遺志嘲弄す意志の石
「待てっ!! 待てよこのっ、泥棒野郎っ!!」
――――咄嗟の判断に、『悲鳴』という余分は挟み込まれない。雨のように降り注いだガラスを、俺は無言で避けて見つめて。
聞き馴染んだドスの利いた声に、思わず上を向くと。
乳白色、わずかに黄色みがかった龍が、尾をくねらせながら横へ飛んでいくのが見えた。
「――――」
「うおぉっ!? かっ、解放されんのもそれはそれで痛い……っ、うおぉっ!?」
ぐだぐだうるさい糞牛を引っ掴んだまま、俺は通りへ飛び出し、ミルク製の龍と並走するように走った。
宿屋から少し離れると、民家が立ち並ぶ住宅街だ。上からはメルの怒声と、ガンガンと屋根を踏む音が聞こえてくる。『泥棒』とやらが屋根を伝って逃げているのは明白だった。
幻聴でない証拠に、屋根を踏まれた民家からは次々と、住民が顔を出して怪訝そうな顔で周囲を見回している。
「がっ、ちょ、あんま揺らす、なっ、おいっ、うぷっ……――――お、おい箭波箋利っ! 走って追いかけるなんて非効率じゃねぇかっ!? 笛吹メルヒェンに声かけて、異能を使った方が――」
「黙ってろ糞牛。……犯人に目論見を聴かれる方が悪手だろうが」
そう、犯人。
メル相手に、俺たち相手に、盗みを働く動機があるような犯人。
想定通りの相手なら、無策で俺たちふたりともが追いかけるのは不味い。……そんなことも分からないのかよこいつ。呆れた阿呆だな。自分で授けた異能だろうに。
「っ! そこだ……っ!」
屋根から屋根へ、卓越した運動神経で飛び移っていく泥棒。或いはなにか、魔法でも使っているのかもしれないけど――――けど、その逃走劇もここまでだ。
家が、途切れている。
逃げるための屋根はもうない――――そして、屋根から飛び降りるための時間分、俺には追いつく猶予があった。
――――がやがや、がやがやと村中が怒声と騒音で叩き起こされ、騒めきに包まれた中。
「……っ!?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……追いついた、な……足場の悪さが祟ったな、テメェ……!」
たんっ、と慣れた風に回転しながら着地して、すっくと膝を伸ばしたのは。
――――昨日、勇者たちの墓参りをしていた、あのフードの男だった。
「っ、あんたたち――」
「あーっ!! いないと思ったら……ううん、いいや今はっ!! センちゃんっ!! そいつっ! 泥棒だよっ!! 勇者たちの遺品を、盗んでいったんだっ!!」
屋根の上から覗き込むようにして、龍が睨みを利かせている。その上に仁王立ちして、メルは鬼の如き形相でフードの男を見下ろしていた。
っ……スカートの中が俺に見えるとか、少しは考えねぇのかよあいつ……!
