第七章 五話 神喰いの叛逆者
光の花弁が、雪のように降り続けていた。
月下の広間は白と紫と黒に染まり、踏むたびに細かな音を立てる。最奥に在る女神は、奪い返した月女神の義手をそっと撫で、まるで昔の友に再会したかのように微笑んだ。
「返してくれてありがとう、可愛い子達。……本来の“わたし”を、思い出せる」
彼女は弓を構えない。ただ、指先で空気を撫でた。
その軌跡に沿って光の粒が生まれ、矢の形に整列していく。次の瞬間、天蓋を滑る流星の雨となって一斉に降り注いだ。
「来るわ、全周!」
ティナの声が先に走る。
「障壁!」
クリスの両手が開く。幾重にも重なる光膜が仲間を包み、矢の角度を“受け流す”ように逸らしていった。硬く受け止めるのではない。斜めに、丸く、滑らせる。クリスが編み出した新しい形の守りだ。
それでも――速さが違う。
光矢の雨は角度を変え、密度を変え、次々に死角を刺してくる。
モルドは剣で数十本を叩き折り、残った数本を肩で受けて血を滲ませた。
ルーカスは指先で空気の流体を組み替え、矢の群れを渦で飲み、しかし一部に押し切られて片膝を床に落とす。
ティナは未来視の糸を手繰り、わずかにずらした位置で仲間に矢が届かぬよう声を飛ばす。
「クリス、右上! 次は斜め下からくる!」
「分かった!」
小障壁が三枚、薄いガラスのように重なり、矢の群れを“滑らせて”壁際へ逃がす。砕けた光は再び花弁へ変わり、広間を舞った。
セレーネは目を細める。
「ほんとうに器用ね、あなた。……ねぇ、あなたはどうしてそこまで傷だらけになって、それでも笑えるの」
呼びかけは、クリスへ。
クリスは息を整え、微笑んだ。
「決まってる。私は、カイムの隣にいたいから……だから守るの」
言葉は澄んでいた。
嘘が一滴も混ざらない透明さに、女神の微笑がわずかに揺れる。
「隣にいるため……それが、愛?」
セレーネは小さく首を傾げ、義手の甲を撫でた。
「愛おしいなら、壊したくなる。泣く顔が、一番綺麗――そう思ってきたのに」
彼女の足先が床を掠める。
月衝。光と闇が混じる衝撃波が低く広がり、石畳が波のように盛り上がってこちらへ押し寄せた。
「大障壁!」
クリスの前腕に走る神性の痛み。その痛みごと壁に変え、波を受ける。轟音。壁は軋む、ひび割れる、崩れかける――それでも、最後の薄膜が衝撃の角を丸め、仲間の足元を守りきった。
「……まだ、支えられるわ」
笑ってみせる。
その笑みは、カイムの胸の奥、名もない空白を僅かに熱で満たした。
「借りる!」
ルーカスが揺らぐ流れを掴み、逆方向の風圧を突き立てて波を薄める。
モルドが突っ込み、鎧の鳴動も構わず刃を振り抜く。
ティナの声が拍を刻む。「今! 上から二拍目、空く!」
濡羽色の剣に赤黒い稲妻が走る。
カイムは踏み込み、女神の守りへ切っ先を押し当てる――が、届かない。
僅かに触れても、花弁になって解ける。傷は“喰え”ないほど薄く、清らかにほどけていく。
セレーネの指先が撫でるだけで、別方向から光矢が噴き出した。
カイムは切り払う、喰らう、なお切り払う。だが一本が肩口に突き刺さり、視界が瞬きほど白く飛ぶ。
「カイム!」
クリスの掌が背へ触れ、温い光が血管を走った。
息が戻る。足が再び、床を掴む。
「ありがとう」
それだけ告げて、彼は前を見る。
セレーネは、まだ微笑んでいた。けれど――その笑みは先ほどより複雑で、陰りを帯びている。
「……わたし、間違っているのかしら」
独白のような声。
金の瞳に揺らぎが宿る。「壊して、泣かせて、愛を確かめて……それが正しいと思ってきたのに。あなたの笑顔は、泣き顔より綺麗だと……今、思ってしまった」
次の瞬間、彼女は自分自身に嫌悪するように眉をひそめた。
「……やめて。そんな考え、要らないわ」
