二頁

「ありがとうございましたー」

「いらっしゃいませー」


 飛び交う店員の声を聞きながら俺はスマホに視線を落とし、クリームの載った冷たいフラッペチーノが入ったカップのストローに口をつけて窓の外を見る。

 時刻はもうすぐ十二時。窓に視線を向けて見える景色は普段なら日が昇って明るい空。今は星も月明かりも無い、ただの暗闇。

 窓硝子に赤混じりの茶髪、茶目の自分の顔が映り、暗闇には外の青白い街灯と店の明かりだけが灯っていた。


「えー! 嘘だー!」

「本当なんだってー!」


 店内の喧騒とは違う、騒がしい声に窓の反射を頼りに声の主を探す。

 声の主であろう、大学生くらいの女性二人組はカップを持ちながら空いている俺の後ろのテーブル席に座る。


「今日みたいな極夜の世界ブラック・アウトには怪物が出るんだって! だから十七時から夜明けまでは家から出るなって法律で決められているじゃない」

「いやいや、怪物って、そんなのいないって。極夜の世界ブラック・アウトには機械が動かなくなるから、お店も開けないし、夜道が危ないから出歩くなってだけでしょ?」

「そうじゃないんだってー!」


 どうやら一人が噂話を教えたくて仕方がないって感じで、もう一人は非現実な話に呆れている感じだ。

 耳を傾けつつ、視線を左手首に着けているピンクのシュシュに移してフラッペチーノを飲み込む。


「私の考えではね、の事故の被害者が亡霊になって未練が怨念に変わって、極夜の日に生者を襲ってるんじゃないかって思うの!」

「ちょっと、流石にそれは不謹慎よ!」


 思わず顔を上げ、窓硝子越しに見ると焦った口振りで止めに入り、あっと小さく声を上げてもう一人が口元を手で抑える。


「で、でもね、怪物がいるっていうのは本当! 私のお兄ちゃんの友達の友達が……」


 さっきよりも声を抑えているが、それでも大きな声は俺に届く。視線を向けると噂話をしている方であろう女性と目が合い、言葉が止まった。

 ヤバイ。そう思って慌てて視線を戻し、窓の外を見ているフリをする。……が、遅かった。


「ね、ねぇ、あそこの窓際の人、カッコよくない?」


 咄嗟にスマホを見るフリで顔を俯かせ、女性の方に近い右腕で側頭部を庇うようにテーブルに肘をつき、窓の反射にも映らないように工夫する。


「窓? あそこの紺の制服の?」

「そう! 眼鏡が似合っててカッコよかったの!」

「へー。この辺で見ない制服だけど、どこの学校だろう?」


 小声で話しているつもりなんだろうが、興奮しているのか本人達が思っている以上にデカい声で耳を傾けなくても丸聞こえだ。

 すっかり話題が自分の事に変わってしまい、短い髪を右手で掻き上げてため息をつく。


「ねぇ、声かけ……」

「コータ、そろそろ時間だよ?」


 声を掻き消すほど大きい声ではないのに鈴の音のような声ははっきりと聞こえ、顔を上げて振り向く。


「あぁ、わかってる。月歌るか


 真後ろにいた月歌るかは真っ赤な目を吊り上げ、柔らかな頬をぷくっ膨らませて小さな体に不釣り合いなブカブカの制服に身を包んで腰に手を当てて仁王立ちしていた。

 俺は月歌るかの手を取ると揃いの制服の長い袖を捲くりながらごめんと一言告げる。


「ルカのこと、待たせるのヒドイと思うの!」


 ぷーっとさらに頬を膨らませ、そっぽを向くと緩いウェーブの長い金髪が揺れる。


