千秋の席、川井の声

 教室に戻ったら、まずは千秋の花瓶の水を変える。

 僕は誰もいない教室から、花瓶を一つ持ち出す。

 教室には水道が無いので、トイレの前まで花瓶をもっていき、そこにある水道で水を変える。廊下を歩きながら、他の教室を覗いてみたが、他の教室にも人は居なかった。


 僕だけが学校に取り残されたような、不思議な感覚だった。トイレの前の水道に着き、蛇口をひねると、すごい勢いで水が出てきた。蛇口から水が出てきたことに僕は安心した。蛇口から出る水を眺めながら、僕は一人考える。


 今も千秋はあそこに座っていたのだろうか。だれもいない学校で一人、席に座っていたのだろうか。僕は千秋とまた話がしたいと思った。

 彼女の孤独を少しでも軽くしてあげたいと思った。そんなことを考えていると花瓶から水があふれてしまった。僕は慌てて蛇口を閉めた。


 なみなみになった水を少し捨てて、いつもより速足で教室に戻る。


 すると教室には一人の女子生徒が登校していた。その女子生徒は川井由奈。黒髪ロングの清楚系で、学年で男子から一番人気のある女子だった。彼女は前回の席替えで僕の隣になっていた。普通の男子生徒なら、喜ぶ場面なのだろうが僕は自分で住んでいる世界が違うことを自覚していた。


 そのため、挨拶も交わさずに千秋の机に花瓶を置く。花瓶の水を変えているところが見られたことはショックだったが、彼女は僕を相手にしていないだろうから、関係ないと思った。


「あの、」

 僕が自分の席に座ると、川井が声を掛けてきた。

「勉強、教えてくれませんか?」

「……僕ですか?」

「そうです。それ以外に誰が居るんですか?」

 川井は僕を訝しむように見ている。


 僕はてっきり川井には千秋が見えているのかと思った。しかし、そうではなく僕に聞いているらしい。


「後藤君の成績、学年4位なんですよね。私が担任の先生に勉強のことを相談したら、後藤が毎朝早く来ているから、後藤に教われって言われて」


 担任め。守秘義務はどうなっているのだ。しかし担任は花瓶のことも知っていたし、早く来ていることも知っている。

 担任がどうして知っているのか、どこまで知っているのか。それが分かるまでは、担任の機嫌を取っておいた方が得策だろう。

 それに川井の成績はさほど悪くなかったはずだ。勉強を教えることはそんなに苦にはならないだろう。僕は川井の提案を仕方なく了承することにした。


「わかった。教えるよ」


 川井は「ありがとうございます」と言って、バッグから教材とノートを取り出す。そして机をくっつける。距離がぐっと近づく。彼女は何も気にせず、教材を開く。

 僕は少し驚いたが、相手はあの川井由奈だ。僕の事なんて相手にしていないと言い聞かせ、平静を保った。


「私は数学がとにかくダメで」


 僕たちは文系クラスなのだが、数学や物理、生物、化学ができないために文系に来たという生徒は一定数居る。川井もその一人というわけだ。


「数学ね。なにで躓いているの?」

「微分と積分でわからなくなりました」

「微積か、じゃあとりあえずこの問題解いてみようか」


 僕はそう言って、教材の練習問題を一つ指差す。

「わかりました」

 川井はノートに問題を解き始める。最初は順調だったのだが、わからなくなったようですぐにペンは止まった。


「そこはね、これをこうして――」


 僕はその様子を見ながら、わからなそうなところで補足入れていく。


「ああ、なるほど。そうゆうことですか」

 僕の補足を聞きながら、川井が一問解き終わると彼女は疑問が解けたようですっきりした顔をしていた。


「ありがとうございました。あ、あと英語なんですけど」


 川井は次に英語の教材とノートを取り出す。英語の教材にも目を通すと、彼女は単語や和訳には問題がないが、並び替えや英作文に問題があるようだった。


「並び替えは、塊を意識した方がいいよ。例えば、ここの前置詞と名詞なんだけど――」


 そうして僕たちの早朝勉強会は、朝のホームルールの直前まで続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る