第4話 瓊音もゆらに

 やがて日が沈み、天穹そらが蒼みを増し、くらくなるにつれて、奴婢まかたちたちが、忙しく篝火の準備を始めた。宿禰王すくねおうはいったん宴の場をほどき、娘たちに、「これからはますます乱事なめりごとになろうから、女たちのために用意した船にひきあげてもよい」と言った。

 綺戸比売あやどひめは、気が咎めつつも父の言葉に従うことにしたようだ。酒に酔った男たちが思い思いにうたいを始めたり、相撲すまいを始めたりするさまは、狂暴あらびていて少し怖かったし、大王の遣使つかいぎみの前ではせっかくの御馳走もあまり食べれてはいなかった。

 虚空津比売そらつひめは、由利女が綺戸比売あやどひめに付き添って、隣の船に移るのを見送ると、気をあらためて甲板を見回した。船の舳先に、ぽっかりとちょうどよく空いた場所を見つけて、落ちている茣蓙ござを拾い、そこに陣取る。忙しく給仕をして回っている女から、ちょうどよく、蛸の串焼きと、酒筒を手に入れることができた。

 主賓あるじのせきから遠いところでは、酒に酔いつぶれた男たちが、衣服をはだけて大声で笑ったり、仰向けになって大いびきをかいていたりしている。酒の酌をさせようと、女をあれこれ吟味している男、あるいは、伴人に、見目好い女をあえて侍らせようとする息長の長老の姿も見て取れた。

 ではこちらも嗜んでみようと、盃に酒を注いだところ、

「虚空津さま!」

 ビクッと躰が反応して、おもわず盃を取り落としそうになった。下枝しづえだ。下枝はあたりを憚るようにしながら急ぎ寄ってきて、

「このようなところに隠れて、何を呑もうとしていらっしゃるんです」

 と酒筒をとりあげた。

「目聡いな……」

「お姿が見えないので、お探ししていたんです。女船にもいらっしゃらないし。」

「こっちのほうが面白そうだからな」

 うからの男たちの立ち居振る舞い。誰が誰と群れるのか。見物するには、またとない機会だ。父の宿禰王の装束を借りた姿であれば、手纏たまきや頸飾りなどを外してしまえば、上背もあいまって、もろびとに紛れることができる。

 少なくとも、虚空津比売はそう考えていた。下枝は肩をすくめると、端女はしためを呼びよせて、何事か耳打ちした。彼女は頷くと、小豆を一緒に炊いた強飯こわいいと、干した鯵の焼き物を運んできて、虚空津比売の前に置いた。

 下枝は隣に座り、

「虚空津さま、酒をたしなまれてもよいですが、先にこちらをお召し上がりください。間違っても、あのようになってはいけませんので」

 と、蛙のように白い腹を出してひっくり返った男を指し示した。

「・・・ありがとう、下枝。下枝も食べるといい」

 虚空津比売は、強飯を握ったものに手を伸ばした。

「では、ご相伴に与りましょうかしら」

 下枝も、一つ、同じものを口に運んだ。

 赤々と船上を照らす篝火と、衆をぬってかろうじて姿を捉えることができる、父と武内宿禰を、見るともなしにながめながら、虚空津比売は疑問を口にした。

「……武内宿禰たけしうちのすくねって、纏向まきむくの都では、父様以上に有力なんだろうか」

 息長は、大和の豪族ではない。淡海、丹波、多遅摩。多くの領主くにぬしを束ねる豪族として隠然たる力を持っているものの、父の宿禰王が大和を訪れるのは、年に2度ほど。大王のまつりごとに深くかかわっているわけではないと思う。

ひこじから聞いた話では、なんとも複雑なようですねえ」

 下枝は、指についた飯粒を丁寧に外しながら言った。下枝の夫は、父、宿禰王の伴緒とものおの一人だ。纏向への歳改まりの挨拶にも同行していた。

「纏向の大王は、もうかなりお年でいらっしゃるんですけど、まだ日継ひつぎみこを決めかねているそうなんです」

「へえ」

 纏向の淤斯呂和気おしろわけの大王は、筑紫洲つくしのくにをみずからことむけてきた、往年の武人いくさびとだ。生きながらにして、数多くの言い伝えをもっている。多くの豪族の娘を娶り、比古も比売も、数え切れぬほど多い。

「抜きんでていたのは、小碓おうす様。いとけないころから、あまたの戦功いさおしをたて、ヤマトタケルと謳われた方ですから比売様もご存じでしょう。けれども早くにお亡くなりになられて。大王には他に多くのみこがたがいらっしゃるのですけど、どなたも凡庸……、あら言い過ぎですね、でも、これぞという方がおられない。そこで引き合いに出されたのが、小碓おうす様のみこ仲津日子なかつひこ様なんだそうです。」

 淤斯呂和気の大王の子の代を飛ばして、孫の仲津日子が舞台に引き出されてきたわけだ。ひとえに、小碓、すなわちヤマトタケルと言祝ことほがれたされた父親の威光に包まれてということだが。

「武内宿禰様は、淤斯呂和気の大王の信篤い方だそうで、仲津日子様の後ろ盾を大王に頼まれたという話です」

 手酌しようとした虚空津比売の手をぴしゃりとはたいて、下枝は虚空津比売の盃に酒を注いだ。虚空津比売は盃をあけて、蛸の串焼きを齧った。夜風が出てきて、虚空津比売の髪がさらさらと揺れる。

「……なんだか、よくわからないな」

 大王のみこの後ろ盾となるのは、その産みの母のうからである。住まいする宮処みやどころも、与えられる教育も、養育のすべてを、母のうからが担う。だからこそ、そのみこが大王となったとき、母のうからは大きな力を持つのだ。

 だが、後ろ盾を頼まれたということは、武内宿禰は、仲津日子の母とは関係がないことになる。そう言い当てると、下枝は「そう、そのとおりなんです」と頷き、こめかみに指をあてて眉を引き絞った。

「……たしか、母君は両道入比売、先代さきの大王の比売とか」

 尊い血筋であることとひきかえに、後ろ盾となる豪族がいないということか。それはいったい、どのような生い立ちを過ごすことになるのだろう。

 虚空津比売自身、父の元で育っているが、それは同族ともがらゆえのことだ。

「これはまた、もっとよくわからない噂なんですけれど……」

 下枝はさらに言い澱んで、首を傾げた。

「・・・・・ああ、こんな事、比売様に申し上げてよいのかしら」

 虚空津比売はつまらなさそうに横目で下枝をみやった。これは、言いたくてたまらないときの下枝の決まり文句だ。根も葉もない、奇想天外な話ほど、下枝は面白がってかならず虚空津比売の耳に入れようとする。

 案の定、下枝は目を星のように輝かせながら、虚空津比売に耳打ちした。

「あの方、武内宿禰様は、いったい御幾つになられるのか、全くわからないのだそうです。大王の日継ひつぎのころからお仕えしているのに、まったくお年を召した様子がないとか」

 想定していなかった話に、さすがの虚空津比売も咄嗟とっさには理解が及ばなかった。齧りかけていた蛸を咀嚼し呑みこむまで、何度も下枝の言葉を頭で何度か反芻して、ようやく口を開いた。

「いや、どう見たって、父様を少し老けさせたくらいだろう。淤斯呂和気の大王はもう歩くのがやっとなご年齢と聞くぞ」

 下枝は頬に指先をあてつつ、しきりに眉をひそめて、

「ええ、仰る通り・・・なんですけど、もっと耳を疑うお話もあって。」

 と、虚空津比売の耳元に再び唇を寄せた。

「なんと、先の、伊久米いくめの大王様にもお仕えしていたとか。」

 伊久米の大王は、いまの淤斯呂和気の大王の父親にあたる。

 虚空津比売は眉をしかめて下枝を見た。

「いくら噂でもほどがあるだろう」

「御もっともです。なんでも、少彦名すくなひこなの神から授かった仙丹を飲んでしまい、年を取らぬようになったとか、ご自分ではそう仰っているそうですよ。その証拠にあの方の眸は、ときおり、瓊玉ぬなだまのように光るとか」

 瓊玉。越の国でしか産出されない白緑の玉。その多くが勾玉に形作られ、色良く瑕のないものは、馬一頭とも等しく取引される。

「・・・・そんな」

 つい先ほど、傍らに侍って話をしたばかりだ。そんなことがあれば、気付くはずだ。真横からのつよい日射しで影となった面差しは、あまりよく見て取れたわけではないが、果たして、そんなあやかしがあっただろうか。覚えているのは、深みのある声、薄く蓄えられた髭。

