『桜吹雪にご用心!』
志乃原七海
第1話# 桜吹雪の彼女
オフィスには、触れてはならない聖域があった。
経理部の片隅、花村佐知子(はなむらさちこ)、28歳のデスク周りがそれだ。
背筋は常にスッと伸び、打ち出す数字に間違いはない。彼女が作成する書類は、もはや芸術品の域だった。品があり、美しく、そして、完璧に過ぎる。
入社三ヶ月の田中は、その聖域を遠巻きに見つめていた。彼にとって花村は、ただの綺麗な先輩ではなかった。入社初日、システムトラブルで半泣きになっていた田中を、冷静沈着な指示で救ってくれた恩人なのだ。だが、感謝を伝えようにも、彼女の周りには近寄りがたい空気が漂っていた。
「なんで誰も花村さんと話さないんですかね?」
田中が隣の席の鈴木先輩に尋ねると、彼はまるで禁忌に触れるかのように声を潜めた。
「やめておけ。花村さんにはな、『桜吹雪』があるらしいぜ」
「さくらふぶき?」
「本当かよ!」と、向かいの席の同僚が割って入った。「前の部署の課長が強引に飲みに誘ったら、翌日デスクが花まみれになってたって話だろ? それだけじゃない。感動系の映画の話を振ったら、給湯室の排水溝が詰まるほど桜が舞ったらしいぜ」
馬鹿馬鹿しい。田中はそう思った。都市伝説か、誰かの悪趣味な悪戯だろう。
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その日、事件は月末の経費精算と共に訪れた。
大量の領収書を抱えた田中は、意を決して花村のデスクへ向かう。
「は、花村さん。お疲れ様です。これ、お願いします」
花村は顔を上げ、すっと書類を受け取った。その仕草さえ見惚れてしまう。
「……田中さん。ありがとうございます。確認しますね」
凛とした声に安堵し、田中が踵を返そうとした瞬間、彼の足がデスクの脚に引っかかった。
「うわっ!」
情けない声と共に、田中はバランスを崩す。その手が、花村が完璧に仕分けた書類の山を薙ぎ払ってしまった。
バサバサバサッ!
静寂を切り裂く紙の音。オフィス中の視線が突き刺さる。床に散らばる無数の白い紙。彼女が築き上げた秩序の崩壊。
田中は血の気が引いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
聞こえてきたのは、予想外にうろたえた優しい声だった。花村が駆け寄り、心配そうに田中を覗き込む。
「すみません! 私の置き方が悪くて……お怪我は?」
「い、いえ、俺こそ本当にすみません……!」
散らばった書類に手を伸ばした時、彼女も同じように手を伸ばした。
そして、二人の指先が、ふわりと触れた。
その瞬間だった。
ふぁ……
どこからともなく、一枚の桜の花びらが舞い落ちてきた。
「え?」
田中が顔を上げると、花村は顔を真っ赤にしてうつむいていた。長いまつげが小刻みに震えている。
「(また、やっちゃった……ごめんなさい、ごめんなさい……!)」
彼女の心の声が聞こえるような、絶望的な表情。
次の瞬間、オフィスは春の嵐に見舞われた。
ふぁさっ、ふぁさささささっ……!
彼女の羞恥心と動揺が形になったかのように、空間から無数の桜の花びらが生まれ、乱れ飛ぶ。
その光景に、オフィスの日常が動き出した。
「うぉい!田中ァ!何してくれとんじゃ!俺のマスク!マスクはどこだ!ゴホッゴホッ!」
アレルギー持ちの部長が、顔を押さえて叫ぶ。
「はいはい、月末恒例の春一番ねー。田中くん、あとで掃除手伝ってもらうから覚悟しといてねー」
総務のベテラン女性が、慣れた手つきでホウキと業務用掃除機を準備し始める。
「うわ、マジじゃん!すげー!」
同期がスマホを構えかけるが、鈴木先輩に「不謹慎だろ!」と頭をはたかれていた。
田中は、そのカオスな光景の中心で、ただ呆然としていた。
当の本人は、顔を両手で覆って床にしゃがみこみ、耳まで真っ赤になっている。
隙のない、ビシッとした彼女はどこにもいなかった。そこにいたのは、自分の特異体質にうろたえ、消えてしまいそうになっている、一人の不器用な女性だった。
なぜだろう。田中は恐怖よりも先に、どうしようもない愛しさがこみ上げてきた。
彼は立ち上がり、頭に花びらを乗せたまま、彼女の隣にそっとしゃがんだ。
「花村さん」
「……ごめんなさい……」くぐもった声が返ってくる。
「あの、俺、入社した日のこと、覚えてます。システムトラブルでパニクってた俺を、助けてくれたじゃないですか」
花村の肩が、ピクリと震えた。
「テキパキしてて、カッコいい花村さんも好きですけど…」
田中は、舞い落ちる一枚の花びらを手のひらで受け止めた。春の匂いがする。
「なんていうか……オフィスでお花見してるみたいで。俺は、こっちも結構好きっすよ」
少し照れながら、精一杯の言葉を紡ぐ。
花村はゆっくりと顔を上げた。涙で潤んだ大きな瞳が、驚いたように田中を見つめている。
すると、どうだろう。荒れ狂っていた桜吹雪が、ふわり、ふわりと、まるで祝福するかのように、穏やかな舞に変わっていく。
「……掃除、俺が全部やりますから!」
田中が慌てて付け加えると、彼女の口元に、ほんのわずかだが、桜の花びらのような笑みが浮かんだ気がした。
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