第8話 背中の向こう側
その夜、「スナック源ちゃん」に現れたのは、背筋をまっすぐに伸ばした老人だった。
白髪に刻まれた深い皺、鋭い眼光——元騎士であることは一目で分かる威厳があった。
だが、その堂々とした外見とは裏腹に、彼の表情には深い悩みが影を落としている。
「......酒を一杯、頼む」
低く響く声に、源ちゃんは静かにジョッキを差し出した。
しばらく無言で酒を飲んでいた老人は、やがて重い口を開いた。
「......俺はガレス。元王国騎士だ」
その名に、バルドが反応する。
「ガレス? "鋼鉄の盾"のガレスか? 噂は聞いてるぜ」
「昔の話だ......」
ガレスは苦い表情を浮かべた。
「今は、孫娘と二人きりの生活だ。息子が戦場で死んで......あの子を引き取った」
その声に、深い痛みが込められていた。
「だが......最近、孫が俺を避けるようになった。口もきいてくれない」
ガレスの手が、わずかに震える。
「俺は、あの子を愛している。心から大切に思っている。でも......それをどう伝えればいいのか分からないんだ」
「俺は騎士として育てられた。『男は背中で語るもの』『感情を表に出すのは弱さ』......そう教え込まれてきたんだ」
ガレスは拳を握りしめる。
「だから、孫にも厳しくしつけることしかできない。『姿勢を正せ』『礼儀作法を守れ』......そればかりだ」
アキナが静かに口を挟んだ。
「でも、お孫さんはまだ子供でしょう? 厳しさより、温かさを求めてるんじゃない?」
「温かさ......」
ガレスの目に、戸惑いが浮かぶ。
「俺は、どうすればいいんだ? 孫に愛を伝えるには......」
源ちゃんが煙草の煙をゆっくりと吐き出し、ガレスを見つめた。
「ガレス......愛してるなら、ちゃんと声に出して言わなきゃ」
「な......なんだと?」
「背中は何も語らない。黙ってりゃ、相手には何も伝わらないんだよ」
その言葉が、ガレスの凝り固まった価値観に強烈な一撃を与えた。
「俺の長年の酒場通いでの持論だが、大切な人には大切だって、ちゃんと言葉で伝えないとダメなんだ」
「だが......騎士として......」
「騎士だから何だ? 孫娘の前じゃ、お前はただのおじいちゃんだろうが」
源ちゃんの言葉に、ガレスは言葉を失った。
「......歌を歌ってみませんか?」
アキナがマイクを差し出すと、ガレスは困惑した。
「俺が......歌を?」
「ええ。言葉で伝えるのが難しいなら、まずは歌で練習しましょう」
源ちゃんが後押しする。
「歌ってのは、心の扉を開く鍵なんだ。まずは自分の心を開かなきゃ」
震える手でマイクを握ると、ガレスは目を閉じた。
♪小さな手を~ 守りたくて~
最初は堅い、不器用な歌声だった。だが、歌ううちに彼の声は次第に柔らかくなっていく。
♪言えない想いが~ 胸にある~
それは、孫娘への愛を込めた、一人の祖父の歌だった。
技術的には決して上手くない。だが、その不器用さが、逆に彼の真摯な気持ちを伝えていた。
♪愛してる~ 君を愛してる~
歌い終えたガレスの目には、涙が光っていた。
「......できた」
ガレスが呟く。
「俺にも、言えるんだな」
「ああ。強い男ほど、優しい言葉が似合うんだ」
源ちゃんの言葉に、ガレスは深く頷いた。
「帰ったら......孫に言ってみる。『愛してる』って、『大切だ』って......」
バルドが肩を叩く。
「きっと喜ぶぜ、お孫さん」
「ああ......今度は、あの子の話もちゃんと聞いてみよう」
店を出る前に、ガレスは深々と頭を下げた。
「ありがとう。俺は......長い間、間違っていた」
「間違いじゃない。ただ、伝え方を知らなかっただけさ」
源ちゃんの言葉に、ガレスは安堵の表情を見せた。
「背中で語るのも大事だが、言葉で語ることも同じくらい大事なんだな」
そう言って、ガレスは店を後にした。
その背中は、来たときより温かく見えた。
「また一人、心を開いたわね」
アキナが微笑む。
「ああ。今頃、お孫さんと仲直りしてるかもな」
源ちゃんは窓の向こうの夜空を見上げる。
「スナック源ちゃん」は今夜も、硬く閉ざされた心の扉を開く鍵となったのだった——。
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