「悪かったって。これやるから、機嫌治せ」


 月歌るかの頭を撫でると手首に着けていたシュシュで髪を簡単にまとめ、飲みかけのフラッペチーノを渡す。


「むぅ……。あ、ショコラだ!」


 両手で受け取ったフラッペチーノを一口飲むとパッと笑顔に変わる。


「でもまだご機嫌ナナメなの。コータが肩車してくれたら治るんだけどなぁ」

「あぶねぇから店じゃできねぇよ。まったく……」


 いくら月歌るかが七歳くらいの小さな体とはいえ、百九十を優に超える俺が店内で肩車なんかすれば天井や入口に頭をぶつける可能性がある。

 立ち上がって月歌るかの両脇に手を入れて持ち上げると右腕だけで抱え、椅子を戻して簡単に片付けると何食わぬ顔で呆気にとられている女性達の横を通りすぎて店を後にする。

 帰宅するであろう、駅へ向かう人達の中をしばらく逆走していると月歌るかが俺の顔を覗き込む。


「それで、何か情報はあったの? あの子達、情報持って無さそうに見えるけど」


 子供らしい舌っ足らずな口調を止めて普通に話す月歌るかに俺はあぁ、と答える。


、って噂話が出てるみたいだな。で、証人がいるって言ってたけど、目が合ってな……」


 言い淀むと呆れた顔をされた。


「コータに見惚れて聞けなかった、と……。情報の出処を探した方がいいかも知れないわね」

「君達」


 差し出されたフラッペチーノに口をつけ吸い付くと後ろから声を掛けられ、振り向く。

 警察の紺色の制服に身を包んだ二人組の男性で一人は年配、もう一人は若く、その顔は険しい。


「未成年の十二時以降の外出は禁止されているのは知っているね? 時間は過ぎているから、早く帰りなさい」


 口調は優しいが険しい顔は変わらない。

 月歌るかは一瞥すると知らん顔でフラッペチーノに口を付ける。


「御忠告どうも。けど、これから用事があるので失礼します」

「君ねぇ……」


 俺は頭を軽く下げ、左腕を腰に当てて腕章と胸の刺繍を見せるよう胸を張る。何か言いたげな若い警官を制したのは年配の警官だ。耳元で何かを囁くと驚いて声を上げ、若い警官は年配の警官と俺達を交互に見ると慌てて頭を下げた。


「し、失礼致しました! 君達が……」

「お勤め、御苦労様です」


 言葉を遮るよう、ひらっと手を振って俺達はその場を立ち去る。


「まさか、本当だったとは……」


 警官の呟いた言葉は遠くにいる俺の耳にはっきりと聞こえた。





「ねぇ、もう飽きたー!」


 駄々をこねながら俺の腰に抱きつく月歌るかを引き摺りながら明かりの無い、真暗闇の廃病院の壁に時折手を触れ、歩く。


「飽きたじゃねーよ。どうなるかわかんねぇのに未探索の場所あってどうすんだ」

「でも疲れたんだもん! 抱っこ!」


 今度はズボンのベルトを掴んで体を反らす。そのせいでズボンが脱げそうになって掴んで引き上げる。


「やめれ、脱げる。いい歳こいて抱っこじゃねぇっての」

「ルカはまだ子供だもん!」


 俺は大きくため息をついて立ち止まると振り返り、月歌るかを抱き上げて左腕で抱える。ご満悦な月歌るかは笑顔を見せると辺りを見回す。


「それにしても随分荒れ果ててるね」


 一階は立ち入る事が出来ないよう、板が打ち付けられた窓ガラスは板ごと割られて床に散乱し、上の階へと上がっても綺麗な所はなく、残されたベッドや機材も壊され、壁にすらスプレー缶で文字や絵が書かれている。


