第2話 復讐の決意
どうやってあの公園から自分の家までたどり着いたのか、記憶はひどく曖昧だった。足元のコンクリートがまるで泥沼のように感じられ、一歩進むごとに体が深く沈み込んでいくようだった。世界から色彩が失われ、すべてが色褪せたモノクロームの映画に見えた。家の玄関のドアノブに手をかけた時、その金属の冷たさだけが生々しく、私がまだこの現実世界に存在しているのだと嫌でも教えてくれた。
リビングから漏れるテレビの陽気な音声と、夕食の準備をする母の鼻歌が耳に届く。その平和な日常の音が、今の私には不協和音にしか聞こえない。私は息を殺し、壁に体を擦り付けるようにして廊下を進んだ。誰にも会いたくない。誰の声も聞きたくない。私のこの絶望を、私の世界の終わりを、誰にも気づかれたくなかった。自室のドアを開け、背後で閉ざすと同時に鍵を回す。カチャリという無機質な金属音が、外界との完全な断絶を告げた。私はその場に崩れ落ち、冷たいドアに背中を預けたまま、ただ荒い呼吸を繰り返した。
どれくらいの時間が経っただろうか。重い体を引きずるようにしてベッドにたどり着き、制服のままシーツの中に倒れ込む。顔を枕に押し付けると、微かに残る太陽の匂いがした。それは、つい数時間前まで和真と一緒に浴びていた光の匂いだった。その事実が、再び私の心を容赦なく抉る。瞼を閉じると、彼の笑顔が、声が、仕草が、次から次へと溢れ出して止まらない。
小学生の時、私が高熱を出して学校を休んだ日、和真は学校が終わるとすぐに私の家へ飛んできてくれた。彼は「彩香がいないと、つまんないから」と少し照れくさそうに笑い、私が眠るまでずっとそばにいてくれた。中学生の頃、進路のことで親と喧嘩して家を飛び出した私を、彼は夜通し探し回ってくれた。「馬鹿だな、お前は」と怒りながらも、その声はどこまでも優しかった。高校に入ってからも、当たり前のように一緒に登下校して、くだらない話で笑い合った。彼の隣が私の居場所。彼の特別は私。そう信じて疑わなかった日々。それら全てが、美しい思い出の形をした鋭い刃となって、私の胸を突き刺してくる。あの優しさは、私だけに向けられたものではなかった。その残酷な真実が、私の息の根を止めようとする。
最初は、静かな涙だった。ぽつりぽつりと頬を伝い、枕に小さな染みを作っていく。しかし、溢れ出す思い出に比例して、嗚咽は激しくなっていった。声を殺すために枕に顔を強く押し付ける。息が苦しい。体が小刻みに震える。どうして。どうして私じゃダメだったの。私がどれだけ和真を想っていたか、彼は何も知らなかった。私の十七年間の想いは、涼子のたった一度の告白に、いとも容易く負けてしまったのだ。悔しい。悲しい。やるせない。憎い。椎名涼子が憎い。私の全てを奪っていったあの女が、心の底から憎い。
涙が枯れ果て、喉がひりつくほどの痛みを覚える頃、私の心を支配していた熱い激情は、不思議なほど静かに冷え固まっていった。それはまるで、噴火を終えた火山が、固い岩石と氷に閉ざされていくようだった。悲しみは消えない。しかし、ただ泣き濡れているだけでは何も変わらない。このまま涼子と和真が幸せになるのを、指を咥えて見ていることなど、絶対にできなかった。私の居場所を奪ったあの女から、和真を奪い返さなければならない。
私はゆっくりと体を起こした。涙でぐしゃぐしゃになった顔を制服の袖で乱暴に拭う。机の上に置かれた、中学の卒業式の日に撮った和真とのツーショット写真。満面の笑みを浮かべる過去の私。その隣で、少しはにかみながらピースサインをする和真。私はその写真立てを手に取ると、写真の中の和真を睨みつけた。そして、パタン、と音を立てて机に伏せた。もう、思い出に浸っている時間はない。
ベッドサイドに置いたスマートフォンを手に取る。その無機質な冷たさが、私の新たな決意を肯定しているように感じられた。画面のロックを解除すると、放たれた青白い光が、私の復讐心に染まった顔を不気味に照らし出した。検索窓に、震える指で文字を打ち込む。最初は「失恋 立ち直り方」だった。しかし、画面に並ぶ綺麗事に吐き気がした。次に打ち込んだのは「彼女いる人 奪う」。もはや、ためらいはなかった。
表示されたウェブサイトを、私は憑かれたように読み漁った。恋愛コラム、個人のブログ、体験談が綴られた掲示板。そこには、私の知らなかった世界の言葉が溢れていた。「男は身体で堕とす」「既成事実を作ってしまえばいい」「幼馴染というポジションは最大の武器になる」。扇情的で、背徳的で、そして何よりも甘美な響きを持つ言葉たち。それらは、私の乾いた心に、黒い蜜のようにじわりと染み込んでいく。純粋な恋心だけでは、何も手に入らない。ならば、私は悪魔にでもなろう。
私は検索窓に、最後の言葉を打ち込んだ。
「男を、誘惑する方法」
エンターキーを押す指は、もう震えていなかった。画面に無数に表示された禁断の知識を、私の瞳は飢えた獣のように吸収していく。純粋な恋に破れた少女は、この夜、死んだ。そして、復讐の炎をその身に宿した、一人の女が生まれた。
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