第30話 沈黙の最果て ― 黒王戦線終結 ―

 東の端がまだ白くなる前、王都は立っていた。

 石の胸壁は欠け、屋根瓦は歯のように抜け、路地は傷だらけ――それでも街は呼吸をつづけ、祈りは輪になり、鍋は煮え、子どもは眠り、兵は目を開けて夜の端を見張っていた。


 北の黒雲は低く、厚く、一つの意思をかぶせるように垂れ下がる。

 黒王軍の旗が、その雲の裾で翻った。

 総司――バルト=ダークフェル。

 黒い鎧に刻まれた対無詠唱符は、夜の色と同じで、しかし輪郭だけが異様に鮮明だ。


「来る」

 胸壁の上でアレンが短く言い、右の掌を石に置く。

 無響界サイレント・ドメインが骨組みの奥でゆっくり拡がり、王都の呼吸と重なる。

 背後でエリシアが外套を脱いだ。白布の下、鍛えた肩と腕に細剣の鞘が沿う。


「今日の私の仕事は三つ」

「言え」

「立たせる。縫い合わせる。そして――共鳴させる」

 アレンの横顔に、短い肯きが宿る。「横に立て」


 鐘が一度、低く鳴った。

 それは勝鬨ではなく、始まりの合図。


──


一 総攻撃


 黒王軍は三つに割れて迫った。

 中央に黒王親衛、両翼に黒槍騎ブラック・ランサーと巨像、地表低くは屍走兵グール・ランナーが細い列を編んで走る。

 空は鳴らない。吠えない。

 無音のまま、速度だけが上がっていく。


「動く壁、回せ!」

 支部長バーロの怒声が街の背骨を叩く。

 レオナは屋根へ、ガイルは交差点へ、オルフェンは門前へ、セレナとティアは救護・祈祷所へ――それぞれの足は自分の位置へ自然に流れた。

 王都そのものが術式であるかのように。


 黒槍騎が最初の距離へ入る。

 アレンは胸壁の上で指を傾け、**震光律断パルス・リズムを街路の曲率へ流し込んだ。

 槍の勢いは“刺す”より前に“滑る”へ変わる。

 オルフェンの盾界不壊エイギス・ウォール**が斜角で受け、ガイルの刃が“倒すため”ではなく“寝かせるため”の角度で入る。

 レオナの矢が、列の形だけを冷静に崩す――**閃矢裂空アーク・ゲイル**が三連。

 最初の楔は折れ、列はほどけた。


 同時、中央で黒王親衛が無声圧サイレント・プレッシャを投げる。

 空気は固く、言葉は鈍く、息は浅く――祈りの輪が揺れた。

「合わせる!」

 エリシアが両掌を広げ、街へ拍を投げる。

「吸って――二つ――吐いて」

 配食所の杓文字が鍋を叩き、井戸で汲む水が石に落ち、救護所の布が同じ拍で絞られる。

 王都の呼吸が合う。

 無声圧は回せば鈍る。アレンの**静寂廻天サイレント・リヴェル**が場の力線を丸め、押し潰す力を“なぞるだけの圧”へ落とした。


「親衛の第二列、来る!」

 フェリクスの声。

 黒い矢のような隊列が、胸壁の目地を**“弱点”として突いてくる。

「弱点じゃない、“入り口”だ」

 アレンは目地の上に、名もない静孔布陣を置いた。

 入り口は廊下になり、廊下は狭く長い**。

 親衛の脚は速いが、曲がれない。

 オルフェンの盾が角で押し、レオナの矢が頭を落とし、ガイルが残りを静かに片付けた。


 巨像が屋根並みに肩をそろえ、投石をはじめる。

 アレンは焔界穿光フレイム・ヴェルクで“燃える”性質を“照らす”へ変え、飛ぶ石の熱だけを空へ逃がす。

 屋根は残る。帰る場所は残る。

 バーロが叫ぶ。「いいぞ! 家は壁であり家だ!」


──