「廃業してから不良か肝試しに来た奴にでも荒らされたんだろ」


 廃業したのは十数年前。少し街から離れた山中にある病院は年数のわりにそこまで埃っぽくなく、無数にある足跡が沢山の人間が来たという事を示す。

 十階はある院内を階段を上り一つ一つ部屋を確認し、たまに壁を触りながら人為的に壊された建物を見るとため息しか出ない。

 階段を上り、四階につくと月歌るかが急に顔を上げ、耳を澄ます。


「どうした?」

「……誰か、来た。一階で詳しい場所まではわからないけど、コータは?」


 俺は片目を手で閉じて感覚を研ぎ澄ます。けれど今はまだ昼間だ。遠すぎて俺にはわからない。


「悪い、まだ無理だ」

「なら、行く? 人間なら追い出さないとでしょ?」

「……だな」


 面倒な事が増え、つい舌打ちをしてしまう。月歌るかを抱え直すと俺は手摺を飛び越え、階下に飛び下りる。

 一階まで下りると廊下の奥、曲がり角から細い明かりが伸び、話し声と足音も聞こえてゲラゲラと下品な笑い声や窓ガラスが割れる音が響く。

 俺は足音をたてないよう、けれど素早く近付くと壁に張り付いて角から身を乗り出さないように気を付けながら覗く。

 全員がパーカーのフードを被って顔を隠しているが、高校生くらいの少年が四人。懐中電灯以外に木製のバットやスプレー缶を持っている。


「ね、ねぇ、やっぱり、やめようよ……」


 少女か少年かわからない、一番背の小さな子が気弱な声で静止を促すと笑い声がピタリと止む。


「はぁ? 今更何言ってんの?」

「さては志狼しろう、おまえビビってんだろ?」

「マジ? だっせー!」


 また響く下品な笑い声に眉を潜める。


「だ、だって、犯罪だし、もうすぐ十七時になるよ……。十七時以降は絶対、家から出るなって政府から言われてるし、それに……」

「うっせーよ! 関係ねぇだろ!」


 怒鳴り声に驚いて肩を竦める姿にため息が出る。


「関係ある。人間の法では立派な不法侵入、器物損壊だ」


 曲がり角から出て声を掛けると吃驚したのかシロウと呼ばれた人物以外が肩を跳ねさせ、慌てて振り向く。

 向けられた懐中電灯の明かりに目を細め、俺は言葉を続けた。


「十七時以降は決して外出しないよう、警告もされていただろ? 機械が動かなくなるまであと一時間だ。ここは危険だ。死にたくないなら早く帰れ」

「てめぇ、急に出て来てなんだぁ?」


 このグループのリーダーなのか、一番背の高い体格のいい男が睨みつけてくる。……が、俺の方が背が高く、見上げていては迫力も無ければ何の恐怖も無い。


「もう一度言う。これは忠告じゃなく、警告だ。ここは危険だ。死にたくないなら今すぐ家に帰れ」

「なんっ」


 掴みかかってきた男が言葉も途中に乾いた音と同時に急に仰け反り、そのまま床にひっくり返って俺の視界には細い腕が伸びていた。


月歌るか!」


 手を振り払って顔に打ち付けたんだと理解し、嗜めるとふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 顎に当たったのか、押さえながら痛みに悶える男に他の仲間が駆け寄るとリーダー格の男は俺達を睨む。


「て、てめぇら……」


 まだ痛む顎を押さえ、震える足で立ち上がると涙目に睨みつけてくる男に月歌るかは睨み返し、俺の首に腕を回して抱き着いてくる。


「ルカのコータに触らないで」


 その声は静かだが、怒りを含んだ低い声で俺ですらぞわっと鳥肌が立つほどだ。

 直接向けられた殺意に男達は震えているのがわかる。


「し、しらけた! おい、行くぞ!」

「あ、あぁ……」


 精一杯の虚勢とわかる声を張り上げてリーダー格の男が踵を返し、他の仲間もそれに続いていく。

 背の低いシロウと呼ばれた少年だけがこっちを向くと深々と頭を下げてから駆け出す。

 病院内から人の気配が消えてから俺はため息をつく。


「……やりすぎ」

「この方が手っ取り早いでしょ?」


 得意気にふふんと鼻を鳴らすとさらにぎゅっと抱き着いて頬を寄せてくる。


「……そーかい……」


 何を言っても無駄だと感じ、ため息をついて背中を軽く叩くと踵を返してまた階上を目指す。





 廃病院の屋上。フェンスを背にスマホを見ると時刻はまもなく十八時。

 十八時を知らせる鐘が一つ。また一つと響き渡る。

 視線を上げると月歌るかはフェンスの上で器用に座り、足を交互に動かしていた。

 時計はあと一分を切っている。俺は眼鏡とシュシュを外すとスクエア型のウエストポーチの中へ仕舞い、代わりに紅い小さな宝石が幾つもついた数珠のようなブレスレットを左手首につける。

