神喰いの叛逆者(リベリオン)
@Minoru0927
序章 第1話 異端者の街
ここは――神に支配されし国。
天の掟は絶対で、地上に生きる者はすべて、その眼差しから逃れられない。天使は空を巡り、路地を覗き、心の奥底に沈む影すら監視している。
憎しみ、疑念、反抗心――この国で「悪感情」とまとめて呼ばれるそれらを抱いた瞬間、人は見えない網にかかった魚のように、たやすく捕らえられる。最初に来るのは下級天使、すなわち兵隊。彼らは無表情で翼を広げ、無言のまま異端者の肩を掴む。抵抗すれば光の槍が飛ぶ。連れ去られた者の末路を、知る者はいない。民はそれを「浄化」と呼ぶが――戻ってきた者は一人としていなかった。
人々は、自らの心に蓋をする術を覚えた。怒りは微笑みで包み隠し、疑念は沈黙で呑み込む。祈りと服従だけが、生き延びるための作法として定着している。
畏怖の下に支配される国――それが、この地の理だ。
◇
サタニキアの市場は、朝から眩しかった。石畳は磨かれ、露店の天幕が色とりどりに風にはためく。焼きたてのパンの匂いに、蜜柑を剥く甘い香り、揚げ油の立つ香ばしい湯気。子どもが笛を吹き、旅芸人が拍手をもらって一礼する。
見渡せば幸福が過不足なく並んでいる。――ただし、それは「見せ方」を心得た幸福だ。広場の中央、高い台座の上に兵隊が二体、光を吸わない白の鎧で立っている。彼らの無表情は、笑い声の天井だ。どれほどの冗談も、あの視線を越えて高くは飛べない。
人波を縫って歩く青年の影が一つ。カイムだ。
肩にかけた粗布の袋は軽い。中身は空っぽ。視線は露店の小さな品物の上を右から左へ、落ち着きなく滑っていく。
(……決めないと。今日こそ、何か一つに)
並べられた小瓶の栓を指でまわし、ラベンダーの香りを嗅いでは戻す。銀細工の腕輪を手に取っては、値札を見て眉根を寄せる。
贈り物の相手はクリス。幼い頃から他人行儀を知らない幼馴染で――今は恋人だ。彼女の手首なら、この腕輪はきっと似合う。だが、似合うものが多すぎて一つに選べない。彼女の笑顔を思い浮かべると、胸の底がやわらかくなる。選べないのは、失敗したくないからだ、と彼は自覚していた。
(あいつは、きっと「どれでも嬉しい」って笑うんだろうけど……)
笑う彼女の像が胸の真ん中に灯る。その火が、別の冷たい影に撫で消される。
広場の中央に立つ兵隊の白が、視界の隅でまぶたを刺激した。
あの無機質な白は、どうしても好きになれない。
(……やっぱり、あいつら、嫌いだ)
心の底で、刃のような言葉が生じる。――次の瞬間、台座の上の兵隊の片方が、音もなく顔だけこちらを向けた。
視線が、ぶつかった。
寒気が背骨を走る。喉がひとりでに鳴った。
「……しまっ」
言葉の続きは、人のざわめきに呑み込まれた。兵隊が翼を払う。白光が肩口で爆ぜ、広場の空気が一段冷え込む。民衆は波打つように退き、道ができた。
誰のための道かは、見なくてもわかる。カイムは袋を握りしめ、反射的に身を翻した。
石畳が足裏に重たく響く。屋台と屋台の間をくぐり、垂れ幕の紐を肩で切り、背後から追ってくる規則正しい羽音に、心臓の鼓動が「間に合わない」と抗議する。
脳裏に浮かぶ顔がある。――クリス。
今、もしあの広場に彼女がいたら。もし、彼女の耳に、兵隊の宣告が届いてしまったら。
(巻き込むわけには、いかない)
焦燥が足を速くする。曲がり角のたびに陽光が薄くなり、やがて市場の音が遠ざかる。潮が引くみたいに、ざあっと、街の色が退いた。
行き止まり――石壁。左手、低い戸口。木は古く、板目はひび割れている。だが、隙間から淡い光が漏れていた。
カイムは短く息を吐き、躊躇を丸ごと飲み下して扉を押し開けた。
中は、冷たかった。
空き家の匂い――濡れた木、古い紙、煤の残り香。崩れた棚、床に散ったガラス片。梁から折れた縄が揺れ、窓には埃の重みで垂れた蜘蛛の糸。
ただ一つ、部屋の中央だけが奇妙だった。そこに、厚い革装の本がぽつんと置かれている。埃を被っていない。まるで、ついさっき誰かが拭いたみたいに。
「――なんだ、これ」
触れれば傷を負うと、どこかで知っている感覚があった。けれど、目を逸らすことの方が、もっと大きな傷になる、と別の直感が囁く。
兵隊の羽音が、外の通りに降りてきた。靴音が増える。時間はもう、選択を待ってくれない。