二 総司の影


 黒旗が一度、ふわりと揺れた。

 バルト=ダークフェルが、騎を前へ。

 彼は歩幅で戦場を制する。

 詠唱はない。だが言葉の外に術がある。


 彼は右手をわずかに上げ、親衛の後ろへ何も置かない空白を置いた。

 それだけで、親衛は前進を止める。

 空白は命令として機能する。

 ――沈黙の命令。


 アレンは胸壁の縁を撫で、街の“骨”へ小さな無響檻サイレント・ケージを等間に散らす。

 命令の“意味”を吸い、拍だけを通す。

 親衛の足が、わずかに合わなくなる。

 バルトの目が細くなる。

 遠い距離で、視線と視線だけが刃になった。


「エリシア」

「聞いてる」

「俺が“止める”。お前が“進め”」

「了解。――声で縫う」


 王女は胸壁に上がり、声を低く通す。

「北門の民へ。立って、座って、また立って。息は短く、祈りは短く、でも続けて」

 声は命令ではない。請願だ。

 請願は強い。奪えない。

 黒王軍の無声圧が街を押すたび、請願の拍が跳ね返す。


 バルトが騎を進める。

 アレンは胸壁から滑り降り、屋根から屋根へ、祈祷所の縁、配食所の角、救護所の入口――街という楽器の上を指でなぞるように走る。

 彼の足跡が、街全体の調律になった。


──


三 黒王の槌


 日が昇り切る前に、黒王軍の槌が降った。

 バルトの左手が掌を見せ、右手が拳を握る。

 それだけで、空気は叩き割られる側へ傾き、胸壁の石が悲鳴を上げる。

 無声圧の改型――黙撃圧サイレント・ハンマ


 オルフェンの盾が鳴り、膝が落ちかける。

 レオナの弓が震え、弦がわずかに軋む。

 ガイルの剣が石へ擦れて火花を散らす。

 セレナの祈りの輪が細くなる。ティアが護符を二重に結び直す。


「――回す」

 アレンは静寂廻天を更に深く、街の基礎杭にまで通した。

 叩く力は回され、杭の年輪をなでる。

 石は耐える。梁は鳴って残る。


 しかし、親衛の一隊が見抜いて来た。

 回す力の隙、曲率の外――そこへ最短で。

 アレンはその足元へ静天裂雷サイレント・ボルトを縫い、列の先頭の鎧の意味だけを外す。

 刃は鈍る。

 ガイルが間合いに入り、レオナの矢が背を守る。

 オルフェンの盾が低く唸り、親衛の体重は地へ逃げた。


 その一瞬、黒い影が路地の向こうに立つ。

 ――バルト。

 彼は騎を降り、ただ歩く。

 音はない。

 だが街が聞く。

 彼の歩幅が拍になり、戦場の調律を奪いに来る。


「来い」

 アレンは路地の角で足を止めた。

 彼の背後には祈祷所、右に配食所、左に救護所――戻る場所が並ぶ。

 逃げ場ではない。立ち直る拠点だ。


 黒王と無詠唱が、石一枚をはさんで向かい合った。


──


四 沈黙と声の対話


「人間」

 バルトの声は低く、乾いている。

「沈黙は武器ではない、と言い続ける顔だ」

「沈黙は置き場だ。武器は要らない」

「置き場は占領できる」

「皆のものは、占領できない」

「皆は散る」

「散っても、戻る」


 バルトの右手が僅かに動き、黙撃圧が線になって走る。

 アレンは震光律断で線の名を切り離し、力だけを路地の湾曲へ逃す。

 石が一度鳴り、持ちこたえる。


 今度はアレンの番。

 掌が空を押す。

 静天裂雷が一点で穿ち、黒王の鎧の継ぎ目の意味を狙う。

 青白い光が高く鳴り――弾かれる。

