第12話 “アイ・キャン・フライ”
「紗雪、ただいま」
夜中の23時30分。帰宅してすぐ、今までは右のリビングにまっすぐ向かっていたところ、左のベッドルームをまずは覗く。
そうして、PC机で今も待ってくれている彼女に、帰宅の挨拶をする。
ああ、“ただいま”という言葉、いつ以来だろう。実家暮らしの頃が最後なので、10年は経っている。
仕事柄、会社のノートパソコンと向き合う時間が長いので、待っていてくれた彼女はPC机でくつろいでくれているはずだ。
広がるゴシックドレスの裾、腕を伸ばし、手をしっかりとそろえ、脚の間にそっと手のひらを重ねて乗せるように。
背筋は伸ばし、優美な仕草で待ってくれているはずだ。
さあ、扉を開き、彼女とご対面…彼女の”おかえりなさい”で、プライベートの時間が始まるのだ。
「さ、さゆ、紗雪!?」
なんということだろう。
紗雪が倒れかけている。
いや、正確にはアクロバティックとでも言うのだろうか、水平飛行する某米国のヒーローのように、ただし横臥する姿勢で、机と水平に空中に浮いている。
自力で動いた! 超能力!? あり得ない。
まさか泥棒!? ぶつかった拍子に何かが?
とにかく、絶妙なバランスで浮いている紗雪を早く救出しなければ。
カバンを玄関に取り落とし、慌てて駆け寄ってみると、なんとなく何が起きたのかが分かった。
ドールスタンド、特にこの“股支え”というタイプは、U字の金属棒で脚の間から、お腹と背中にかけてを挟み込むようにして支えている。腰の後ろから輪っかをはめる“腰支え”タイプは、ドレスの上に金属棒が見えてしまうので、スカートの中に隠れるこちらが良いとのことだったのだが。
そうだ、“股支え”のU字の金属棒の上で90度、水平方向へ回転してしまったのだ。
支柱の金属棒に片脚がかかってくれたので、何とか滑落せず、奇跡的に水平を維持している。万が一それがなかったらと思うと、冷や汗が出てくる。
灰銀色の髪は床に向かって垂れ下がり、心なしか紗雪の視線が虚ろな気がする。
“オーナー、早く助けて〜、一日この状態で頭に血が〜”
淑女然とした言葉遣いも忘れ、助けを呼んでいるのだ。
とにかく急いで助けてあげなければ。そっと、痛くないように、脚を支柱から外し、U字の金属棒を抜き取るように。
ああ、無事腕の中に重みが。救出成功だ。
しかし、再びドールスタンドに戻しては同じことが起きる危険性が。かといって、仕事もあるので、一日中傍で見ていてあげることもできない。今日は地震もなかったはず。自然とこうなってしまったのだろう。
支柱にひもで結んであげる? そんなまさか、そのような発想すらありえない。安全のためとはいえ、美しい人形少女である紗雪を縛り付けるようなことなど…縛る…ぶるぶる、頭を振り、妄想を払いのける。なんだ…思春期の青年でもあるまいに。独身生活が長すぎた弊害だろうか、紗雪のあまりの美少女ぶりに気がおかしくなっているようだ。
「とにかく、まずは髪を整えて差し上げましょうね」
そうだ、机の隅にまた、座っていただけばよい。
ドールスタンドをどけ、PC机に。いや、ここではいけない。ウィッグスプレーを使ってあげる必要があるのだ。リビングの机に一緒に移動しよう。
脇に手を差し入れ、対面する形で抱き上げる。目線の高さで“たかいたかい”しているようではないか。
このまま移動しよう。髪が少し乱れていても、いや、乱れているからこそ、理想をただそのままに具現化しただけの被造物とは違う、生々しい美しさがある。思い通りにならない、それ故の隙から生まれる愛着。
“恥ずかしいから、そんなに見つめないで…”
いけない、人形少女のこのような姿をまじまじと見つめるなど。
乱れた前髪がかかる、藍緑色のハートアイをじっと見つめ、リビングへ。
「あ、痛」
彼女に集中するあまり、足元がおろそかになっていたようだ。ドアの下、沓摺の出っ張りに指先をぶつけてしまった。
しかし大丈夫、彼女はしっかりと抱えて差し上げたまま。ひりひりする指を無視し、リビングの隅に、昨夕初めての生誕の時のように座っていただく。
「まずはウィッグスプレーを軽くかけてあげるのでしたね」
小さな棒状の、噴霧器がセットになったスプレーを手に取る。
シュッシュ、と吹きかける寸前、気が付いてしまった。
「このまま吹きかけてしまうと、お顔にもかかりますね?」
材質は問題ないのだろうか。お顔のメイクを汚してしまうのでは。
ウィッグを外して、きれいに整え直す? 一時的とはいえ丸坊主に戻してしまうのは、人形少女に恥を与えないか?
お顔に布を当てて、守って差し上げる? 一昨年の祖母の葬儀を思い出してしまい、これもいまいち良案とは思えない。
どうすれば、どうして差し上げれば紗雪を守りつつ、ウィッグを整えて差し上げられるのだろうか!?
