第9話恐れと感謝の狭間
巨猿が地に沈んだ翌朝、村は異様な静けさに包まれていた。
死骸は森の奥へ引きずり込まれ、残ったのは潰れた柵と抉れた地面だけ。
村人たちはそれを見ながら、口々に囁き合っていた。
「ひとりで……あれを倒したのか」
「人の力じゃない」
「けど助かったのは事実だ」
感謝と恐怖。そのどちらもが混じった視線が、俺に向けられる。
昨日の戦いで負った傷は“死”によって消えていた。
そのこと自体が、すでに“人”を外れた証だった。
「レイン兄ちゃん!」
ロウが駆け寄ってきて、無邪気に笑う。
その笑顔に胸が救われる。
だが次の瞬間、母親に腕を引かれて引き離された。
「ロウ、近づきすぎるな」
冷たい声。俺の背筋が凍る。
守ったはずの命が、俺を遠ざける。
それが当然だと頭では理解しても、胸は痛んだ。
夕刻。村長
炉の火が揺れ、老人の影が壁に伸びる。
彼の目は昨日と同じ、鋭さと重さを湛えていた。
「お前の力は、ただの流れ者のものではない」
言葉に返せなかった。
本当は魔王軍にいた。だがそれを告げれば、すべてを失う。
沈黙を選ぶ俺を見て、オルドは深いため息を吐いた。
「……何も聞かん。ただひとつだけ言う。村を裏切るな」
その声は命令でも脅しでもなく、切実な願いに聞こえた。
俺はただ頷くことしかできなかった。
夜。
藁床に横たわりながら、窓の外を眺める。
月は静かに輝き、風が森を渡る。
巨猿を倒した力――死を経て得た強さ。
それは村を守る手段であり、同時に村を壊す火種にもなる。
「……いつまで隠し通せる」
呟いたその時。
門番の声が遠くから響いた。
「来訪者だ! 森を抜けてこちらに!」
眠気は一瞬で消えた。
窓の外、松明の光が近づいてくる。
鎧の音、複数の足音。
――領都からの使いか、それとも別の者か。
胸の奥で警鐘が鳴る。
俺の正体を暴く者が、ついに村へ足を踏み入れようとしていた。
門の方から人々の声が高まっていく。
松明の光に照らされ、数名の影が門を叩いていた。
村人たちは警戒しつつも、恐る恐る門を開く。
「旅の者だ。夜を越す宿を頼みたい」
先頭に立つのは若い男だった。外套に土埃をまとい、腰には剣。
その後ろに二人の仲間を連れている。どうやら冒険者らしい。
しかし俺の心臓は跳ね上がった。彼らの背に刻まれた紋章――それは領都の冒険者組合の印。
村人の間にざわめきが走る。
外から人が来るのは珍しいことだ。
だが俺にとって、それは危険の兆しだった。冒険者組合は仕事の依頼を通じて情報を集める。
魔王軍に籍を置いていた過去が、どこかで記録に残っている可能性がある。
「オルド殿。ここで一夜を明かさせてもらえぬか」
若い冒険者が丁寧に頭を下げる。
村長オルドは警戒を解かぬまま、短く頷いた。
「いいだろう。ただし村で騒ぎは許さん」
冒険者たちは安堵の息を吐き、焚き火の近くに腰を下ろした。
村人が食事を運ぶ間、彼らは森での出来事を語り始める。
「巨猿が出たと聞いた。もう片付いたと?」
「森の奥には、他にも獣の気配があったぞ」
「……それを退けたのは誰だ?」
会話の流れがこちらへ向く。
俺は思わず目を伏せた。だが、ロウが無邪気に口を開いた。
「兄ちゃんだよ! レイン兄ちゃんが巨猿をやっつけたんだ!」
場が凍りついた。
冒険者たちの視線が一斉に俺に注がれる。
ミレイユが慌ててロウの肩を押さえたが、時すでに遅い。
「……お前が?」
若い冒険者が目を細める。
俺は静かに頷いた。否定しても意味はない。
「信じがたいな。あの巨猿は熟練の冒険者でも手こずる。どうやって倒した?」
鋭い問い。
言葉を選び、俺は答えた。
「運が良かっただけだ。村の皆と力を合わせただけさ」
笑みを作る。だが冒険者たちは互いに目を交わし、なおも探るような視線を向けてきた。
その空気を裂いたのは、オルドの低い声だった。
「余計な詮索は無用だ。ここは村だ。客人なら礼を守れ」
冒険者たちは口を閉じた。だが疑念は消えていない。
火の粉が舞い、夜は静かに深まっていく。
その夜、俺は藁床で眠れなかった。
冒険者たちの気配が村にあるだけで、背筋に冷たいものが這い上がる。
もし彼らが“識別石”を持っていたら。もし魔王軍にいた痕跡を突きつけられたら。
考えるたび、拳が汗で濡れる。
「……俺は、ただの流れ者だ」
自分に言い聞かせても、不安は消えなかった。
窓の外では松明が揺れ、冒険者たちの笑い声が微かに響いていた。
月明かりに照らされた村は、平和そのものに見えた。
だが俺にとって、それは嵐の前の静けさにしか思えなかった。
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後書き
今回は巨猿を倒した余波と、村に現れた外からの訪問者を描きました。
救いと畏怖の入り混じる視線、そして新たな疑念。主人公の立場はますます危うさを増しています。
次回は、この訪問者たちがどのように物語を揺るがすのかを描いていきます。
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