第3話 夏の残響 ― 夜風とブレスレット

落ちつかない魁斗は、いつものジムに来ていた。

汗を流しても、胸のざわめきは収まらない。


――たかが、キスじゃないか。

なのに、なんでこんなに気になるんだ。


「よぉ、金矢!」

振り返ると、上条晃かみじょうあきらが立っていた。


「……上条」

「腹減ったな。ラーメン食いに行かねーか」



帰り道。二人は小さなラーメン屋「蓬莱軒」の暖簾をくぐった。カウンターに腰を下ろすと、上条は迷いなく口にする。


「醤油ラーメン、大盛り。バター追加」

「……は? 醤油にバターってありかよ」

「ありだ。コクが増して最強になる」

「普通は味噌だろ」

「固定観念だな。試せば分かる」


湯気の向こうで上条が笑う。その笑顔に、魁斗はまた胸をざわつかせた。


届いた器を押し出され、観念したようにスープをすすぐ。バターのまろやかさが広がり、思わず声が漏れた。

「……意外と、うまい」

「だろ?」上条が得意げに笑う。


ただのラーメン屋の夜。

なのに、妙に特別な時間に思えた。



「汗かいたし、サウナでも行くか」

上条の一言で、二人はそのまま銭湯に向かった。


サウナ室。

灼熱の空気が体を包み、座った瞬間から汗が噴き出す。


「……キツいな」

「試合より楽だろ」

「いや、こっちは逃げ場ねぇし」


肩が触れそうな距離。

息が揺れて、鼓動がやけに大きく響く。


不意に、上条がタオルで魁斗の首筋を拭った。

「おまえ、すげぇ汗だな」

「ばっ……いいから自分の拭けよ!」

赤くなって払いのけるが、距離はさらに近づいていた。


沈黙。

熱気と鼓動だけが二人を満たす。


「……もう限界だ」

魁斗が立ち上がり、上条も笑って続いた。



水風呂に飛び込む。

「っ……冷てぇ!」

「はは、声裏返ってんぞ」

上条の豪快な笑いが響き、魁斗は思わず顔をそむけた。


だが、その笑顔に胸がざわつく。

ラーメン屋の時と同じ、いや、それ以上に。



外気浴。

火照った体を夜風が冷まし、二人は並んで腰を下ろした。


「……なんか、生きてるって感じするよな」

上条がぽつりと漏らす。

「試合とかスコアとか、どうでもよくなる」


魁斗は答えられなかった。

ただ、隣の体温と風の心地よさが鮮烈すぎた。


ふと、上条の肩が自分に寄りかかる。

「……ちょ、寝るなよ」

「力抜けただけだって」

声が近すぎて、魁斗は息を呑んだ。


――危ない。


胸のざわめきなのか、熱のせいなのか。

もう分からなかった。


「……アオイ。やっぱり梅施設送りみたいだな」

魁斗が呟くと、上条は目を閉じたまま言った。

「わかってたさ。アイツ、自分から行ったんだ」


「なんで……わざとなんて……」


上条は手首を持ち上げる。

銀色のブレスレットが街の灯を受けて冷たく光った。


「助けたい奴がいるって言ってな。俺にこれを渡した」


魁斗の胸が跳ねる。

その光。自分も託されたもの――。


アオイは、いったい何を考えているんだ。



夜風の中、二人は無言で歩いた。

角を曲がったところで、魁斗のスマホが震える。


〈今日ありがと〉

〈ちゃんと帰れた?〉

〈まだ起きてる?〉


里桜からの未読が並んでいた。


魁斗はしばらく見つめ、やがて画面を伏せてポケットに押し込んだ。


晃は前を向いたまま。

夜の街に、二人の影だけが並んで伸びていた。

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