 鎧の対無詠唱符が更に深い階層で光る。


「無詠唱の極致は、“世界の側の言葉”を聞く術」

 バルトが呟いた。「だが世界は、お前だけに話しかけない」

「分かってる。だから――皆で聞く」


 エリシアが背後に立った。

 王女の声が、祈りの輪の芯をやさしく叩く。

「息を合わせて。声の輪、沈黙の輪――重ねて」

 街の拍が、二重になり、和音になる。


「アレン」

「いる」

「やるわよ」

「ああ」


──


五 聖響断章セイクリッド・カデンツァ


 アレンは掌を開き、街の無響界をさらに薄く、広く伸ばす。

 声を閉じるのではない。声の名札を一旦はずし、居場所だけを残す。

 エリシアは胸に掌を置き、短い詞を落とす。

「祈りは座り、声は立つ。立つは戻るの最初の一歩。」

 それは詠唱ではない。合図だ。


 二人の間に、目に見えない階段が置かれる。

 最下段は沈黙、最上段は声。

 段と段の間には“聞く”という薄い膜が張ってある。

 祈りの輪が、その階段を昇り降りする。

 兵の足も、民の息も、子の指も――同じ拍で。


 アレンが名を与えた。

 聖響断章セイクリッド・カデンツァ

 沈黙と声の統合陣。

 “止める”と“進める”を同時に走らせ、破壊の意味だけを静かに剥がす。


 黒王軍の槍は刺さらない。刺さる前に“届く”へ変わる。

 巨像の投石は壊さない。壊れる前に“戻る”へ変わる。

 魔導砲は燃えない。燃える前に“照らす”へ変わる。

 屍走兵は走らない。走る前に“座る”へ変わる。


 親衛の列が揺れた。

 戦場の意味が書き換えられていく。

 バルト=ダークフェルが、初めて小さく息を呑む。


「――見事」

 黒い鎧の継ぎ目で、青白い光がわずかに迷った。

 迷うということは、選べるということ。

 選べるなら、変えられる。


「押すぞ」

 アレンの掌が前へ出る。

 静天裂雷が再び走り、今度は“鎧”ではなく“地”を刺す。

 足元の石がわずかに隆起し、黒王の重心が半歩だけ後ろへ流れた。

 エリシアの声がその隙へ声の楔を打ち込む。

「立って――二つ――座って――立って」

 街が一斉に呼吸し、前へずれる。


 黒王が、初めて下がった。


──


六 黒王の剣


 下がりながら、バルトは剣を抜いた。

 刃は黒く、しかし映る。

 空の薄光、街の灯、祈りの輪の白――すべての像を吸い込む剣。

 彼は剣を高く掲げず、低く構えた。

 腰の高さ――人の高さだ。


 剣が動くたび、路地の影が一段濃くなる。

 影は延び、交差し、網になる。

 ――黙影陣シャドウ・ラティス

 声の届かない場所を増やし、拍を遅延させる陣。


 祈りの輪が一瞬、足をもつれさせた。

 セレナがすぐに膝をつき、無言祈唱サイレント・プレイヤーで遅延の名を解いていく。

 ティアは子どもの指をほどき、今の次を示す。

 レオナの矢は影の網目を縫って飛び、ガイルの刃は網の糸だけを断ち、オルフェンの盾は網を押して通路に変える。


「エリシア」

「聞こえてる」

「網は声の居場所が多いほど薄い」

「なら、増やす」

 王女は救護所の壁に立てかけられた桶を叩き、配食所の鍋と合奏させる。

 声は叫ばない。音で呼吸を合わせる。

 網目は薄く、ほころぶ。

 アレンはそこへ静孔布陣を重ね、穴を拡げる。

 黒王の剣が、初めて空を切った。


「――決めるか」