 最後の鐘が鳴るとスマホの時計は十八時を指した瞬間に真っ黒の画面に変わり、俺の真っ赤な瞳を映し出す。

 辺りの空気が一瞬で重苦しくなり、水中で聞いたように間延びした鐘の音が消えると空を仰いで息を吐いた。


「この感覚、慣れねぇな……」


 極夜の世界ブラック・アウトには無いはずの月が、血のように真っ赤な満月が辺りを紅く照らす。


「そう? ルカは好きよ」


 二メートル以上あるフェンスの上から音も無く軽やかに降り立つ。

 顔を上げた月歌るかはブカブカだった制服に着られた幼い姿ではなく、伸び切った手足が裾から覗く。


「夜闇はルカの領域だもの」


 俺と歳変わらない姿の月歌るかは真っ赤な瞳を細め、不敵に微笑む。


「頼もしい事で。それにしても……。院内から姿形も無けりゃ、気配らしきもんもねぇな」


 額を押さえながらそう言うと月歌るかはある一点を見つめていた。

 顔だけを動かし、視線の先を追っても街から離れた山にある廃病院ここの辺りには樹木が生い茂り、特別変なところはない。


「どうした?」

「気配なら……」


 そこまで言うと視線の先から悲鳴が聞こえ、何かが地面を揺らし、木が音をたてて倒れていく。


かよ! しかもっ……」


 フェンスにぶつかる勢いで振り返り、歯を食いしばる。


「さっきの子達もいるみたいね。どうする?」


 淡々と話す月歌るかの声には何の感情も感じられない。


「行くに決まってんだろ! うわっ!」


 フェンスをこじ開けようと両手をかけると腰に腕が回され、急に体が宙に浮く。

 一気にフェンスを飛び越え、目的の場所まで滑空し始めて俺は月歌るかの方を見る。蝙蝠のような黒い翼が月歌るかの背中から生え、何度か羽ばたく。


「間に合わないと思うけど?」

「それでも、だ!」


 あっけらかんとした声にキツめの口調で答えるとはいはいと適当な返事が返ってくる。

 幾つも倒されていた木がピタリと止み、さっきまでの悲鳴とは比べものにならない男の悲痛な絶叫が響く。


月歌るか!」


 俺の声に月歌るかは抱えていた手を離すと声の方へ飛んで行く。

 滑空していたとはいえ、地上まで数十メートルはあろう空中。体を捻って立て直し、真下の木の枝に着地する。

 けれど枝は俺の体重と重力に耐える訳もなく、直ぐに音をたてて折れ曲がる。完全に折れる前に足に力を入れ、その場から飛び退いて地面へと降りる。


「ぅおっ、とっ、とっ!」


 足が縺れ、転ばないよう足を踏ん張って息を吐き出す。


「慣れねぇ事は、するもんじゃねぇな……」


 震える足を一度叩くと全力で森の中を駆け出す。

 間に合わなかったとしても見過ごす訳にはいかない。

 木々の間を抜けると車一台通るのがやっとの細い砂利道に出る。音の方へ砂利道をしばらく走っていると前方に人影が見えた。


「ちくしょう、なんだアレ! 化け物じゃねぇか!」


 一人はリーダー格の男で奥を見ながら拉げた自転車を蹴り飛ばしながら叫び、もう一人はタイヤがから回ってる自転車の側で息を荒くしていて、地面に膝をついていた。


「……ら、だから言ったじゃないか! 極夜の世界ブラック・アウトの時はやめようって! さっきの人達にだって」

「うるせぇ! 黙れ!」


 リーダー格の男は膝をついている少年の顔を蹴り飛ばす。痛みに声を上げて倒れる少年に今度は殴り掛かろうとするのを俺は腕で受け止める。


「……は?」


 急に現れた俺に男は唖然とした表情で呆けた声を出す。俺は男の額に手を伸ばし、出来る限り手加減をしてデコピンをした。

 激痛に悲鳴を上げ、倒れ込んでのた打ち回る男を無視して少年の方へ向く。


「おまえシロウ、だったな? 大丈夫か?」


 フードの中の日本人離れした顔は少年とも少女とも見える中性的で金色の髪が揺れ、金の目を隠すように瞼は腫れ上がり、口元には血が滲んでいる。何が起こったかわからないという表情をして俺を見ていて、それでも名前を呼ばれた条件反射か小さく頷く。


