Z-3 「雑踏」


     *


 二階堂千香がまた、店舗限定特典を目当てに初回版BLコミックを予約しに来ていたことを、

 予約台帳を見て知ったぼくは──本当に好きだねえ。半ば呆れながら番線印を押し、出版社へと注文短冊を流した。

 今どき珍しいFAXが、紙を飲み込むのを目の端で眺めながら、反対の目で出版社から届いた案内チラシに目を通す。

 大手ではない、名前を聞いてもピンとこない出版社の物が多かった。その中に「よくわかるドリーム・ダイブ・アダプター」その文字を見つけ、おやと手に取った。

 おかげさまで重版決定。改訂版販売決定。そう書き添えるほど売れたのだろうが、それ、重版分が売れなくならないか? ぼくはチラシを丸めて捨てた。

 次の広告。

 大人も泣くという触れ込みの、感動絵本シリーズの最新刊が出るという。

 また売れるんだろうな。

 少しだけ考えて、ぼくはその紙を児童書担当者のロッカーに磁石で留めた。彼とはシフトが重ならない。


     *

     *

 

 明日は仕事を休む予定だった。

 日曜日に申し訳ない気がしないでもなかったが、理由が理由なだけに、まあ仕方がない。

 タイムカードを切って、自分のロッカーを開いた。脱いだエプロンを放り込み、財布を漁って、クリーニング屋の控えを取り出した。帰りに寄る予定だった。

 スーツが濡れなければいいな。


 むしろ──

 雨天中止にならないかな。


「大丈夫ですよ」

 頭の中で声がする。

「私、存外、晴れ女なんで」

 そうですか、と独りごちてぼくは裏口から店外へと足を踏み出す。

想定外の雨だった。でも── 

 法外なほどじゃない。続ける相手のいないやり取りは、そのまま雨粒に打たれて圏外へと流されていった。


     *

     *


 翌日は晴れだった。

 想像の彼女が言った通りだった。

 現実の藤崎はこう言った。

「来てくれたんですね!」

 招待したのはそっちだろう。

そう言いかけたけれど、あまりに野暮すぎたので、ぼくは控えて「ああ」とだけ答えた。背広姿が自分でも似合ってない気がして、照れくさくもあった。


 今日は藤崎いづみの結婚式だった。

 白無垢は彼女らしいと思った。

 その為に髪を伸ばしていたのだと気が付いた。トレードマークだったちょんまげは消え、今日は綿帽子の下できれいに和髪に結われている。巨大な白頭を支えて藤崎の顔に何かをしていた女性は、ぼくの姿を見て、一瞬間があったが頭を下げてから、控え室を出て行った。

 部屋には二人だけになった。椅子に座ったままの藤崎はうまく動けないのか、背筋をぴんと伸ばしたまま微動だにしない。

 少しだけ恥ずかしげに、だいぶ誇らしげに、彼女が尋ねてくる。

「どう……ですか?」

「おでこ出してる」

「うるさい」

 他に言うことありますよね、藤崎は大げさにふくれてみせた。

「旦那は? 先に挨拶しときたいんだけれど」

「向こうで係の人と話してましたよ」

「そっか」

「それより──在川、恵一、さ、ん?」

 呼び止められてぼくは振り返る。藤崎はふくれたままだった。

「花嫁のする顔じゃないぞ」

「私まだ言われてない、ん、で、す、け、ど?」

「そろそろ時間?」

「まだ平気……じゃなくって! これ! これこれ!」

 自分の頭を指差し、次はない胸の辺りを指し、ない胸反らせて露骨なアピール。ところどころに朱が入った装束。

「白いな」

「色の問題じゃない」

「高そうだ」

「値段でもなくって」

「重い?」

「結構ありますけど」

「暑そうだな」

「それはそうなんですけど」

「日本人っぽい」

「生粋だ!」

「スソ踏むと転びそうだ」

「それはそう! ですけど!」

「──綺麗だ」

 似合ってる。そう答えてやると、ようやく気が済んだのか、藤崎はうへへ、と声に出して笑った。

「ども、です」


 昨日の雨のせいで、外はあちこちぬかるんでいたけれど、式場に集まる方々の足取りは軽そうに見えた。

 白以外の──黄色や赤や青、色とりどりの花が咲いている。ドレスを着た女の子達の横を、親族らしい黒服(和装もそう言うのか?)の集団が通って行った。慌ただしく、騒がしくなってきたので、ぼくはロビーへと避難して、ソファに腰を下ろした。なんだか──

 どこか。

 現実感が無かった。


 ……これは嘘だ。

 もう一人の在川恵一が答える。

 ……嘘じゃない、これは現実だ。

 うるさい。

 周囲の喧騒がけたたましく、なればなるほど、ぼくの周りを包む空気だけがふくらんで、その中でぼくはなぜか浮力を失って、沈んでいくような気さえしていた。ぼうっと天井を見上げる。沈む。沈んでいく。落ちていくカンダタの気持ちに似ているのかもしれない。


 夢のようだった。

 夢だったら、と何度も思った。


     *

     *


 夢だった。

 夢なんだ、と何度も思った。

「……」

 起き上がってようやく、ぼくを起こしたアラームの音に気付く。目覚まし時計を押しつぶす。

だいぶ深い眠りだったみたいだ。手探りでDDAを探したが、そんな物はどこにもなかった。眼鏡をかけて探してみたが、やっぱりなかった。

「──オーロラ姫は、糸車の針で眠ってしまいましたとさ」

 夢うつつに考えていたことを口に出し、ぼくは顔を洗って仕事に行くため着替え始めた。確か職場に、グリム童話があったはず。

 大きなあくびをした時にはすでに、ぼくはどんな夢を見ていたのか忘れてしまっていた。

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