第3話 ネイディア中層 前編
やがて前方に、重厚なゲートが姿を現す。
通常は二重の認証を必要とするそこが、ちょうど死刑囚搬送のため一時的に開放されようとしていた。だが、同時に複数の武装看守が配置され、監視ドローンが巡回している。
「……通るなら今しかない」
カインは低く吐き捨て、シエラに視線を戻す。
「ここを抜ければ、上層へのシャフトに乗れる。だが、血が流れる覚悟はしておけ」
「"血"ね…それ俺に言ったら違う意味も出てくるぜ?」
シエラはそう言って前に出ようとすると、カインにそれとなく前に出ないように制される。
「お前は引っ込んでろ」
――もう二度と、勝手に殺させない。
さっきのダニエルの死は、任務上必要でも、カインの中で許せることではなかった。
ゲートの先には、武装した看守たち。
通路を塞ぐ監視ドローンが規則正しく巡回している。どの顔も油断はなく、ここが脱獄不可能たる所以を体現していた。
そんなカインにシエラが不満げに鼻で笑った。
「お前動けるんだろうな?」
「動けるか、だと?」
カインは腰から非殺傷電磁銃を引き抜き、冷静に装填を確認する。
「俺は戦場帰りだ。これくらいで膝が震えるなら、こんな任務受けてない」
一瞬だけ青灰の瞳がシエラを横目に射抜く。
「お前は黙って俺の後ろにいろ。今度俺の手を汚させるような真似をしたら、本気で首輪を飛ばす」
「さっき手を汚したのは俺なんだからいいだろうが」
「……言い訳は聞き飽きた」
カインは吐き捨てるように呟きながらも、カインの耳は背後の足音を確かに捉えていた。
ゲートの先には巡回する2体のドローンと、銃を構える4人の看守。
死刑執行区画を護るその布陣は、正規ルートで突破することを想定していない。
だがカインにとっては、戦場で腐るほど見た光景にすぎず、 腰の電磁銃に指をかけ、一歩、影に溶け込む。
「……今だ」
小声で呟いた次の瞬間、閃光弾が投げ込まれ、白い閃光が狭い通路を焼いた。
看守たちの視界が奪われ、悲鳴が重なる。
そこへ正確無比のショットが連続して炸裂し、非殺傷弾が一人、また一人と昏倒させていく。ドローンのセンサーも一瞬でジャミングを受け、カインが素早く叩き落とすと、機体が派手に床に墜ちて転がった。
「走れ!」
鋭く声を飛ばし、カインは背後のシエラに一瞬だけ振り返る。
「言われなくても走るっての!」
通路の奥、警報が鳴り響く前に抜ける時間はわずか。深海の圧迫音と、死刑執行区画の機械音が入り混じる中、二人は次のゲートへと駆け抜けていった。
「動けンじゃねえか…人を殺せない腰抜けに変わりはねえが」
「……黙れ」
シエラがゲートを駆け抜けるとニタリと笑うとカインが静かに吐き捨てる。だが息は乱れていなかった。
「で、次はどう…」
その時、シエラが目を見開いてバッと前を向いた。
鼻を突く匂い。
「…ッ、毒か…!」
瞬時にカインも顔をしかめる。
喉を刺す刺激臭。
強化スーツのフィルターでは完全に防げない揮発性の神経毒だと、一瞬で判断した。
「クソッ、ドローンが……!」
死刑執行部屋と思しき箇所にドローンが墜落したことで部屋の空気孔が開いたらしく、部屋から神経毒が漏れていた。
致死ではないが、瞬時に眠らせるくらいには強力な毒霧が廊下を曇らせていく。
カインの低い視線は既に出口を探していた、が霧の回りが速すぎた。
「…ナイフあンだろ。手首切ってこの血を飲め」
シエラが手首を差し出すようにカインの目の前に出した。
「……ッ」
カインの眉がわずかに跳ねる。
被害者を何人もおぞましいやり方で殺害した凶悪犯。その血に頼るのは、任務のためとはいえ、自分の嫌悪の全てを飲み込むことと同義。
「早くしろ。元軍人が今更人を切るのも怖ぇなんて言うなよ」
シエラの茶化す声も焦りが混じり、毒の霧はもうカインの鼻腔に入りつつあった。
「……クソッ!」
カインは歯噛みし、背中から戦闘ナイフを抜いた。
青灰の瞳がシエラの差し出した手首を射抜く。
「これで、死んでも文句言うなよ」
滑る刃に、シエラがわずかに顔を顰めたが、シエラが血液を何人も絞り出すようにぐっと手を握ると、血液が傷口から漏れ出した。