翼が大きくしなり、衝撃が咆哮に変わる。
月衝が先ほどよりも荒く、重く、広間のすべてを薙いだ。
「――っ!」
障壁が砕け、床が弾け、石柱が倒れる。
モルドは背から壁に叩きつけられ、唸り声と共に崩れ落ちた。
ルーカスは胸で受けた衝撃に呼吸を奪われ、視界を泳がせたまま崩れ落ちる。
ティナは転がり、最後は瓦礫に背を預けて動きを止めた。
カイムは――飛ばされた先で、片膝と剣だけで姿勢を保っていた。
肩は血で濡れ、握る手が震える。
それでも立つ。その背に、すぐさま薄い光が寄り添う。
「カイム……!」
クリスが、膝を震わせながら彼の前に出た。
髪は粉塵で灰色に汚れ、唇は青い。けれど、その目だけはまっすぐで、強い。
「あなたは、まだ戦える。……だったら、方法を変えましょう」
カイムが視線だけで問う。
クリスは短く頷いた。
「私たちの神性を“喰って”。あなたの刃に、全部、変えて」
女神の視線が、わずかに尖る。
「自分の愛しい人に、あなた自身を食べさせるの? ……綺麗。残酷で、甘い」
「綺麗とか残酷とかじゃないわ。必要なの」
クリスは振り返る。
瓦礫の中でうめくモルド、目を閉じたまま肩で息をするルーカス、必死に気を繋ぐティナ。
彼らは、それぞれに小さく頷いた。もう立ち上がれないと悟ってなお、瞳に確かな光を灯して。
「……坊主、持っていけ」
モルドの声は掠れていたが、笑みが添えられていた。
「理屈はあとでいい。結論だけ言えば――今は、それが最善だ」
ルーカスは息の合間に言葉を押し出す。
「未来は一本。外しちゃだめ。……行って」
ティナが絞り出した声は、震えながらも真っ直ぐだった。
カイムは唇を結び、うなずいた。
「……全部、もらう」
濡羽色の刃を、ひとりずつの手へ。
触れたところから、温い光がしずかに吸い込まれていく。
聖騎士の堅牢――倒れない心臓。
術者の知――流れを掴む直感。
予見の導き――一拍先の足場。
そして、クリスの掌からは、やわらかな“在り続ける光”。隣に立つために灯し続けた火が、刃の芯に宿る。
彼女の光が刃に満ちた瞬間、膝が崩れる。
カイムが抱き留めるより早く、クリスは自分で笑ってみせた。
「……ん。大丈夫。……あなたなら、届く」
そのまま、彼女は意識を手放した。
モルドも、ルーカスも、ティナも――同じように、静かに倒れてゆく。
広間には、女神と剣士だけが残った。
*
カイムの剣が赤黒く燃え上がる。
触れた神性を喰らい、刃の芯で昇華させていく。
それは暴走ではなかった。仲間の光が溶け合い、叛逆の刃を炉心へと変えていた。
セレーネは白い喉を震わせ、静かに告げる。
「その光――綺麗。壊してしまいたくなるくらいに」
カイムは応えず、一歩、踏み出した。
赤黒い稲妻が刃の内側で渦を巻き、噛み合う歯車のような低い唸りが空気を震わせる。
女神の花弁が壁のように立ち上がる。カイムは斜めに刃を入れ、触れた端から喰い散らす。
衝撃波が横から叩き込まれる。剣の面で受け、すべらせ、床を蹴って一拍早く前へ。
光矢が雨脚を変え、背から刺そうと走る――振り返らない。ティナの導きが、もう刃の芯に溶けている。背後の矢は“知っている”角度で空に抜け、床に散った。
斬り結ぶ。
受け、流し、喰らい、返す。
互角。いや――僅かにセレーネが押している。
それでも、初めて女神は笑みを保ちながらも額に汗を滲ませた。
「……ふふ。面白い。あなた達の愛とやら、確かにここまで届くのね」
広間を揺らす剣戟と光の奔流。
互いに一歩も引かないまま――次の決着を予感させる緊張が張り詰める。
叛逆者と女神。
残された二つの光が、互いを照らし合っていた。
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