「………確か、由良度美ゆらどみのおばあさまが、年を重ねると黒目のふちが青白く濁ってくると仰ってたけど・・・」

 誰しも、老いとともに髪が白くなっていくように、目からも色が抜けていく。それは、魂が弱まった証で、そうして弱まった魂は、最後に力尽きて、肉体から遊離はなれてしまうのだと教えられた。だが、それは老いた者には必ず訪れる変化だ。そんな噂になるようなことではい。一人が見たのなら、見間違いや光の射し具合と言えるが、噂になっているからには、複数の者が見たのだろうか。

「年齢が、眸だけには表れているとか?そんな馬鹿な・・・・」

 といいかけた虚空津比売を、目にも止まらぬすばやさで制して、下枝は貴人あてびとに対する礼を取った。

 その礼の先に視線を転じた虚空津比売は、思わず息を呑んだ。

 星のまたたきはじめた夜空を背に、瓊玉ぬなだまを嵌めたような白緑の双眸が、こちらを見下ろしていた。

「宿禰、どの………」

「ぶしつけをお赦し願えますか、虚空津比売。少し、お話をさせていただいても?」


 武内宿禰たけしうちのうすくねは穏やかに微笑み、そして、虚空津比売がいらえを与える前に、隣に腰を下ろした。

 気の、せいか?

 目の高さが合ったところでふたたび見ると、彫りの深い顔立ちの眼窩に埋められた眸は、もろびとにありがちな、煤竹色をしていた。

「私の顔になにか、ついておりますかな」

 可笑しそうに、武内宿禰は言った。

 虚空津比売は、思いきって尋ねてみることにした。

「いや、さきほど、宿禰どのの眸が、瓊の色に見えたものだから。」

 よどみのない物言いに、男は虚を突かれ、そして、軽やかな笑い声をたてた。

「は、は、は。……時折、そのようになることがあるようです。驚かせてしまいましたかな?おのれでは気付かぬものですから。」

 眉間に指をあて、目を伏せて首を振る。

 その仕草に、虚空津比売は、

「疲れて、おられるのか?何か、落ち着くものでも持ってこさせようか」

 下枝に目をやった。下枝は、このはるばる大和から到来した、謎に満ちた遣使つかいぎみと虚空津比売を二人だけにしてよいものか、躊躇していたが、

「では、なにか涼やかな薬酒なり、みつくろってまいります」

 と、足早にその場を離れた。

 残された武内宿禰は、下枝をとどめようとしたが、間に合わず、かたわらの虚空津比売に視線を戻した。

「お心遣い、いたみいります、虚空津比売」

「…いや……、長い旅路のうえ、今日はこの船で沖に出たと聞いたから」

 父、息長おきなが宿禰王すくねおうから聞かされた話では、大和から遠路をいとわずやってきたこの男の目的は二つ。大王の日継ひつぎの候補の一人である仲津日子の妻求ぎの下見、そしてもうひとつは大王みずから北つ海の交易に乗り出すための船の下見だ。

「お耳に入っておりましたか。お父君、息長の宿禰王どののご厚意で、湾から離れないところで、船をはしらせていただきました。この船は本当に素晴らしいですな。まさに浮宝うくたからというべきものです。」

 朗らかにほめそやす男に、虚空津比売は顔を曇らせた。

「それは、うらやましいな。……女は、船には乗せてもらえないんだ。こんな、海をわたるための大きな船には。」

「ほう、それは……」

 虚空津比売は、躰をひねらせて、船べりの柵に肘を預け、くらい海原を見据えた。海原の果てるところ、緩やかに弧を描く、あめ滄海あおうみの境。そのさきに、想像もつかぬほど広い、大陸おおくがが横たわっているという。北に進めば、氷が浮かび海獣を獲って暮らす人々、南には、珊瑚が茂る華やかな海、大陸おおくがには、鉄や青銅を様々に加工する技術、つややかな練り絹を織るわざ、そして言葉を伝えるための文字があると聞かされている。