「あっち、行ったよな?」


 音のする方向へ指を向けると何度か唇を動かし、声が出ないのか唇を引き結ぶと小さく何度も頷く。


「なら、その眼。借りるぞ」


 俺はシロウの額に掌を押し付ける。伸ばされた手に怯えたのか目を閉じて肩を大きく震わせたが、手を離すとゆっくりと目を開く。同時にシロウのあるはずのない三つ目の眼が額に現れ、開くとギョロギョロと動き出す。


「て、てめぇ、なにしやがる!」


 精一杯の虚勢を張りながら立ち上がり、俺に掴み掛かろうとした胸ぐらを掴み上げて宙へ持ち上げる。

 身長は俺の方が高いが、体格はこの男の方が良いだろう。そんな男を片手で軽々と持ち上げると戸惑う声が二人分聞こえる。


「お、おまえ、なんだよ! なんなんだよっ!」


 必死に手を離そうともがく男に俺は三つの眼で睨みつける。


「てめぇの言ってた化け物だよ」


 引き攣った悲鳴に手を離すと男はそのまま地面へと落ち、腰が抜けたのか震えるだけで動くことはない。

 俺はウエストポーチから細長い水晶を一つ取り出し、二つにへし折ると切断面から青い光が溢れ出る。それを二人の足元へ投げ捨てると水晶から半径一メートルの青い光がドーム状に広がる。


「死にたくなければそこから毛の一本すら出すな。わかったな」


 それだけ言うと数歩前に出てて奥に視線を向け、左手首からチャックを上げて肘先まで袖を開く。手首に着けたブレスレットを確認すると大きく息を吐く。


『コータ、聞こえる?』


 耳につけた通信機器からノイズ混じりの月歌るかの声が聞こえ、通信機器を指で押さえて声に応える。


「ああ。そっちは?」

『駄目ね、厄介な事になってる。二人も喰ったから、こっちに目もくれずにそっちに向かってる。意外と速くて追いつけないわ』

「……一度こっちで足止めしてみる。頼んだぞ」


 左手を前へ伸ばすと左腕を覆うように無数の眼が開き、全てが別々の方向へ視線を向ける。俺は目を閉じ、大きく息を吐き出すと額にある三つ目の眼を開く。

 今いる場所とは別の、シロウが通った道に生えている木々に無数の目を生やし、その目を介して視る。

 月歌るかともう一つ、三メートルは優に超える蜘蛛のような真っ黒な体に頭は人の頭蓋骨、蜘蛛と蛸の腕のような脚が八本生えた物体が地面を揺らして迫ってきていた。

 一度大きく息を吸うと目を開き、腕にある無数の目が一斉に同じ方向へ視線を向ける。


「縛!」


 声を張り上げると月歌るかの場所にある無数の眼は蜘蛛のようなモノに目掛けて青白い光を放射する。

 青白い光は蜘蛛を覆うと壁に阻まれたようにその巨体は光にぶつかる。

 腕に衝撃が走り、肘から指先まで軽く痺れる。

 蜘蛛は何度も光の壁に体をぶつけ、その度に俺の腕も痺れが増して光の壁に亀裂が入り、維持する事が厳しくなる。


 やっぱり無理かっ!


 「月歌るか!」


 俺の声と共に光の壁とブレスレットの宝石の一つが砕け散り、追いついた月歌るかが空中へ跳ぶと大きな斧を出現させ、蜘蛛の頭目掛けて振り下ろす。

 蜘蛛は体を揺らして月歌るかの攻撃を寸前で躱し、逸れた斧は体と脚の一部を切り裂く。千切れかけた脚を気にすることもなく、蜘蛛はその巨体を揺らしながら速度を上げる。


『最悪っ! これでも止まらないのっ!』


 珍しく舌打ちをして追いかける月歌るかに俺は背筋に冷や汗を感じた。

 月歌るかを見ても止まらない。体を裂かれ、脚が千切れようとも気にせず、巨体にあるまじき速さでこっちへ向かっている。


「マジ、ふざけんなよ……」


 音と振動が近付いて直ぐ側まで来ているのがわかる。俺は腕の眼を消し、袖のチャックを引き上げて臨戦態勢になって足を踏み込む。

 後ろの二人を守る水晶は本来は折った二つ一組で最大の効果を発揮するものだ。個数が足りなくて半分ずつ分け与えてしまったせいで効果も半減している。守るには自分が肉壁になるしかない。