カイムは手を伸ばし、表紙を開いた。頁の縁に、細い触手のような影が走る。――空気がきしんだ。
冷たい闇が、床下から吐息のように湧き上がる。白昼のはずの室内で、温度が一段落ちる。
黒い霧が立ち上がり、ゆっくりと人の形を結ぶ。
『……よく開いたな、小僧』
声は柔らかいのに、喉の奥を氷で撫でられるような冷たさだ。
霧の中で深紅の双眸が灯り、笑んだ。
漆黒の外套は夜の切片。唇の笑みは、慈悲でも嘲りでもなく、ただ「興味」を映している。
「誰だ……」
『名を問うか。よろしい、礼節は嫌いではない。メフィスト――そう呼ばれている。
で、小僧。お前はここで何を望む?』
望み――その単語が胸に落ちると、心の奥で硬く張っていた何かがほどけた。
外では戸口を叩く音。兵隊が順に入ってくるまで、もう数呼吸だろう。時間の足音が背後で数え始める。
望む。
望まねば、ここで終わる。
終わるなら、巻き込む前に終わりたい――クリスを。
「……俺は」
喉の奥に刺さった棘の先が、言葉になって抜け出てくる。
「神や天使を――倒せる力が欲しい」
メフィストは愉快そうに目を細めた。紅の光が、焔のように瞳孔で揺れている。
『よく通る声だ。――ならば、代償は?』
代償。
この国で、何かを得るのに対価がいらない場面など、見たことがなかった。
何を差し出せば、彼らに追いつける? 何を失えば、彼らに手が届く?
気づけば、答えはもう口元にあった。
「記憶だ。全部、持っていけ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「怒りも、疑いも、全部だ。なくなれば――あいつらに気づかれないだろ」
メフィストの唇に、わずかな笑みが深く刻まれた。子どもが新しい玩具の仕掛けを見つけた時のような、純粋な楽しさが滲む。
『なるほど。理屈としては、悪くない。
――だが、小僧。全てを捨てれば、何のために剣を取るかも忘れるぞ』
「それで構わない。俺が剣を取るのは、今だ。今、ここで必要なんだ」
沈黙が、二人の間に落ちた。
扉の向こうで羽音が止む。取っ手が回る。次の瞬間、古屋の中に白光がなだれ込んでくるだろう。
『よかろう』
メフィストの指が、空気の上に何かを摘む仕草をした。
視界の端が暗くなる。頭の内側を、冷えた手がまさぐる。
引き抜かれていく――形と言葉をまだ得ていない、柔らかな記憶の断片。笑い声。砂埃。小さな手。名もない夕暮れ色。
(――あれ?)
足元が一瞬、宙に浮く。
しかし、底はすぐに戻ってくる。落ちきる前に抱き止められた、そんな奇妙な安堵。
メフィストの紅い瞳は、相変わらず愉しげだ。
彼は、何も説明しない。――だが、確かに「全て」ではなかった。奪われたのは、子どもの頃の記憶。
そして彼は、もうひとつ、何かを差し込んだ。冷たい膜のようなものが、心の深部にすっと敷かれる。悪感情の輪郭が、表面から見えなくなる。外に漏れない。悟られない。
代わりに、何かが静かに抜け落ちた。温かく、柔らかく、面倒で、かけがえのないもの――けれど、今の彼には名づけようがない。
『……これでいい。お前の求めた“いま”は守られた。
さあ、握れ』
言葉に導かれるより先に、右手が重みを感じた。
そこに、一本の剣があった。
黒――ただの黒ではない。湿った烏の羽を揉んだような、深い深い艶。角度を変えると、刃の内側で紫がかった鈍い光がゆらめき、周囲の明るさを吸い込んでいくようだ。
濡羽色の剣。
手に馴染む。指が柄を握るたび、心拍と同じ間隔で刃が微かに脈打った。
外で、扉の閂が弾けた。
白光が隙間からこぼれて床を舐める。兵隊の影が――二体、三体――音も少なく広がっていく。
『行け、小僧。望みは用意した。使い方は、お前の決意の形をしている』
メフィストの声は、相変わらず柔らかい。
振り返ったカイムの横顔に、迷いはなかった。胸のどこかに空洞がある気がする。けれど、その空洞の輪郭を確かめている暇は、今はない。
濡羽色の剣を低く構える。
扉が破れ、白が流れ込む。光の槍が生まれる音が、空気の歯車を回す。
カイムは一歩、床を蹴った。
この瞬間から、彼はもう、叛逆者だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます