第4話 瓊音もゆらに
やがて日が沈み、
ではこちらも嗜んでみようと、盃に酒を注いだところ、
「虚空津さま!」
ビクッと躰が反応して、おもわず盃を取り落としそうになった。
「このようなところに隠れて、何を呑もうとしていらっしゃるんです」
と酒筒をとりあげた。
「目聡いな……」
「お姿が見えないので、お探ししていたんです。女船にもいらっしゃらないし。」
「こっちのほうが面白そうだからな」
少なくとも、虚空津比売はそう考えていた。下枝は肩をすくめると、
下枝は隣に座り、
「虚空津さま、酒をたしなまれてもよいですが、先にこちらをお召し上がりください。間違っても、あのようになってはいけませんので」
と、蛙のように白い腹を出してひっくり返った男を指し示した。
「・・・ありがとう、下枝。下枝も食べるといい」
虚空津比売は、強飯を握ったものに手を伸ばした。
「では、ご相伴に与りましょうかしら」
下枝も、一つ、同じものを口に運んだ。
赤々と船上を照らす篝火と、衆をぬってかろうじて姿を捉えることができる、父と武内宿禰を、見るともなしにながめながら、虚空津比売は疑問を口にした。
「……
息長は、大和の豪族ではない。淡海、丹波、多遅摩。多くの
「
下枝は、指についた飯粒を丁寧に外しながら言った。下枝の夫は、父、宿禰王の
「纏向の大王は、もうかなりお年でいらっしゃるんですけど、まだ
「へえ」
纏向の
「抜きんでていたのは、
淤斯呂和気の大王の子の代を飛ばして、孫の仲津日子が舞台に引き出されてきたわけだ。ひとえに、小碓、すなわちヤマトタケルと
「武内宿禰様は、淤斯呂和気の大王の信篤い方だそうで、仲津日子様の後ろ盾を大王に頼まれたという話です」
手酌しようとした虚空津比売の手をぴしゃりとはたいて、下枝は虚空津比売の盃に酒を注いだ。虚空津比売は盃をあけて、蛸の串焼きを齧った。夜風が出てきて、虚空津比売の髪がさらさらと揺れる。
「……なんだか、よくわからないな」
大王の
だが、後ろ盾を頼まれたということは、武内宿禰は、仲津日子の母とは関係がないことになる。そう言い当てると、下枝は「そう、そのとおりなんです」と頷き、こめかみに指をあてて眉を引き絞った。
「……たしか、母君は両道入比売、
尊い血筋であることとひきかえに、後ろ盾となる豪族がいないということか。それはいったい、どのような生い立ちを過ごすことになるのだろう。
虚空津比売自身、父の元で育っているが、それは
「これはまた、もっとよくわからない噂なんですけれど……」
下枝はさらに言い澱んで、首を傾げた。
「・・・・・ああ、こんな事、比売様に申し上げてよいのかしら」
虚空津比売はつまらなさそうに横目で下枝をみやった。これは、言いたくてたまらないときの下枝の決まり文句だ。根も葉もない、奇想天外な話ほど、下枝は面白がってかならず虚空津比売の耳に入れようとする。
案の定、下枝は目を星のように輝かせながら、虚空津比売に耳打ちした。
「あの方、武内宿禰様は、いったい御幾つになられるのか、全くわからないのだそうです。大王の
想定していなかった話に、さすがの虚空津比売も
「いや、どう見たって、父様を少し老けさせたくらいだろう。淤斯呂和気の大王はもう歩くのがやっとなご年齢と聞くぞ」
下枝は頬に指先をあてつつ、しきりに眉をひそめて、
「ええ、仰る通り・・・なんですけど、もっと耳を疑うお話もあって。」
と、虚空津比売の耳元に再び唇を寄せた。
「なんと、先の、
伊久米の大王は、いまの淤斯呂和気の大王の父親にあたる。
虚空津比売は眉をしかめて下枝を見た。
「いくら噂でもほどがあるだろう」
「御もっともです。なんでも、
瓊玉。越の国でしか産出されない白緑の玉。その多くが勾玉に形作られ、色良く瑕のないものは、馬一頭とも等しく取引される。
「・・・・そんな」
つい先ほど、傍らに侍って話をしたばかりだ。そんなことがあれば、気付くはずだ。真横からのつよい日射しで影となった面差しは、あまりよく見て取れたわけではないが、果たして、そんな
「………確か、
誰しも、老いとともに髪が白くなっていくように、目からも色が抜けていく。それは、魂が弱まった証で、そうして弱まった魂は、最後に力尽きて、肉体から
「年齢が、眸だけには表れているとか?そんな馬鹿な・・・・」
といいかけた虚空津比売を、目にも止まらぬすばやさで制して、下枝は
その礼の先に視線を転じた虚空津比売は、思わず息を呑んだ。
星のまたたきはじめた夜空を背に、
「宿禰、どの………」
「ぶしつけをお赦し願えますか、虚空津比売。少し、お話をさせていただいても?」
気の、せいか?