「……比売は、もしや、外つ国に興味を持っておられるのですか?」

 浪が磯を洗うように、海風が虚空津比売の結い零れた髪をなぶっていった。すねたような表情は、大人の御饗の座で、一族の兄比売として張りつめていたときに比べ、いとけなく、心根豊かな本性をのぞかせていた。

 虚空津比売はしばし黙って海を見つめていたが、吹っ切れたような笑みをこぼし、

「ああ、ぜひ行ってみたい。女は、つまらない。郷うちから出るな、麗しく淑やかであれ、殿舎やかたうちのことだけ取り仕切ればよい。そう言われる。口にすることといえば、誰と誰が歌垣でどうのと、そういうことばかりだ。

 ……海の向こう、加羅の国には、女の首渠も多いと聞く。どうやって国を治らすのか、ぜひ話をしてみたい」

 虚空津比売自身、これまで胸に秘めてきた思いだった。だが、こうして外つ海に繰り出す船に乗り、潮風を受け、果てなき大滄海おおうなばらを感じてしまったからには、強く灼けつくような思いに突き動かされていた。

 さながら、火之炫毘古ほのかがびこ迦具土神かぐつちのかみを呑みこんでしまったように。

「比売の御母君は、当麻たいまの郷の首長であられますな」

 虚空津比売は胸の高鳴りを抑えるように、胸元の衣をぎゅっと掴んだ。

「ああ、母は当麻の首長だが、大王の御舎みあらかのある纏向と行き来するだけで、滅多に郷をでない。父やわたしたちに会いに淡海に来たのも、かぞえるほどだ。大和のくにうち、当麻と纏向が、母のすべてだ。私は、海を越えて、彼の国々をこの眸で見たいんだ」

 鋭い御佩刀みはかしが閃くように、虚空津比売の視線が武内宿禰をまっすぐにとらえた。

 父の命の事依ことよさしに抗い、青山は枯れ、河も海も枯れ干させるほどに哭きいさちる神のごとくに。

 武内宿禰は虚空津比売の思いの吐露を、興味深げに聞いていたが、ふと尋ねた。

「……比売様の今宵の装束は、その御意思を表しておられるのですか?よくお似合いでいらっしゃいますが」

 男物の装束。かろやかな藤色の薄絹を帯に使い、息長の兄比売えひめにふさわしい華やかさだが、意表を突かれたのは確かだ。

 虚空津比売はみずからの装いを見なおし、破顔一笑した。

「ああ、違うんだ、これは。」

 虚空津比売は、すっと立ち上がって見せた。杉や檜のように、天を突くようなすらりとした立ち姿。

「わたしはほら、これだろう。背が伸びすぎてしまって、用意していた裳の裾が短くなってしまったので、急拵えに父の装束を借りたんだ。」

 父の宿禰王は、虚空津比売とつりあうほどには身の丈がある。

「よく、お似合いでいらっしゃいます。」

 虚空津比売は再び腰を下ろして、置いたままになっていた杯の酒をくいっと干した。息長の族の男たちは、虚空津比売の装いをこのように褒めてくれることはない。また雲を突く姉比売が、といつもあきれ顔だ。

「比売ならば、きっとその思いを叶えられるでしょう。この角鹿は、母君、高額比売の祖先みおやにして、加羅の国から渡ったと言い伝えのある、都怒我阿羅斯等つぬがあらしとが開いたといわれますな」

「そうだ。本来なら母の領有うしはく郷、……母様は、見向きもしないけれど」

 虚空津比売は、くすっと微笑った。この角鹿から入る舶来わたりの品々、白銅ますみの鏡、高志の瓊玉、ひぐまの毛皮……、多くの珍かな品々が当麻の母のもとに送られている。

「虚空津比売、」

 武内の宿禰はそれまでの穏やかな笑みを消し去り、鋭く視線を飛ばしてあたりをはばかると、顔を寄せ、声を低めた。

「比売、大和の地に大王が都するよりもいにしえに、この秋津洲あきつしまらす女大王めのおおきみがおり、大陸おおくがを治らす魏の都に遣いをつかわしたことがあります。女人おみなびとでも氏の上として立ち、まつりごとを行う、それは夢物語ではありません。」

