第三章 四話 幻惑の翼
「さあ――光の中へ還りなさい」
ガブリエルの柔らかな声が降り注いだ瞬間、それまで微動だにしなかった神官と兵士たちが、一斉に頭を上げた。
乾いた靴音が聖堂に響く。
兵士たちは剣を抜き、神官たちは聖典を掲げて祈りの句を唱え始める。その動きには恐怖もためらいもなく、まるで舞台で演じる役者のように整然としていた。
「来るぞ!」カイムが叫んだ。
兵士の列が一斉に駆け出した。
ルーカスが前に出る。指先が赤黒い光をまとい、空間に軌跡を描いた。
次の瞬間、圧縮された衝撃が奔流となって放たれ、兵士たちをまとめて弾き飛ばす。
鎧ごと壁に叩きつけられた者もいたが、呻き声一つ上げず、無表情のまま立ち上がってきた。
「……嘘だろ、こいつら……!」ルーカスの額に汗が滲む。
「倒れない……完全に操り人形だ」
カイムは剣で迫る兵士の斬撃を受け止めた。
刃が軋むほどの重さ。人間とは思えない力に押し込まれ、歯を食いしばる。
「くそっ……本当に人間かよ!」
ティナは広間の中央で瞳を閉じ、未来視に集中した。
視界に走馬灯のように「次の瞬間」が浮かぶ。
「カイム! 右からもう一人!」
カイムは反射的に剣を払った。横から迫っていた兵士の一撃を弾き返す。
「助かった!」
「まだ来るわ、ルーカス、後ろ!」
ルーカスが振り返り、片手を払う。赤い光の腕が空間に伸び、背後から迫る兵士を掴み、床に叩きつけた。
ティナの未来視は確かに仲間を守っていた。
だがその分、彼女の表情は次第に強張っていく。見える未来があまりにも多すぎたからだ。
――兵士に貫かれるカイム。
――赤い光に呑まれるルーカス。
――血に倒れるクリス。
無数の「死の未来」が錯綜し、ティナは思わず耳を塞ぐ。
「いや……そんな未来は……!」
その時、ガブリエルの声が再び降り注ぐ。
「怖れなくていいのです。皆さん、敵はあなた方の隣にいますよ」
空気が揺れ、視界が歪んだ。
次の瞬間――カイムの目に、剣を振りかざす「ルーカスの姿」が映った。
「なっ……!」カイムは慌てて剣を構えた。
ルーカスの方も同じだった。彼には「カイムが兵士の鎧を纏って迫ってくる」ように見えていた。
赤黒い光が彼の掌に収束する。
「やめろっ! 俺だ、カイムだ!」
「ふざけんな! 敵が何を言う!」
二人の攻撃が交錯し、閃光が散った。
クリスもまた幻惑に囚われていた。
ティナが兵士に見え、思わず手を掲げる。
「障壁」で仲間を守るはずの光の壁が、今まさにティナを閉じ込めようとしていた。
「惑わされるな!」
モルドの咆哮が響く。はっとしてクリスは障壁を消し、額に冷たい汗を滲ませた。
「……っ、危なかった……」
だが安堵は束の間、ガブリエルの囁きが再び心を侵し、今度はカイムが敵に見えた。再び光を展開しかける。
カイムの視界もまた、歪んでいた。
そこに立つのはクリスではない。血に塗れた兵士が剣を構えている――そう見えた。
体が勝手に動き、剣が振り上げられる。
クリスは恐怖で足がすくんだ。だが、次の瞬間――涙を浮かべながらも微笑んだ。
「カイム……」
声は震えていたが、愛しさだけは揺るがなかった。
「カイム、愛してるよ」
その言葉が、心の奥深くに突き刺さる。
忘れていたはずの記憶に触れたような感覚。胸が強く脈打ち、幻惑の霧が一気に吹き飛んでいく。
「――っ!」
カイムは寸前で剣を止め、荒い息を吐いた。
「クリス……俺は……」
「大丈夫」
クリスは涙を拭い、優しく微笑んだ。
だがその笑みの裏で、彼女の胸は張り裂けそうに痛んでいた。
その中で、最も深く幻惑に絡め取られたのは――モルドだった。
彼の瞳に映っているのは、巨大な魔物の群れ。
仲間など一人もいない。ただ、牙を剥いて迫る化け物ばかり。
「……っ、退けぇぇぇ!」
モルドの剣が振り下ろされる。鋭い刃は、クリスの背を狙っていた。
「――!」クリスは振り返り、凍りついた。
モルドの瞳には正気がなかった。
仲間の刃が迫る。
幻惑に囚われた騎士が、仲間を斬り伏せようとしていた。
その瞬間――聖堂全体が、張り詰めた沈黙に包まれた。
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