目の高さが合ったところでふたたび見ると、彫りの深い顔立ちの眼窩に埋められた眸は、
「私の顔になにか、ついておりますかな」
可笑しそうに、武内宿禰は言った。
虚空津比売は、思いきって尋ねてみることにした。
「いや、さきほど、宿禰どのの眸が、瓊の色に見えたものだから。」
よどみのない物言いに、男は虚を突かれ、そして、軽やかな笑い声をたてた。
「は、は、は。……時折、そのようになることがあるようです。驚かせてしまいましたかな?おのれでは気付かぬものですから。」
眉間に指をあて、目を伏せて首を振る。
その仕草に、虚空津比売は、
「疲れて、おられるのか?何か、落ち着くものでも持ってこさせようか」
下枝に目をやった。下枝は、このはるばる大和から到来した、謎に満ちた
「では、なにか涼やかな薬酒なり、みつくろってまいります」
と、足早にその場を離れた。
残された武内宿禰は、下枝をとどめようとしたが、間に合わず、かたわらの虚空津比売に視線を戻した。
「お心遣い、いたみいります、虚空津比売」
「…いや……、長い旅路のうえ、今日はこの船で沖に出たと聞いたから」
父、
「お耳に入っておりましたか。お父君、息長の宿禰王どののご厚意で、湾から離れないところで、船をはしらせていただきました。この船は本当に素晴らしいですな。まさに
朗らかにほめそやす男に、虚空津比売は顔を曇らせた。
「それは、うらやましいな。……女は、船には乗せてもらえないんだ。こんな、海を
「ほう、それは……」
虚空津比売は、躰をひねらせて、船べりの柵に肘を預け、
「……比売は、もしや、外つ国に興味を持っておられるのですか?」
浪が磯を洗うように、海風が虚空津比売の結い零れた髪をなぶっていった。すねたような表情は、大人の御饗の座で、一族の兄比売として張りつめていたときに比べ、いとけなく、心根豊かな本性をのぞかせていた。
虚空津比売はしばし黙って海を見つめていたが、吹っ切れたような笑みをこぼし、
「ああ、ぜひ行ってみたい。女は、つまらない。郷うちから出るな、麗しく淑やかであれ、
……海の向こう、加羅の国には、女の首渠も多いと聞く。どうやって国を治らすのか、ぜひ話をしてみたい」
虚空津比売自身、これまで胸に秘めてきた思いだった。だが、こうして外つ海に繰り出す船に乗り、潮風を受け、果てなき
さながら、
「比売の御母君は、
虚空津比売は胸の高鳴りを抑えるように、胸元の衣をぎゅっと掴んだ。
「ああ、母は当麻の首長だが、大王の
鋭い
父の命の
武内宿禰は虚空津比売の思いの吐露を、興味深げに聞いていたが、ふと尋ねた。
「……比売様の今宵の装束は、その御意思を表しておられるのですか?よくお似合いでいらっしゃいますが」
男物の装束。かろやかな藤色の薄絹を帯に使い、息長の
虚空津比売はみずからの装いを見なおし、破顔一笑した。
「ああ、違うんだ、これは。」
虚空津比売は、すっと立ち上がって見せた。杉や檜のように、天を突くようなすらりとした立ち姿。
「わたしはほら、これだろう。背が伸びすぎてしまって、用意していた裳の裾が短くなってしまったので、急拵えに父の装束を借りたんだ。」
父の宿禰王は、虚空津比売とつりあうほどには身の丈がある。
「よく、お似合いでいらっしゃいます。」
虚空津比売は再び腰を下ろして、置いたままになっていた杯の酒をくいっと干した。息長の族の男たちは、虚空津比売の装いをこのように褒めてくれることはない。また雲を突く姉比売が、といつもあきれ顔だ。
「比売ならば、きっとその思いを叶えられるでしょう。この角鹿は、母君、高額比売の
「そうだ。本来なら母の