「……チッ」
カインは短く舌打ちし、溢れた血を見て眉を寄せる。だがもう、毒が肺に入り込んでいる。選択肢はなかった。
「俺の血液は万能じゃねえ…俺の体質上、毒は効かねえ。血を飲めば解毒できる…だが新たに吸い込む毒まで効かなくなるわけじゃねえンだよ」
カインが血を口に含む間、シエラが自分の血について、まるで手の内を明かすように説明する。
「……分かってる。解毒剤代わりだが、一時的ってわけか」
低く押し殺した声。嫌悪の色を隠さず、しかし吐き出すことなく飲み下す。
「正解。賢いな、お前」
シエラはカインに血の流れる手首を押し付けながら前を見据えた。
「……つまり、出口に着くまでは繰り返し飲めってことか」
カインは息を荒げながらも、理解してしまう。
軍人として最悪の地獄。
毒で臓腑を焼かれ、シエラという殺人鬼の血で癒え、また毒に侵される。
その繰り返し。
「出口に着くまで吸い続けろよ。地獄の苦しみだろうけどな」
シエラの言葉はいつも通りだが、口ぶりは、いつもの楽しげな色が消え、どこか気遣うようだった。
「……いい性格してやがる」
カインは息を吐き、喉を灼く毒の熱と、冷たく流れ込む血液の感覚に顔を歪める。
だがその目はすでにすべての覚悟を終えていた。
「行け、シエラ」
毒霧に霞む廊下を、シエラは駆け出していった。
背後には、己の嫌悪を飲み込みながら、それでも任務を遂行する兵士の足音が重なっていた。
「…借りじゃねえからな。お前が死んだら俺が脱獄できねえだけだ…だが気分は悪くねえ」
シエラが短く言うと、廊下を駆け抜け、するりと入り込んだ出口で止まる。
「…ここにはもう毒は無いみてぇだな」
シエラはカインの様子を見て目を細めた。
「どうだ?…お前が依頼主からいくら提示されてるか知らねえが、その金額の味だ」
皮肉交じりに言うシエラの言葉だが、手首の切り傷がぽたりと廊下に落ちる。
「…っつ、」
シエラは痛みに顔を若干歪めながらも、即座に痕跡を消すように血の跡を足で揉み消し、手首の傷を乱暴に服で拭った。
「適当な処置すんな、血の痕跡が残る」
カインはそう言うと手首を無理やり手にとった。
「要らねえって…痛ぇっ!おい!やめろ!」
「……黙ってろ」
カインは低く言い捨てると、強引にシエラの手首を握り直した。
手早く携帯用の滅菌スプレーを取り出し、容赦なく吹きかける。薬液が傷口に沁み、シエラの肩がピクリと震えた。
「もうちょっと"金蔓"は大事に扱えよ」
シエラが抗議の声を上げるが、カインの手は止まらない。
「戦場じゃこれが普通だ。泣き言いわず黙ってろ」
カインの声音は冷酷だが、その手際は驚くほど正確だった。包帯代わりに切り裂いた布を固く巻きつけ、血が滴らぬようしっかりと止める。
「……これで痕跡は残らん」
青灰の瞳が、じっとシエラを射抜く。
「お前は俺の“金蔓”だ。自分の血で自分の首を絞めるな」
一瞬、目に浮かんだのは怒りと、任務を超えた、妙な責任感にも似た感情があった。だがカイン自身、それに気づいていないのか、ただ手を離して背を向ける。
「止血なんて要らね。"この血"は怪我もすぐ治るンだからよ」
シエラは不貞腐れたように言いながらも、止血された手首を振った。血はもう滴ることはなさそうだった。
「ち…っ、さっさと進めよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
「だったら…!」
その時、ぺたり、と素足の音がする。
「……待て」
カインはシエラの言葉を遮るように、片腕を横に広げて制した。
ぺたり、と再び湿った足音が近づく。
ここは死刑執行区画、武装した看守と機械音しか存在しないはずの場所で、素足などあり得ない。
「シエラ、下がれ」
カインは呼吸を抑え、引き金に指をかけたその時。
「…ハハッ、おいおい仲間のお出ましかよ」
シエラの乾いた笑いと共に、ゆらりと現れる人影。
「ハリス…、なんでお前が生きてンだ?」
シエラが唸るように声を出した。
服装はシエラと同じ囚人服。
今日死刑執行されるはずの囚人、ハリス・ドロウナー。災厄の頭脳を持ち、その高すぎるIQを全て人体実験に費やし、世間を震撼させ、死刑を宣告された狂科学者が立ちはだかっていた。