 バルトが低く言い、剣を水平に一度、滑らせた。

 空気が二つに割れ、黙撃圧が“面”になって押し寄せる。

 アレンは震光律断の角度を変え、面を曲げて空へ逃がす。

 曲げきれない端を聖響断章の和音が受け止め、街の拍でほどく。


 互いの手数が、短く、深く、少なくなっていく。

 無駄が消え、本質だけが残る。


──


七 楔


 エリシアは気づいた。

 アレンは街の上で楔を打ってきた。戻る場所の楔。

 けれどこの戦いは、心へも楔が要る。

 王都の人が、明日を“選ぶ”ための。


 彼女は深く息を吸い、アレンの半歩後ろ、右肩の影に立った。

 声は低く、短い。

「私は恐れている。けれど、立つ」

 それは詠唱ではない。告白だ。

 告白は、命令より強く、沈黙より長く残る。

 配食所の列で、誰かが顔を上げる。

 屋根の上で、誰かが弦に指をかけ直す。

 路地で、誰かが盾を肩に密着させる。


 バルトの剣が一瞬だけ戸惑った。

 人の声は、戦術でなく重力だ。

 彼は重力の計算を誤った。


「いま」

 アレンの掌が、置かれる。

 静天裂雷――ではない。

 全く音のしない、名のない楔。

 黒王の足元、影と石の継ぎ目へ打ち込まれたそれは、“ここに立つ”という一点の定義だけを持っている。

 剣士が一瞬、剣士である前に立つ者として釘付けにされる。

 刹那。

 けれど十分。


 レオナの矢が、黒王の肩の対符の一枚をかすめる。

 ガイルが足の形だけを削ぎ、オルフェンが盾で重心を正面へ戻す。

 エリシアの声が和音を高め、街全体がひと拍だけ前へ出る。


 アレンが掌をひとつ、前へ。


「――静破光臨サイレント・ノヴァ


 無音の光が、黒王の鎧の意味だけを剥がした。

 鎧は壊れない。鎧ではなくなる。

 ただの重い金属。

 黒王が、一歩、後ろへ退く。


 バルト=ダークフェル。

 はじめて、その名に人の重さが戻った。


──


八 黒王の素顔


 鎧の継ぎ目から黒い煙がわずかに漏れ、すぐに収まる。

 バルトは剣を構え直し、言った。

「面白い」

「もう何度目だ」アレンが息も乱さず返す。

「お前は“人の側の沈黙”だ。私は“王の側の沈黙”だ」

「王?」

「秩序の名前。人を並べるための沈黙」

「なら俺は、人が立つための沈黙だ」


 黒王の目が、すこしだけ笑った。

 剣が一段下がる。

 ――会話の余白。

 余白は、戦場で最も危うく、最も人間的な瞬間だ。


「終わらせるか」

「終わらせよう」


 同時。

 バルトは無声圧を螺旋に、アレンは聖響断章を和音に。

 螺旋と和音がぶつかり、ほどけ、絡み、ほどけ――

 最後に残ったのは、拍だった。


 拍は、選べる。

 どちらの側にも。


 バルトの剣が、わずかに遅れた。

 アレンは遅れの名をつまみ、止まれへ変え、座れへ落とした。

 黒王の膝が、石へ触れる。


 沈黙。

 剣の先が、かすかに震える。

 それは怒りではない。理解だ。


「……敗けた、とは言わない」

「言わなくていい」

「ただ、一度、降りる」

 黒王は剣を下げ、背を伸ばす。

 敵将が退くときの、美学。

 彼は騎へ戻り、黒旗が遠くで静かに揺れた。


 黒王軍の列が、崩れないまま後退を始める。

 王都は追わない。

 立っているだけだ。


──


九 余震


 戦が去った後の街は、声を取り戻さない。

 すぐには。

 まず、椅子が増える。

 水が配られる。

 祈りの輪が小さく回る。

 子どもが泣き、泣き止み、眠る。

 大人は座り、立ち、座る。

 石は温かい。

 火はやさしい。


 セレナは救護所で、最後の包帯を結び、手を洗う。

 ティアが隣で、眠る子の髪を撫でる。「生きた」

「うん。生きた」

 レオナは屋根で矢筒の底を叩き、一本の折れ矢を掌に乗せた。

 ガイルは刃の背で石を軽く叩き、音を確かめる。

 オルフェンは盾の革を外し、傷んだ部分だけを丁寧に新しい革へ入れ替える。

 バーロは帳場で小石を元の場所へ戻していく。

 エリシアは井戸の列に立ち、名を呼ばれずに人として水を渡す。


 アレンは胸壁に掌を置いた。

 石の中に、今日置いた楔が、何本も、何十本も、小さく光っている気がした。

 戻る場所。

 立ち直る場所。

 その全てが、国という言葉より先に、街の中で確かに息をしている。


「アレン」

 エリシアが来る。

 細剣を納め、外套をはおり、肩で息をしている。

「終わった?」

「終われた」

 彼は言い換えた。

「終わらせた、じゃない。終われた」

 彼女は笑う。「あなた、ほんとに詩人にはならないのね」

「詩は書けない。――置く」


 空は白い。

 雲は流れ、風はやさしい。

 黒王の旗は、地平線の向こうで小さくなった。


──


十 国の形


 昼。臨時議場。

 ギルド、職人、商人、農の代表、学匠、祈りの輪の世話役、そして東部七家――東の諸侯。

 《ラングレー侯》《ヴァレンティス伯》《シュトルム伯》《ローレン伯》《カーレッド子》《イシュタル子》《フェンナー子》が、それぞれに顔を持って座る。

 王家の席には、王女エリシア。

 彼女は王冠を戴かない。座る。


「宣言を」

 誰かが言う。

 沈黙が輪を作る。

 エリシアは短く頷き、立った。


「声で支え、沈黙で支え、どちらでもないときは隣で支える。――それが、今日ここに生き延びたわたしたちの国の形です」

 拍手はない。

 拍は呼吸で刻まれる。

 帳場の小石が、ひとつ、ふたつ、場所を変える音が賛同になった。


 ラングレー侯が立つ。「我ら東部七家は、王都の“戻る場所”に誓う。声を独占せず、沈黙を強制せず――並んで立つ」

 ギルドの長が続く。「道具の音は声だ。だけど職人は時々黙る。――どっちもうちの音だ」

 神殿から来た若い神官が、逡巡ののちに一礼する。「祈りは声。でも、沈黙は神の最初の祈り。忘れません」


 アレンは発言しない。

 彼はただ、置く。

 議場の床に、名もない小さな楔を。

 この場で交わされた言葉が、帰って来られるように。


──


十一 仮面と顔


 夕刻前、白塔神殿。

 大導師ヴァルドは、崩れた天井の下で椅子に腰かけ、静かに言った。

「“沈黙の異端”布告を、記録として保存する」

 書記が顔を上げる。「撤回では?」

「撤回はしない。間違いも記録だ。

 ただし――追記する。『沈黙の祈りを禁じるのではなく、恐れない』と」

 老導師は目を閉じる。

 彼もまた、立ち直る場所を探していた。


 王城の片隅、空になった館で。

 クロード公爵がひとり、窓辺に立つ。

 かつての父。

 その両手は細く、しかし握りしめた拳はまだ重かった。

(あの場で、私は黙るべきではなかった。……遅い)

