第六章 二話 悲しき矜持

空気が震えた。

 呪い、紫炎、荊――三つの気配が同時に膨張し、黒城の前庭が暗紫の幕に包まれていく。


「来る!」ティナが義手に触れ、息を詰める。「三方向、同時――重なるわ!」


 モルドが半歩、前へ。

 カイムが肩で呼吸を整え、剣を斜に構える。

 後ろでルーカスが短く頷いた。「解析する。クリス、俺の展開に重ねろ」


「準備できてる」

 クリスは答え、掌を組む。光が細い糸になって手の間を往復し、徐々に厚みを増していった。


 先に動いたのはモルガナだった。

 紫黒の霧が渦を巻き、城壁の陰から無数の呪符が浮かび上がる。

「――呪詛輪廻」

 微笑とともに、呪いの経路が空に円環を描いた。輪は幾重にも重なり、中心に向かって沈んでゆく。吸い込まれたものは劣化し、反転し、存在の意味を裏返される。


 続けざまにキャシーが跳ねる。

「いっくよー! 煉獄花!」

 地面に散った火の粉が一斉に芽を吹き、紫炎の花が咲き乱れた。花弁は熱と毒の霧を撒き散らし、重なり合って巨大な火柱に変わる。


 最後に、カトレアが視線だけで合図を送る。

「――荊地獄・極」

 石畳が爆ぜた。街路樹の根が裏返るように、地面の底から荊の森が一気に隆起する。槍、鞭、網、そして天蓋――全方位、全距離を同時に奪い尽くす殺意の幾何学。


 三つの奔流が、同じ一点――勇士たち――へ収束した。


「分解は不可能。整流する!」

 ルーカスが断じ、両手を開いた。

 見えない輪が三つ、彼の周囲に走る。呪いの“経路”、炎の“燃焼面”、荊の“張力”。混ざり合う前に位相をわずかにずらし、互いの干渉を封じるための術式の樋だ。

「クリス、ここに“面”を――重ねて!」


「――うん!」

 クリスの光が走り、ルーカスの描いた樋に沿って三層の障壁が咲いた。

 一層目は“受け流し”、二層目は“毒と呪いの除去”、三層目は“回復の逆流”。

 流体のように“しなる”盾が幾重にも重なり、三魔女の大技がぶつかる寸前で、流れの方向をずらし続ける。


「右下が空く、モルドは固定! カイム、角度三十で切り上げて!」

 ティナの声が矢継ぎ早に飛ぶ。未来視の光点が、仲間の立つべき位置を照らす。


「承知!」

 モルドが前で楔となり、剣の腹で圧を受け、肩と腰で押し返す。

「――はあぁっ!」

 重機のような唸りで棘の圧を僅かに遅らせ、その“遅れ”をカイムの一閃が切り上げ、障壁の斜面へ送り込む。流れは逸れ、呪詛輪がわずかに空を噛んだ。


 だが、煉獄花。

 紫炎の花柱が揺らぎを無視して膨張する。

「熱と毒、二重相。燃えながら滞る、厄介だな……!」

 ルーカスが唇を噛むと、キャシーが舌を出して笑った。

「うふふ、逃げ場ないよ? 舞台の真ん中、焦げて散って――き・れ・い!」


「散らす!」

 ティナが弓を引く。光矢が花柱の“芯”だけを次々と穿ち、炎の成長点を連鎖的に潰す。

「今!」

 クリスの第二層が強く輝き、毒霧を吸い上げ無毒化した光として第三層に流し込む。回復の風が仲間の肺を満たし、呼吸が戻る。


「……っしゃ、持ち直した!」

 カイムが肩で笑い、額の汗を拭いもせず前へ出る。

「坊主、まだ終わってねえぞ!」モルドが並ぶ。「踏ん張れ!」


 荊地獄・極が本番を見せる。

 天蓋と槍林の同時再成。崩した端から別の棘が芽吹き、破綻を許さない。


「再生が速い……!」

「根が深いの。地中で束になってる」

 ティナの声に重ねて、ルーカスが即答する。

「なら“束脈”を切る。地中三メートル、斜め二十五、……ここだ!」


 ルーカスが地を指す。

 カイムが迷わず踏み込み、モルドが剣を根へ叩き込む。

 “束”が一瞬だけ痺れ、棘の再生が止まった。


 そこへ、煉獄花がぶつかってくる。

 キャシーは笑いながら炎の花弁を弾ませ、熱風の壁で圧を押し増す。

「もっと、もっと燃えて!」


「クリス!」

「分かってる――受け流し、回復、固定!」

 障壁の角度が変わり、炎は横へ滑る。回復がカイムとモルドの筋へ流れ、固定の光が足場を補強する。


 それでも、呪詛輪廻。

 モルガナの輪が、光の層に触れるたびに意味を反転させようと軋む。

 彼女は、戦いの最中でも微笑みを崩さない。

「――私たちは、そう作られたの。止めるために産まれ、止めるために在る。あなたたちを、ここで」


 胸が痛む。

 カイムは喉の奥で声にならない声を呑み、剣を振り続けた。

 ティナは短く息を吸い、光の弓弦に集中を細く通す。