「…看守と囚人がどうしてここにいる?」
「お前こそ今日が死刑の日だろうが」
ハリスの問いかけに、シエラが体勢を低くして構えた。
「神経毒の効きが浅かったようだから執行人共を殺して出てきただけだ」
ハリスが事も無げに言う。
「…あの廊下にあった神経毒…!」
カインの歯が軋む音がした。
青灰の目がすっと細められ、銃口が即座にハリスに向けられる。
「執行室から漏れていた毒ガスだったのか…だからお前を執行するための必要量が足りずにお前が出てきたわけだな」
低く、抑え込んだ声。
「最悪のタイミングだな」
カインは舌打ちをし、素早くシエラの肩を押して自分の背後に引き寄せた。
「シエラ。さっき言っただろ。お前は荷物だ。今度こそ前に出るな」
吐き捨てるように告げた声は冷徹だが、その動きは明確に庇うものだった。
「これも"想定外"ってやつだな」
後ろに庇われたシエラが冗談めかしてカインに言うと、ハリスの目が細くなり、シエラを見据えた。
「監獄ネイディアは、死刑囚の死刑執行なんかしちゃあいなかった」
「……何だと?」
「へえ?」
カインの眉がわずかに動き、シエラが興味深そうに首を傾げた。
「死刑執行…と見せかけて実際は死刑囚を使った人体実験を行っている。俺は神経毒を嗅がされた後、脳を摘出し、その"脳"をAIに組み込む予定だったらしい」
ハリスの言葉にカインが低く唸る。
「死刑囚を処分じゃなく“資源”扱い……クソッ、ここは処分場どころか研究所だってわけか」
カインの怒りを交えた言葉の一方でシエラは顎に手を当てながら分析するように考えこむ。
「成程…死刑執行すンのになんで"致死毒"じゃなく"神経毒"なのか不思議だった。殺すための毒なら多少漏れてもこうしてピンピンして立ってるわけねえもンな」
廊下にあった毒は致死毒ではなく体を麻痺させるような神経毒だった。
シエラとハリスの目がピタリと合った。
「ネイディアは死刑を宣告された死刑囚の中でさらに人体実験として有用な死刑囚の寄せ集めだ。お前の"血液"も、実験に最適だったんだろうな」
「…っ、」
死刑囚2人の三つ巴という状況の中、冗談めかしてはいたが、ハリスの言葉にシエラの瞳がわずかに揺れた。
「……やっぱりか」
カインは低く呟いた。
銃口をわずかに下げ、ハリスとシエラを順に見据える。
「シエラ。お前の血はただの“武器”じゃない。ここに収監された時点で、連中にとっては最高の“実験素材”だったんだ」
青灰の瞳が冷ややかに光る。
カインの声は冷徹だった。
だがその奥には、“任務を超えた苛立ち”がにじんでいた。
――利用するために、ただ人間を玩具にしてきた監獄ネイディア。
深海に作られたのは脱出不可避のためだけじゃない。その実態が剥き出しにされつつあった。
「それでも俺はお前につく気はないけどよ」
シエラが首を鳴らしながらカインの隣に立ちながらハリスを見据えた。
「さっさと終わらせてねえと…今度こそ警備が厳重になるンじゃねえ?」
シエラがカインをちらりと見た。
「お前、コイツも殺さず制圧するつもりか?」
コイツも殺人鬼だぞ?と言わんばかりにシエラが試すようにカインに問いかけた。
「……当たり前だ」
カインは低く答え、銃口をハリスに向けたまま短く息を吐いた。
「殺すのは簡単だ。けどな、俺は殺しに慣れてても、慣れたいわけじゃない」
青灰の瞳が一瞬だけシエラに流れる。
そこには怒気でも嘲りでもなく、試されていることを理解した表情だった。
「こいつも非殺傷で沈める。俺のやり方に従え」
銃を構え直すカインの声は鋭く切り捨てるようだが、その言葉の奥には意地にも似た確固たる意思があった。
「いいか、シエラ。俺は血を飲み込んでも、お前のやり方までは飲み込まん」
その直後、ハリスが笑みを浮かべた。
「面白い……殺人鬼と兵士の倫理ごっこか」
通路の空気が、さらに張り詰める。
二人の死刑囚と一人の兵士、三つ巴の緊張が爆ぜる寸前だった。
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