 遅さは罪ではない。

 だが、刺は残る。

 彼は部屋を出て、王都の祈祷路へ向かう。

 頭を下げるつもりで。謝るためではない。立つために。


──


十二 黒王からの書簡


 夜。

 北の外れで、ひとりの伝令が布包みを抱えて現れた。

 封蝋は黒。紋章は黒王の紋。

 中には短い文。


「沈黙の国へ。

 本日の戦、楽しかった。

 私は“王の沈黙”を選ぶ。

 お前たちは“人の沈黙”を選んだ。

 いずれ、再び。

 ――バルト」


 アレンはそれを焚き火へくべない。

 置く。

 王都の記録棚に、異物として。

「敵の言葉も、戻る場所に入れておくべきだ」

 エリシアが頷く。「うん。怖がらない。忘れない。――でも、縛られない」


──


十三 再生


 翌朝。

 王都は働きはじめた。

 瓦礫を積む手は音を立て、祈りは輪を回し、鍋は湯気を上げる。

 子どもは走り、泣き、笑い、眠る。

 職人は道具を鳴らし、商人は秤を叩き、学匠は黒板へ線を引き、兵は剣を鞘へしまう。

 祈祷路の石は並び直され、声の線と沈黙の線が並んで刻まれた。


 バーロが帳場で声を張る。「仕事を分ける! 瓦礫、運ぶ! 梁、立てる! 鍋、増やす! 椅子、足す!――生きる準備が一番の戦支度だ!」

 笑いが起き、すぐに静まる。

 笑いは声だ。声は使っていい。

 ただ、置き場を選ぶ。


 セレナは救護所で、祈りの輪を小さく、長く回す術を、若い神官と共有した。

 ティアは護符の結び方を子どもに教え、子どもは大人に教え返した。

 レオナは屋根の上から、空の色をメモに描いて残す。

 ガイルは刃を拭い、剣の重さを軽くする。

 オルフェンは盾を壁に掛け、日常という見張りをはじめる。


 エリシアは議場で、役を決める。

 「大臣」という古い名でなく、「世話役」「橋渡し」「聞き役」。

 名は軽く、働きは重く。

 王女は冠を戴かず、歩く。

 声は高くなく、遠くへ行く。

 沈黙は深くなく、隣に寄る。


 アレンは――置く。

 あちこちに、名もない楔を。

 戻る場所が、街に増えるように。


──


十四 エピローグ:沈黙の国


 夕暮れ。

 屋根の上、アレンとエリシアが並んで見下ろす。

 王都は動いている。

 祈りの輪は小さく、しかし止まらず、声は細く、しかし遠く、鍋は薄く、しかし温かい。


「国は、立てた?」

 エリシアが問う。

「立ち方を覚えた」

 アレンが答える。

「倒れない国はない。――倒れても、戻る」


「あなたは、どこへ戻るの?」

「ここ」

「よかった」

 王女は笑い、胸に掌を置く。

「ありがとう」

 それは詠唱でも命令でもない、ただの言葉。

 けれど、今日いちばんの魔法だった。


 遠く北の空で、黒旗が一点、風に揺れる気配がした。

 戦は、いつかまた来るだろう。

 けれど、今日の王都は――立っている。

 戻る場所が、増えたから。


 アレンは目を閉じ、聴く。

 屋根板の鳴る音。

 鍋の湯の音。

 子どもの寝息。

 遠い鐘の尾。

 風の擦れる気配。

 そして――沈黙。


 沈黙は、もう恐れではない。

 選ばれた呼吸だ。

 世界が話す前に、聞くための。


「行こうか」

 エリシアが言う。

「どこへ」

「明日へ」

 アレンは立つ。

 ふたりは屋根から下り、街へ戻る。

 戻ることが、生きるということだから。


 夜が来る。

 灯が点く。

 祈りの輪が回る。

 声が遠くへ行き、沈黙が近くへ来る。


 王都――アズーラ。

 人と魔法と術式と祈りで立つ国。

 名は新しく、呼吸は古く、歩きはゆっくり、しかし途切れない。


 そして、どこか遠くで黒王が笑い、剣を収め、旗を伏せる。

 また会うために。


 今は、これで――いい。


※ここからは終わりの話

無能と呼ばれ追放されたが、静かなる無詠唱で異世界最強でしたはこれで終わりになります。

スピンオフなどは書くと思いますが第二部は書くかどうかは皆様の反応を見ながら書いていく予定です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無能と呼ばれ追放されたが、静かなる無詠唱で異世界最強でした 桃神かぐら @Kaguramomokami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