 木々がなぎ倒され、蜘蛛の姿を視認すると向こうも気づいたのか、鞭のようにしならせた脚が飛んでくる。


「ぐっ……!」


 体ごとぶつかるように脚を受け止め、両腕で脇に挟み込むと地面に足が沈み、肋が軋む感覚がする。もう一本の脚が俺の横を通り過ぎようとするのが見え、脚を掴んだ体勢のまま蹴り飛ばす。

 月歌るかが追いつくまでとはいえ、俺一人じゃ守りつつ時間を稼ぐ事が出来ない。

 幸いというべきか、八本ある脚の内六本は千切れかけた脚もあるからか、巨体を支える為に地面についたままで残りの二本しか動いていない。

 一本は抱え込んでいるからなんとか動きを封じているが、厄介なのがもう一本だ。後ろにいる二人を狙った脚を蹴り飛ばしても直ぐに狙ってる。そのせいで脚一本で自分の体を支え、逃げようとする脚を抱え込まないといけない。肋も脚も悲鳴を上げているが、泣き言は言っていられない。

 急に脚は空中でピタリと動きが止まる。

 次の攻撃かと身構えると脚先が震え出し、五つに割けてまるで花弁のような姿になり、中心が動き出すと口が開き、鋭い歯が動く。


「マジかよ!」


 思わず声を上げると口はこっちを向く。

 どう回避するべきか、考えを巡らせていると悲鳴が聞こえ、視線を向けると男が這いつくばって光の中から抜け出そうとしていた。


「出るなっ!」


 俺の声が先か、男が喰われるのが先だったか。

 光の中から出た男を蜘蛛の脚先に生えた口が捕らえ、まだ光の中にあった足首以外を一瞬にして飲み込み、消えた。

 シロウが悲鳴を上げ、残った足首から血が噴き出すと地面にぽとりと倒れ、飲み込んだ口から骨が砕ける音と血が滴る。

 最悪な事態に俺は舌打ちをする。


「あぶないっ!」


 声に視線を戻すと開いた蜘蛛の脚先の口が目の前に迫っていた。

 しまった、と思っても遅い。

 六本は体を支える為に動かないだろうという考えを読まれていたのか、三本目の脚に咄嗟に回避が出来なかった。

 口が大きく開いて迫ると視界の端に金色の何かが動いたのが視え、蜘蛛は咆哮とも悲鳴ともつかない声を上げて口が開いた脚を出鱈目に振り回す。

 頭を掠めそうになり、俺は手を離して後ろに飛び退く。

 蜘蛛の方へ視線を戻すと脚の一本に大型の犬よりも二周りは大きい、金色の毛の狼が噛み付いていて振りほどこうとしていた。

 後ろを振り向くと光の中は服が乱雑にあるだけでシロウの姿は無い。


「そういう、ことか……」


 金の狼を払うために蜘蛛は大きく振り上げた脚で狼を打ち付ける。……が、寸前で狼は噛むのを止めて飛び退くと蜘蛛は自分の脚を叩きつけ、悲鳴を上げた。

 目の前に着地した狼は四肢を踏ん張ってはいるが体は震え、耳や尻尾は垂れ下がっている。


「シロウ、もうすぐ月歌るかが来る。悪いが少しだけ耐えてくれ」


 俺はウエストポーチから透明の小瓶と札を取り出し、狼の姿をしているシロウは頷くと喉を反らして遠吠えをした。

 空気がビリビリと震える感覚がする。蜘蛛が怯えたように震えると脚を振り上げ、シロウに向けて振り下ろす。

 俺達はその場から飛び退くとシロウは直ぐに脚に飛び掛かって爪で引っ掻く。

 蜘蛛は悲鳴を上げながら無闇矢鱈と脚を振り回すが素早さはシロウの方が上で掠りもしない。……が、シロウの息が上がっているのがわかる。

 こっちに向かってくる脚を蹴り上げ、もう一度縛を使ってみるがほんの一瞬しか足止め出来ず、破壊されてしまう。

