第2話 アンヌとロラン
祖父が亡くなったころから俺は当主教育をサボりがちになった。
これは草原の風が好きだったというのが理由ではない。単純に、『褒めてくれる人』の喪失が原因だった。
この時の俺は中央貴族に常になんらかの許しを請うている父親のことを情けないクズだと思っていたし、将来、自分がそんな大人になるのは絶対に嫌だと思うぐらいには子供だった。
それまで当主教育を受けていたのは、きちんと勉強をすると祖父が褒めてくれたからだった。
だが、その祖父も亡くなった……『伝説の英雄』『最強の辺境伯』『国家の勇気の象徴』と呼ばれたあの人も、老いと寿命には勝てなかったのだ。
父は褒めてくれた。教育係も──とはいえ、この当時『ド田舎』扱いされていた辺境に左遷されてくるような教育係だが、その人も、俺の優秀さを褒めてくれた。
でも、嬉しくなかったんだ。
俺は、俺が認めた人にだけ褒めて欲しかった。それ以外の人間からの誉め言葉なんか、どうでもよかった。
そんなふうに悪童まっしぐらだった俺の前に現れたのが、新しいお世話係の彼女だった。
彼女は俺より十歳年上の美しい人だった。
燃えるような赤い髪を持つ、気の強そうな目をした女性。
アンヌという彼女の名前はこの国では一般的なもので、多くの女性がそのように名付けられる。
だけれど、俺が『アンヌ』という名前を思い浮かべた時、いつでも真っ先に思い出せる顔は、この、燃えるような赤毛の彼女だった。……将来的に、その娘の顔に取って代わることにはなるのだけれど。
「ロラン様、いけませんよ。きちんとお勉強をして、立派な当主にならないと」
この当時の俺にとって、『当主教育を真面目に受けること』は『親父のようにならされていくこと』と同義だった。
あんな風になりたくなかった俺は、祖父に褒められなくなるとすぐに、教育を拒否するようになった。
だってそうだろう? 幼い子供が、常に人に対して頭を下げているような大人のどこに憧れる?
この当時の俺も一般的な『男のガキ』と同じで、強いものに憧れた。そして、謝罪やお願いをしている親父の姿は、弱そうに見えた。
……後年、その強さを思い知ることになるけれど。
草原で寝転がっている俺と、空との間に顔を挟んだアンヌは、本当に美しい女性だった。
幼心に恋をしていたことも、認めてしまわねばならないだろう。間違いなく初恋だった。ただ、別に報われると思っていたわけではなかった。
俺は貴族で、彼女は平民だった。だから、俺たちはそのうち、別々の人生を歩む。
……それが通例のはずだった。
この当時の俺はアンヌの言葉にうるささを感じてはいたけれど、それに真正面から『うるさい』と言うことだけはしなかった。
祖父が俺に怒った三つのことのうち一つが、『貴族が平民に強い口調で何かを言ってはならない』ということだった。
貴族の言葉は力を持つ。だから、貴族は発する言葉に慎重にならなければならない。
祖父は戦争を経験していた。その時に自分が発した『物資提供のお願い』が、平民にとって『命令』になってしまった経験をして、学んだらしい。そして、戦時には、そういう『強い言葉での命令』が現地住民との間に不和を生み、防衛戦の時には軍の『ねばり』を減じさせる──
祖父は戦争のない世の中を望んでいた人で、それを勝ち取った人でもあった。
けれど、祖父は結局、戦争から戻って来ることが出来ていなかったのだろう。あの人の言動には、いつも『戦争』を見越した冷徹さがどこかにあった。
ともあれ祖父に怒られたことは、祖父亡きあとも、俺の中に教訓となって息づいている。
だから十も年上の相手とはいえ、アンヌに『強い言葉』を使うわけにもいかない。
……それに、俺も言われたことを唯々諾々と守るだけの馬鹿というわけでも、さすがにない。
きっと彼女は親父の命令で俺を屋敷に連れ戻しに来ているわけで、ここで俺が『戻らない。見なかったことにしろ』などと命令すれば、その板挟みは彼女を苦しめるだろうというのを理解出来るだけの頭はあった。
彼女は不思議と、『傷ついて欲しくない人』だった。
真っ直ぐなのだ。この領地が特に領民と近い距離感を保つように心を砕いているのはあるにせよ、彼女は正しいことは正しいとはっきり言い、行動で示す。それを『貴族の一声』というもので歪めてしまうのは、何かとても取り返しのつかないことのように思われた。
だから俺は表現に困って、結局、アンヌに従い、勉強に戻る、ということを繰り返していた。
繰り返すうちに、彼女にそうして迎えに来てもらい、彼女の『偉いですね』とか、『さすがですね』とかいう、安っぽい──気安い、弟に姉がかけるような誉め言葉に、嬉しくなってしまったのだ。
ようするに俺はどうにも、美人に弱い。
今も昔も、真っ直ぐな目つきをして、自分の正しさを疑ってもいないような美人から賞賛されるのが、好き、ということらしかった。
そして、真っ直ぐなものには歪んで欲しくないという気持ちも、同時に、ほとんど生まれつき備えていたらしい。
……だから結局、これから二十年後に俺が『復讐』を完遂するのは──
二十年間、差し引き十七年間も『復讐』なんてものに人生を捧げる羽目になるのは。
きっと、彼女のためではなくって、俺の美学のためなのだろう。
アンヌという真っ直ぐな女性を歪め、さらい、死なせた、カール王に対する、ただの私怨、だったのだ。
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