――――まぁ、そういう事態でもないか。
「……テメェには恩があるが、どうやらそれも帳消しレベルのしくじりをやらかしていたみたいだな。なぁ……
「『
息切れを整え、糾弾しようと名を呼ぼうとした、その時。
男は、懐から小さな丸い石をひとつ、取り出した。
黄色と薄オレンジ、その中間で光り輝くそれは、男の言葉に反応し自ら発光し――――そして――
「――
叫んだ、その瞬間。
村から一切の、人間が消え失せた。
「っ……これ、が……!!」
いたはずだ。メルが上空に。無数の村人が家から顔を出して。
その全てが、見えない。上空にミルクの龍なんかいなくて、家々の窓は全て閉まっていて、そして。
目の前に、フードの男なんていなくって。
「違う……そう見えているだけ……! っ、は、はは……確信していてもダメ、か。なるほどこれが、幻覚の異能【
「あっはっはっはっ! そうだろそうだろぉっ!? オレ様製の異能がどんだけ凄いか、よぉく分かっただろうが外れ人類っ!」
と。
声すら消え失せた空っぽで静寂な村の中……一番聞きたくない声だけが、はっきり明瞭に聞こえてきた。
無論、姿は見えない――――けど。
左手に、それを握っている感覚はある。
声も聞こえる……成程、脳をも騙す完璧な幻覚、だけど――
「――メルぅっ!! 異能でこの辺一帯、ミルクで呑み込んじまえっ!! それでこの幻覚は完全に解けるっ!!」
声を張り上げる。聞こえないかという不安からではなく、切羽詰まっていたが故に。
要するに【
だから生憎、穴がある。
元から強く認識していた事物に対しては、現実への知覚の方が強く働く。
所詮は幻――――完璧と言うにはほど遠い。
その、証拠に――
「っ――――うおぉっ!?」
押し流される水圧が、容易く俺の目を醒ましてきた。
民家の壁に掴まり、流されないよう必死に踏ん張る。っ……さっすがメル、見える限りの村を全て呑み込むほどのミルクの濁流が、ダム湖の如く氾濫していた。
「っ!! いたっ!! センちゃんっ!!」
「あぁ、俺も見つけた――――あっちはっ!?」
「うんっ! もう見つけてる――――【
轟々とうねるミルクの海。その遠くの方で、間の抜けた悲鳴が聞こえた気がした。
勘は、どうやら正しかったようだ。今の俺にはバッチリと、メルも、彼女の乗る龍も見えている。……ついでに、ミルクに溺れているニューデルの姿も。
……このミルク、よく考えたらメルの母乳なんだよな……。
浸けておくのが嫌で、そっと左腕を上げる。……おいこいつ今咳き込んで吐き出したぞ、後で折檻だな。
まぁ――――相当、後になるだろうけどな。
「はっ、離せっ!! 離せよっ!! クソっ、クソぉっ……なんだよ、なんなんだよこの出鱈目な魔法はぁっ!!」
ぎゅるぎゅると、ミルクは『ダヌヴァンタリ』に吸い込まれていく。びっしょりと濡れた村人たちはしかし、唐突に家の中で溺れたことよりずっとずっと、気になることがあるようだ。
そりゃあ、そうだろう。
ミルクの十字架に囚われ、俺たちの前まで引き摺り出されたフードの男――――いや、もうその表現は正確ではない。男の頭からフードは剥がれていて、背中まで伸びる長い金髪が全て露わになっていた。……如何にも主人公然とした、線の細い王道なカッコいい面もだ。
皆、その顔を見て。
一斉に騒めいていた――――怒り心頭で俺の隣に降りてきた、メル以外は。
「やっと捕まえた……変ななにかで手間取らせてくれてさぁ……! 昨日からきな臭いとは思ってたけど……答えてっ!! なんで勇者の遺品を盗んだのっ!? 剣とか色々……今、持ってないみたいだけど、どこに隠したのっ!? あれはちゃんと調べないと、センちゃんが――」
「違ぇよ、メル。ふたつほど、間違いがある」
「っ、……ふぇっ?」
糾弾は遮るが、それは優しさからじゃない。
困惑するメルの横で、俺はゆっくりとしゃがみ込む。……足元に転がっていた、丸い石を拾い上げる。
ルチルクォーツ。……詳しくはないが、確か金運や仕事運に縁深いパワーストーンだ。
「この男は、『勇者の遺品』を盗んだんじゃない。そして、あれはそもそも遺品ですらない。……この石を媒介に、テメェが見せた幻覚だ。なぁ、そうだろ?」
否定はない。その暇がないのもそうだし、なによりも。
村人たちの動揺こそが、なによりの模範解答だった。
「テメェが取り戻したかったのは、遺品に見せかけるために使っちまってた、このパワーストーンだ。そうだろ? 元勇者――――アイル・ケイルユーズ」
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