 もう少し弱らせないと小瓶コレは使えない。加勢するにしても俺の機動力ではシロウの邪魔になってしまう。弱点であろう頭を狙うにしても攻撃が届くまでに脚に邪魔されてしまい、縛も足止めにならない。

 どうしたのもかと思案しているとガサガサと木々が揺れる音がして、空から月歌るかが現れる。


「追いつい、たあっ!」


 声を張り上げて顔を向けた蜘蛛の頭に斧を振り下ろすと斧は直撃して頭蓋骨が砕け、蜘蛛は体を震わせ、悲鳴を上げて蜘蛛は脚を振り回す。

 鞭のように飛んでくる脚をなんとか避けていると俺の死角から脚が迫る。

 気付いた時には回避しようにも間に合わず、受け身を取ろうとすると横からシロウに勢い良く体当たりをされて体が吹き飛ぶ。


「シロウ!」


 俺は直ぐに体勢を立て直し振り向くとシロウは辛うじて脚を避けて爪で引っ掻く。

 月歌るかも脚を避けながら蜘蛛に近付くともう一度斧を頭蓋骨があった場所に直撃させた。


 すると蜘蛛は体を震わせ、動きが止まる。


「二人共、離れろ!」


 俺の声に二人は蜘蛛から離れ、蜘蛛は鈍くなった動きでこっちを向く。


「地獄に行けるといいな」


 小瓶のコルク栓を取り、蜘蛛に向けると蜘蛛の体が小瓶に引きずり込まれ、栓をすると達筆すぎて読めない文字の書かれた札を栓の上に置く。

 糊もテープも付いていない札は独りでに動き、小瓶に貼り付いた。

 透明な小瓶は今は真っ黒になっていて、中が見えない。


「終わったー!」

「ぅぐぇっ!」


 いつもの小さな姿に戻った月歌るかは俺の首に抱きついてきて身長差も相まって首が締まり、思わず抱き留める。


「おまえなぁ……」


 文句を言おうとするとシロウが怖ず怖ずと近寄ってきた。


「シロウ、助かった。ありがとな」


 月歌るかを地面に下ろし、シロウの頭を撫でると軽く尻尾を振って応える。


「話がしたいんだが、人の姿に戻れるか?」


 頷くと服の側に行き、服と俺達に交互に何度か視線を向けてから服の周りをうろうろと回るだけで戻る気配が無い。

 どうしたと声を掛けても戸惑ったようにこっちを何度もちらちらと見上げ、座り込むと器用に爪で地面に文字を書く。

 『は』次に『た』を書く途中でハッと気づいて月歌るかの体を抱え、背を向けると目を手で塞ぐ。


「なにするの!」

「いいから、大人しくしろっ」


 暴れていた月歌るかは納得がいかないようではあるが、俺の言葉に従って動きを止める。


「あの、もう大丈夫、です」


 しばらく待つと声がして振り向くとシロウは元の人の姿でズレたフードを直していた。

 間近に見ると中性的な顔立ちは幼く、背も百六十半ばくらいだろうか。まだ中学生くらいにも見える。

 戸惑っているのがわかるくらい眉は垂れ、腫れている瞼の下の目も泳いでいた。


「自己紹介がまだだったな。俺は……」

「ルカだよ! 吸血鬼の晦月歌つごもりるか


 俺の言葉を遮りながら腰に抱き着いてくる月歌るかの衝撃に肋が痛み、軽く擦りながら反対の手で頭を撫で、シロウを見据える。


「俺は百目鬼煌太朗どうめきこうたろう


 伸ばした手に一瞬怯えた表情をしたが、言葉を続ける。


「その名の通り、百目の鬼の混じり者ばけものだ」

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