくて少しだけ唇を尖らせると、彼は「次は大丈夫だって」と、まるで幼い子供をあやすように私の頭を軽く撫でた。その大きな手のひらの感触が、触れられた場所から熱となって全身に広がっていく。この熱の意味を、和真はきっと知らない。知らないままでいてほしいと願う心と、気づいてほしいと叫ぶ心が、私の中でずっと戦争を続けていた。


 物心ついた時から、和真は私のヒーローだった。小学生の頃、クラスの男子にからかわれて泣いていた私を、たった一人で庇ってくれた。中学生の時、自転車で転んで怪我をした私を、保健室までおぶってくれた。彼の隣が私の定位置。彼の特別が私であること。それが揺るぎない世界の真理だと、私は本気で信じていた。このありふれた放課後の風景も、明日になればまた当たり前のように繰り返されるのだと、何の疑いもなく。


 住宅街に差し掛かり、家路を急ぐ人々の姿もまばらになる。私たちの影だけが、まるで寄り添う恋人たちのように長く長く伸びていた。ふと、和真が足を止めた。彼の視線の先には、古びた自販機とベンチがぽつんと置かれた小さな公園がある。私たちの思い出が、砂場の砂の一粒一粒にまで染み込んでいる場所。


「なあ彩香、ちょっとだけ、寄ってかないか」


 彼の声は、いつもより少しだけ硬かった。何かを隠しているような、あるいは何かを伝えようと覚悟を決めているような、そんな響きを持っていた。私の心臓が、期待と不安の入り混じった音を立てて大きく跳ねる。もしかしたら。今日こそ、この曖昧な関係に名前がつくのかもしれない。そんな淡い夢が、私の思考を桜色に染めていく。


 私たちは公園に入り、並んでベンチに腰を下ろした。金属製のベンチは、まだ西日の熱を微かに残している。和真は缶コーヒーを、私は微炭酸のジュースを、それぞれのどに流し込んだ。会話はない。ただ、錆びついたブランコが風に揺れる、ギィ、という寂しげな音だけが響いていた。沈黙が怖いと思ったのは、これが初めてだった。いつもなら、この無言の時間さえ心地よかったはずなのに。


 和真が何かを言い出そうとしては、ためらうように唇を噛む。その真剣な横顔を、私は盗み見る。夕日が彼の瞳の奥に小さな光を灯していた。ああ、綺麗だ。この瞬間が、永遠に続けばいいのに。彼がこれから紡ぐ言葉が、私の望むものであるようにと、心の中で必死に神様に祈った。


「あのさ、俺」


 ようやく絞り出したような声で、和真が私に向き直った。彼の瞳は、逃げる場所などないというように、真っ直ぐに私を射抜いていた。私は息を呑み、彼の次の言葉を待つ。全身の神経が、耳に集中していく。


「涼子と、付き合うことになったんだ」


 世界から、音が消えた。

 和真の唇が動いて、声が発せられて、私の鼓膜が震えたはずなのに、その言葉は意味のある情報として私の脳に届くことを拒絶した。涼子。椎名涼子。黒髪が綺麗な、クラスでも目立つクールな彼女の顔が、ノイズの混じった映像のように脳裏で点滅する。付き合う、とは。どういうことだ。


「この前の日曜日、この公園で告白されてさ。すごく真剣な顔で、ずっと好きだったって。俺、そういうの、初めて言われて。舞い上がっちまったのかな」


 和真は、照れくさそうに、そして申し訳なさそうに、頭を掻きながら続けた。彼の言葉の一つ一つが、見えない棘となって私の全身に突き刺さる。指先から急速に血の気が失われ、氷のように冷たくなっていくのが分かった。心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような苦しさ。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、息がうまくできない。さっきまであんなに美しかった夕焼けの空が、今はまるで世界が終わりを迎える前の断末魔のように、不吉な色で燃え上がっていた。


「彩香は、一番の親友だからさ。だから、一番に報告しなくちゃって」


 親友。その言葉が、私と彼の間に、決して越えることのできない深い溝を刻みつけた。彼の無邪気な笑顔が、優しさが、今は何よりも残酷な凶器となって私を切り刻む。どうして。どうして私の気持ちに気づいてくれなかったの。どうして、私の隣からいなくなってしまうの。憎しみと悲しみが、胃の奥から熱い塊となってせり上がってくる。


 喉の奥に詰まったガラスの破片を飲み込むような思いで、私は必死に顔の筋肉を動かした。引きつる頬を持ち上げ、唇の端を歪ませて、完璧な「幼馴染」の仮面を被る。


「そっか、おめでとう、和真」


 か細く震える、自分のものではないような声が、私の口からこぼれ落ちた。

「ありがとう。彩香なら、応援してくれるって信じてた」

 そう言って笑う彼の顔を、私はもう直視することができなかった。

 私の心は、この瞬間、修復不可能なほど粉々に砕け散った。愛おしかったはずの彼のすべてが、憎しみの対象へと変わっていく。長く、そしてあまりにも穏やかだった私の日常は、今、静かに終わりを告げた。

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