時間はすでに0時過ぎ。怜奈さんに伺うこともできない。かといって紗雪をこのままにするなど論外だ。
可愛い可愛いこの子に、惨めな思いをさせるなどあってはならないことだ。
そうだ、まずはとにかくウィッグスプレーを後回しとし、髪を整えて差し上げよう。
手櫛で乱れたツインテールを頭の横に戻す。
ブラシで前髪を、むむ、一度乱れたためだろうか。ウィッグが絡まりにくいとのことで入手した木製の、丸いブラシヘッドからつんつんと、先端が丸い木の棘が生えているブラシでは、小さな紗雪の前髪をうまく梳いてあげることができない。
「これはいけませんね」
紗雪が呆れたまなざしで私を見上げている気がする。
そうだ、私もこれでも長年IT営業を務めてきた男、いつも通り調べるのだ。ネットの海に飛び込み、情報を得よう。
そう気が付いた時にはすでに腕時計の針は午前1時を過ぎていた。
帰宅し、スーツも着たまま、コンビニ弁当の夕飯も玄関に置き去りに、何をしているのだろう、私は。
ああ、でも、翡翠色の瞳でじっと私を見つめる紗雪。このままにするなど言語道断。
大急ぎで身支度だけ済ませ、手早くPCを立ち上げ検索する。
「ふふふ、もう先ほどの私ではありませんよ!」
ウィッグスプレーについて、考えた方法は間違いではなかった。が、紗雪のことを思うと採りたくない手段であっただけ。ベストではないが、良い方法が見つかった。ティッシュや布にスプレーを吹きかけ、成分をしみこませたもので、ぽんぽんと、優しくウィッグに溶液を移してあげるのだ。ウィッグスプレーに含まれる成分の大半が損なわれるが、今は緊急措置なので致し方ない。
あとは、ウィッグスプレーではなく、お水でも十分という意見も出ていた。そのためには空になったウィッグスプレーの容器か、メイクアップ用の筆など、水を含ませるものが必要。今はどちらもない。
そして、ツインテールはバンスを取り、初めと同じように、しっかりと指に巻き付けて梳いてあげる。
最後に問題の前髪だが、まつげ用のブラシなるものが良いようだ。39歳男の独り身ではさすがにないので、明日買ってくることにして、今日は指でそっと整えてあげるにとどめよう。
「ああ、かわいい」
最近この言葉ばかりを発している気がする。語彙力の低下だろうか、いけない。しかし、実際に可愛いので仕方がないのだ。何度でも言おう、
「紗雪、貴女は本当に可愛い」
小首をかしげたようにちょこんと座る彼女が、そっと微笑み返してくれた。ああ、なんと愛おしい。
こういうのを世間一般では“いちゃいちゃ”と称するのだろうか。紗雪のあまりの可愛らしさに蕩けていたら、午前3時になっていた。
2時間眠って仕事に取り掛かるか、食事を諦めて3時間眠るか。よくある選択だ。
スタンドから滑落しかけた問題も先ほど調べたが、個人ディーラー様製作のドールスタンドでの代用、ひもで結ぶ、ドール用椅子に座らせるなど、少々取りづらい解決策か、今すぐにおは不可能な内容だった。今日は机に座っていただき、明日日中に怜奈さんへ、メッセージで相談させていただこう。
といけない、机の上は硬い。ベッドルームにも一緒に来てもらった紗雪、PC机の上にハンカチを折りたたみ、クッション代わりにさせていただいた。
「では、おやすみなさい、紗雪」
1食2食抜くのはいつものことだ。まどろみに落ちる寸前、そういえば写真を撮影し、TwikkerやSNSにアップする文化があると、怜奈さんがおっしゃっていたことを思い出した。カメラを買いに行くお約束もしていた。この前の自分で撮った写真はひどいものだった。それでも、机の上にはこの写真が飾ってある。怜奈さんが撮ってくれた一枚と共に。
「あちゃ〜、ナオさんあのままスタンドに立たせちゃいましたか。説明不足でしたね、ごめんなさい! 靴を履かせてあげて、摩擦を大きくしてあげると、転びにくいですよ」
「なるほど、確かに靴も選びましたね」
「歌姫ちゃんみたいなタイプの子だと、中でテンションをかけているゴムが緩かったりすると、関節とかが滑って、お辞儀して倒れたりみたいな事故もあるのですけれど。紗雪ちゃんタイプの子は関節つよつよなので、脚さえ滑らなければたいていは大丈夫です」
「ありがとうございます、早速今夜靴を履かせてあげてみますね」
ブーツタイプと、靴底の厚いロリータ靴なるものの2点を購入してある。
今のお洋服には後者だろうか。せっかくなのでお着替えもさせてあげたいのだが、時間的余裕がないとさすがに辛い。
その日の夜、無事靴を履かせてあげたところ、確かにドールスタンドの台座の上で靴下が滑るような感触も無くなり、安定したように思えた。
屋内だからと、履かせなかったのがいけなかったようだ。
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