 夜空を映す虚空津比売の眸が、大きくみひらかれた。

 ほんの一瞬、武内の宿禰の双眸に瓊玉の白緑が宿り、失せた。

 心の臓をぎゅっと掴まれたような痛みに貫かれ、虚空津比売はそれをごまかすように、詰まる息を短く吐きながら、は、は、と笑った。

「へえ、……そんなことがあったのか?すごいな、私もなれるだろうか。でも、なぜ宿禰殿はそんな話を知っているんだ」

「それは……」

 そのとき、絹を裂くような叫びが、夜の海にこだました。

 隣の船、婦女用にしつらえられた船からだ。異変に気付いたもろびとが、右往左往し、あちらの船だと指さしながら集う。水手かこたちが慌てて、船の片側に寄るなと大声で怒鳴る。

 騒ぎはたちまち大きくなって、小さくだがかろうじて、言葉の断片が聞き取れた。

「綺戸比売様!」

「……薬師くすし、薬師を!!

祝部はふりべを!はやく!」

 甲板を照らす篝火が、あわてふためいた人々の動きを照らしだしていた。


「……綺戸?……、綺戸が……!綺戸になにかあった」

 虚空津比売は蒼ざめて立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるように歩き始めた。武内宿禰は慌ててその腕を掴み、ひきとめた。

「なりません!お行きになられては!」

「宿禰殿…………」

 たじろいで、呆然と見返す虚空津比売は、強い意志を滲ませながら奔放に夢を語った少女ではなかった。あの騒ぎ、薬師と祝部を呼び立てる声が、綺戸比売に死と間近い異変が起きたことを告げ、それをただしく理解したがゆえに、驚きとおそれに魂遊離たまがけりかけていた。

「このようなときこそ落ち着かれなくてどうします。すぐに、従女とものめどのが知らせをもって戻られましょう」

 死の穢れは、すぐに広がる。まがは一つの魂で飽きたらず、すぐさま手近な者にとりつき、命の火を吸い、弱らせて、幾つもの魂を黄泉へと連れ去ってしまう。

 わかっているから、いてもたってもいられない。だが、とどめる武内宿禰の手を振り払うほど頑是ない子どもでもなかった。

 武内の宿禰の言った通り、ほどなくして、血相を変えた下枝が人だかりをかきわけるようにして戻ってきた。武内の宿禰に一礼したのち、

「比売様、綺戸比売様に異変があったようです。すぐにも、宿禰王様が戻られます。」

 と告げた。詳しいことは、宿禰王が話すということだろう。なにしろここには大王の遣使つかいぎみである、武内宿禰がいる。

 すっかり酔いの冷めた人の群れが、さっと左右に割れて、表情を厳しくひきしめた宿禰王が進み出てきた。日頃温和な、笑みを絶やさぬおもてから、笑みが削ぎ落されている。

 彼はまず武内の宿禰に相対し、すっと頭を下げた。

「申し訳ない、武内どの。……娘が、綺戸が急に倒れたと報せがありました。薬師にみさせていますが、おそらく貝の毒にあたったか・・・・。申し訳ないが、宴はまた改めてということで、今宵は船を降りて、泊の館にお戻りいただきたい」

 武内宿禰も、すみやかに礼を返した。

「それは、さぞ気がかりでありましょう。我々のことは、気遣い無用。比売ぎみをおいといください」

 視線をやると、伴人が応じて、船を降りる準備を始める。なかには、飲んだくれて、床に転がったのを引き起こしている姿もあるが。

 宿禰王の伴緒とものおが、武内宿禰らが船を降りる手引きをするために付き添っていった。

 それを見送ると、宿禰王は虚空津比売にむきなおった。

「虚空津、おまえも、下枝と船を降りて、館で待ちなさい。下枝、頼んだぞ」

 有無をいわせぬ口ぶりが、綺戸がどれほどあやういことになっているかを如実に示していた。

「かしこまりました、」

 下枝の声も硬い。

 宿禰王は、ふわりと、口元を緩めた。彼は娘の頬に手を伸ばして触れ、

「薬師も、祝部もかけつけている。偶々たまたま、食べたものに、毒を持っていたものがあったのだろう。くがで待ちなさい」

 そう言い置くと、宿禰王はおすいを翻して、船の艫のほうへもどっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る