虚空津比売は、くすっと微笑った。この角鹿から入る
「虚空津比売、」
武内の宿禰はそれまでの穏やかな笑みを消し去り、鋭く視線を飛ばしてあたりをはばかると、顔を寄せ、声を低めた。
「比売、大和の地に大王が都するよりもいにしえに、この
夜空を映す虚空津比売の眸が、大きくみひらかれた。
ほんの一瞬、武内の宿禰の双眸に瓊玉の白緑が宿り、失せた。
心の臓をぎゅっと掴まれたような痛みに貫かれ、虚空津比売はそれをごまかすように、詰まる息を短く吐きながら、は、は、と笑った。
「へえ、……そんなことがあったのか?すごいな、私もなれるだろうか。でも、なぜ宿禰殿はそんな話を知っているんだ」
「それは……」
そのとき、絹を裂くような叫びが、夜の海にこだました。
隣の船、婦女用にしつらえられた船からだ。異変に気付いた
騒ぎはたちまち大きくなって、小さくだがかろうじて、言葉の断片が聞き取れた。
「綺戸比売様!」
「……
「
甲板を照らす篝火が、あわてふためいた人々の動きを照らしだしていた。
「……綺戸?……、綺戸が……!綺戸になにかあった」
虚空津比売は蒼ざめて立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるように歩き始めた。武内宿禰は慌ててその腕を掴み、ひきとめた。
「なりません!お行きになられては!」
「宿禰殿…………」
たじろいで、呆然と見返す虚空津比売は、強い意志を滲ませながら奔放に夢を語った少女ではなかった。あの騒ぎ、薬師と祝部を呼び立てる声が、綺戸比売に死と間近い異変が起きたことを告げ、それをただしく理解したがゆえに、驚きとおそれに
「このようなときこそ落ち着かれなくてどうします。すぐに、
死の穢れは、すぐに広がる。
わかっているから、いてもたってもいられない。だが、とどめる武内宿禰の手を振り払うほど頑是ない子どもでもなかった。
武内の宿禰の言った通り、ほどなくして、血相を変えた下枝が人だかりをかきわけるようにして戻ってきた。武内の宿禰に一礼したのち、
「比売様、綺戸比売様に異変があったようです。すぐにも、宿禰王様が戻られます。」
と告げた。詳しいことは、宿禰王が話すということだろう。なにしろここには大王の
すっかり酔いの冷めた人の群れが、さっと左右に割れて、表情を厳しくひきしめた宿禰王が進み出てきた。日頃温和な、笑みを絶やさぬ
彼はまず武内の宿禰に相対し、すっと頭を下げた。
「申し訳ない、武内どの。……娘が、綺戸が急に倒れたと報せがありました。薬師にみさせていますが、おそらく貝の毒にあたったか・・・・。申し訳ないが、宴はまた改めてということで、今宵は船を降りて、泊の館にお戻りいただきたい」
武内宿禰も、すみやかに礼を返した。
「それは、さぞ気がかりでありましょう。我々のことは、気遣い無用。比売ぎみをおいといください」
視線をやると、伴人が応じて、船を降りる準備を始める。なかには、飲んだくれて、床に転がったのを引き起こしている姿もあるが。
宿禰王の
それを見送ると、宿禰王は虚空津比売にむきなおった。
「虚空津、おまえも、下枝と船を降りて、館で待ちなさい。下枝、頼んだぞ」
有無をいわせぬ口ぶりが、綺戸がどれほどあやういことになっているかを如実に示していた。
「かしこまりました、」
下枝の声も硬い。
宿禰王は、ふわりと、口元を緩めた。彼は娘の頬に手を伸ばして触れ、
「薬師も、祝部もかけつけている。
そう言い置くと、宿禰王は
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