 モルドは歯を食いしばり、前だけを見る。

 クリスは唇を噛み、光の層を崩さぬよう掌を震わせながら織り続ける。

 ルーカスは視線を彷徨わせず、一点に針のような思考を刺した。


「――重ねるぞ、クリス」

「ええ。全部、受け止める」

 二人の声が重なった瞬間、前庭の空気が変わる。


 ルーカスは三つの流れを再び整流し、その境目を固定する式へと書き換えた。

 クリスは光の三層をさらに編み込み、層と層の隙間に“回復の糸”を縫い込む。

 受け流し、解毒・解呪、回復――それぞれの面がただの盾であることをやめ、呼吸する膜となって戦場全体を包み始めた。


「来るわ、第二波!」ティナが叫ぶ。「三つ、同期!」


 瞬間、世界が鳴った。

 呪いの輪が閉じ、炎の花が爆ぜ、荊の天蓋が落ちてくる。

 三つの大技が同相で重なり、押し潰すための音圧となって轟いた。


「――今!」

 ルーカスが境目を固定し、クリスが光を満たす。

 障壁は砕けない。滑らない。受け切る。

 毒は第二層で分解され、呪いは回路を外され、炎は熱だけを吐き出させられた。残った衝撃は、第三層の“逆流”で仲間の肉体へ生命力として返される。


 圧が、抜けた。


「……っ、はぁ……!」

 肩で息をする音がいくつも重なる。

 だが誰も倒れていない。


 広場の向こう。

 三人の魔女の膝が、同時に落ちた。


 最初に地をついたのはキャシーだ。

 紅いボブが顔にかかり、息を荒げながら、なお笑う。

「やるじゃん……。でもさ、次は、もっと……きれいに燃やすから」

 足元の炎はもはや彼女を支えられず、花弁は灰になって崩れ落ちた。


 モルガナは静かに目を伏せる。

 唇の紫が薄れ、滑らかな頬が少しだけ青ざめた。

「やっと、少し……楽に、なれる」

 呪詛輪はひび割れ、まるで古い陶器のように音もなく散ってゆく。


 カトレアは最後まで、姿勢を崩すまいとした。

 緑の瞳が細く輝き、唇が艶やかに弧を描く。

「……絡め取れなかった。悔しいわ」

 背中の荊がしおれ、黒い森は音もなく沈んだ。

 そして、彼女も膝を折る。


 静寂。

 風が、ひとつ鳴った。


 カイムは一歩、前へ出かけて止まる。

 刀身の縁がわずかに震えた。

 ――斬れる。今なら、斬れる。

 けれど、腕が上がらない。


「カイム」

 クリスの声はやわらかかった。

「……うん」

 カイムは剣を下ろした。

 モルドもまた、柄から手を離す。

 ティナは弓を消し、義手を胸に当てた。

 ルーカスはゆっくりと目を閉じ、術式を畳む。


 誰も刃を止めに入らない。

 ただ、誰も刃を――振り下ろさない。


 キャシーが仰向けに倒れ、空を見上げる。

「ねぇ……見て。舞台、灰が……きらきらしてる」

 彼女の声が幼い。

 モルガナは静かに微笑し、欠けた月のように目を閉じた。

「役目は……まだ、終わらない。けれど……今は、眠りたい」

 カトレアは片膝をついた姿勢のまま、王女のように優雅に首を傾ける。

「次は、絡め取る。……それが私たちの矜持」


 そのまま、三人は崩れ落ちた。

 斃れたのではない。

 ――力尽きたのだ。


 黒城の扉はなお閉ざされ、内部から低い唸りが聞こえてくる。

 空は鈍い灰色、風は冷たく、胸の痛みは消えない。


「……悲しい戦いだ」

 モルドが言う。

 誰も、反論はしなかった。


 クリスが歩み出て、三人それぞれの脈に触れた。

「大丈夫。生きてる」

 息をつき、仲間を見回す。

「ここで命を奪う必要はない。――行こう」


 ルーカスが頷き、術式の残滓を払う。

 ティナは未来視の霞を払い、義手に微かな光を宿す。

 カイムは剣を鞘に戻し、扉を見上げた。

 扉の向こうにいる“何か”を思い、胸の奥の空白が小さく疼く。


「開けるぞ」

 モルドが前に出る。

 四人は各々の位置へ。

 黒城の扉に、指先が触れた。


 ――その瞬間、鈍い鐘の音が城内から響いた。

 低く、重く、長く。

 挑発のようでもあり、通夜の合図のようでもあった。


 カイムたちは顔を見合わせ、ただ一度頷く。

 悲しみは、剣を鈍らせない。

 それでも――胸に刻む。

 彼女たちが立ち続けた理由を。矜持を。

 そして、その矜持を踏み越えて進む罪を。


 扉が、軋みながら開いた。

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