第五章 五話 揺らぐ平穏
――呪いの魔女モルガナが裂け目に飲まれ、姿を消した直後。
ヴェルーヴムの広場は、ひどく不自然な静けさに包まれていた。つい先ほどまで濃密に漂っていた瘴気は霧散し、まるで夢だったかのように空は澄んでいる。けれども、胸の奥に残った違和感が誰一人として口を開かせなかった。
「……逃げた、のか?」カイムが荒い息を整えながら剣を下ろす。
モルドは険しい表情で周囲を見渡し、低く唸った。
「いや……あれは退いた、というべきだろう。自らの意思でな」
クリスが眉をひそめる。「なぜ? あれだけ追い詰められていたのに……」
「わからん。だが、何か意図がある」ティナの声は震えていた。矢を番えたまま、なお周囲に目を配っている。
緊張の糸が切れたように、遠くからすすり泣く声が広がった。呪いに縛られていた人々が、次々と地に膝をつき、震える腕で互いを抱き合う。安堵と解放の波が遅れて街を包んでいく。
「助かった……」
「神よ……いや、勇士たちよ、本当にありがとう!」
人々は涙を流しながら駆け寄ってきた。子供が一輪の花を差し出し、老婆が震える手でカイムの腕を握る。
カイムは困ったように微笑み、剣を納めた。「……俺たちに礼は要らない。ここが守られたなら、それで十分だ」
だが胸の奥では、得体の知れない不安が燻っていた。
逃げたのではなく退いた――モルドの言葉が耳に残る。
*
人々の歓声が広場を満たす中、焚き火がいくつも起こされ、簡素な宴が整えられた。戦い抜いた勇士たちに食と温もりを捧げたい――それが街の者たちの総意だった。
だがその輪の端に、ひとり横たわる男の姿がある。
「……ルーカス」ティナが心配げに覗き込む。
彼はまだ意識を失っていた。魔霧雨を吹き払うために放った暴風は、想像を超える魔力を消耗させていたのだ。
クリスは膝をつき、額に手を当てて安堵の息を吐く。「大丈夫。呼吸は安定してるわ。もう少し休めば……」
その言葉どおり、夜半を過ぎた頃だった。
「……ん、ふあ……」
かすかな声と共に、ルーカスの瞼がゆっくりと開いた。
「ルーカス!」ティナの声が弾んだ。
「……お前、ようやく起きたか」カイムが苦笑しながら覗き込む。
「少し寝ただけだろ……」ルーカスは唇の端を上げた。「ちょっとばかり夢見が悪かったがな」
その軽口に、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。
モルドが腕を組み、呆れたように鼻を鳴らす。「人間にしてはしぶといな」
「騎士に言われたくはないな。俺は研究者だぞ」ルーカスは肩を竦めて返した。
クリスが微笑みながらも、厳しく釘を刺す。「無理はしないでね。次の戦いまでに完全に回復しなきゃ」
「わかってるさ」ルーカスは素直に頷いた。その声に嘘はなかった。
*
翌朝。
広場にはまだ瓦礫が残っていたが、街の人々は前を向いていた。夜明けの鐘が鳴り響き、子供たちの笑い声がかすかに戻ってきた。
勇士たちの出立を見送るため、老若男女が広場に集まる。
「どうか、またお戻りください!」
「あなたたちの勇気は、我らの誇りです!」
人々の声が背に響く。
ティナは何度も振り返りながら手を振り、クリスは笑顔で深く頭を下げた。カイムとモルドは黙って歩いたが、その背中は確かに民の信頼を刻み込んでいた。
ルーカスは杖代わりに長い木を手にしながら、疲れた笑みで呟いた。「……次は、イグニスタだな」
「そうだ」カイムが頷く。「あの街が荒らされているなら、急がなければ」
一行は新たな決意を胸に、ヴェルーヴムを後にした。
*
一方その頃――。
荒野を進むひとつの影があった。
長いローブは裂け、露出した肌には呪紋が剥がれ落ち、黒い液が滴っている。灰青の髪は乱れ、金の瞳はなおも妖しく輝いていた。
「人間ごときが……ここまで追い詰めるとは……」
声は掠れていたが、その唇には確かな笑みが浮かんでいた。
荊を杖代わりに一歩を踏み出す。足跡のたびに黒い滴が大地を焦がす。
「……あの方に……報告しなければ」
満身創痍の身体を引きずりながら、モルガナは夜の荒野を歩む。
紫に染まった雲が遠くで渦を巻き、禍々しい城の幻影がその先に浮かんでいた。
だが彼女がそこへ辿り着くのは、まだ先のこと。
残された余力は僅か、それでも彼女を動かすのはあの存在への忠誠と、燃え立つ憎悪だけだった。
ヴェルーヴムの街にようやく平穏が戻ったその時、次の災厄はすでに迫っていた。
――イグニスタの地で、炎の魔女キャシーが牙を剥こうとしている。
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