第18話 沈黙は祈り、祈りは刃となる

 夜明け前、森は深く呼吸していた。

 葉先に溜まった露は冷え、重みを得てときどき石の上で壊れる。枯れ枝が一度だけひびき、すぐに沈黙がそれを飲み込む。沢の音が遠くで細く続き、鳥はまだ夢の底にいる。風はない。空気が濃い。吐いた息が胸の上でゆっくり戻り、土と苔の匂いが肺に溜まる。


 アレンは指先で土を押し、耳で世界の律を測った。

 声のいらない聞き方を、彼は知っている。

 背後で見守るセレナが、小さく囁く。

「……世界と話してるみたい」

「話してはいない。ただ、聞いている」

 それで充分だ――彼は目で続け、掌の中で微細な震えを集めては置き換えた。


 レオナは枝上に上がり、視線の通りを確かめる。弦の張りを指で撫で、矢羽根の角度を髪の毛一本ぶん修正した。

 ガイルとオルフェンは斜面の低い茂みに縄を渡し、転倒したときの逃げ線を二本、互い違いに結ぶ。

 エルノアは杖先で湿り気を量り、足場の沈み具合から地脈の薄いほうを選ぶ。

 ティアは護符を握る手汗を袖で拭い、深呼吸の拍を数えた。

「ここ、怖い静けさだね……」

「静けさは敵じゃない」セレナが笑って言う。「怖いのは、人間の決めつけのほう」


 アレンが短く頷く。

「ここで迎える。抜けば追いつかれる。……ここで“済ませる”」

 六人の返事は短かった。短いほど、よく届いた。


──


 一方、森の外縁。

 白い列が祈りを重ねながら進んでくる。先頭に審問官ルシウス、続いて聖騎士八、補助魔導師二。

 彼らの口は同じ文句を唱え、足は同じ歩幅で地を踏む。

「声は剣、沈黙は枷。秩序は声に宿り、救いは声に降る」


 ルシウスは若い。だが瞳の芯には、迷いより深い硬さがある。

「詠唱、弱い」

 後方の魔導師が顔を上げる。「森が音を吸います。例の“術”でしょう」

 “術”という薄い言葉に、ルシウスは短く首を振る。「罠と決めつけるな。まだ人だ。裁きは見てからだ」


 列は祈りを強め、音を重ねて森へ押し入る。

 音は壁になり、静けさにぶつかる。

 どちらが固いか――答えはすぐ出る。


──


 森の深み。

 アレンは小石をひとつ置いた。音のない置き方だ。

 **無響檻サイレント・ケージ**が土の底で開き、祈りの震えを吸い、熱だけを地に返す。

 ルシウス隊の詠唱は一拍、二拍と削がれ、光の帯が薄くなった。

 列の先頭が止まり、ざわめきが連鎖する。


「詠唱が……落ちる?」

「神の声が届かない……?」

 若い聖騎士の喉が乾く音まで聞こえる。


 ルシウスが一歩前へ。

「静まれ。逆探知――詠唱探知リターナー、力任せで通せ」

 無骨な術式が強引に押し込まれ、森の床に青白い紋が瞬く。

 アレンの“静けさ”の輪郭が一瞬、露わになった。


 木影から一人の男が出る。

 灰の外套、黒の瞳。

 沈黙の魔導師。


 レオナは枝上で息を止め、ガイルは一歩、前。オルフェンの盾が音もなく角度を変え、セレナは短い祈りを掌に灯す。エルノアは杖先を止め、ティアは護符を握り直す。


 ルシウスは剣に手を触れ、問う。

「名を」

「アレン・クロード」

 周囲がざわつく。“勇者の兄”“追放者”。いくつもの名が薄皮のように真実の上に重なる。


「問う。なぜ祈らない?」

「祈っている。ただ、声にしていない」

「声にしない祈りは祈りではない」

「声にした祈りだけが、救いを呼ぶわけでもない」


 言葉と沈黙が、ぶつかった。


 先に動いたのは風だった。

 レオナの弦が低く鳴り、矢は詠唱役の指をかすめて杖を落とす。

 ガイルが踏み込み、オルフェンが横から盾で流し、聖騎士の列に楔を打つ。

 エルノアが杖底で地を打つ。「霧幕ミスト・カーテン

 薄い霧がまつげを濡らし、視界を粒に分解する。

 セレナの短い祈りが仲間の体温を一定に保ち、ティアの声が震えを押さえる。「護魂結界ソウル・ベイル!」


 ルシウスはためらわない。

 剣を抜き、印を刻む。

神剣共鳴セイクリッド・リゾナンス!」

 白光が刃に集中し、空気が裂けた。


 アレンは前へ一歩。足元に薄い光。「氷封陣アイス・ライン

 白と白がぶつかり、氷の鳴音と金属の悲鳴が重なる。

 衝撃が森の骨組みを鳴らし、霧が砕けた。


 音が戻る。

 すぐさま、アレンがそれを奪う。

 断声鎖ボイス・カット――詠唱の意味と音を切り離す。

 祈りの鎖が空でほどけ、護衛の足が鈍る。


「なぜだ!」若い聖騎士が叫ぶ。「神の声が……!」

 セレナが前に出る。瞳は静かだ。

「神の声は、いつもあなたの中にある。あなたが騒ぎすぎて、聞こえないだけ」


 彼女は胸に手を当て、唇を結ぶ。祈る。言葉を使わずに。

 無言祈唱サイレント・プレイヤー

 微かな光が両掌の間に生まれ、仲間の傷に染み込み、痛みだけをほどいて消える。


 審問官側の魔導師が息を呑む。

「沈黙下で……神聖術が――!?」

 ルシウスの目が揺れ、すぐに硬さを取り戻す。

「退くな!」

 彼は前へ。アレンも前へ。

 二人の間に、音と光の薄膜が生まれては消えた。


「沈黙は悪だ」

「沈黙は選択だ」

「声は秩序だ」

「声は時に、暴力だ」

「秩序は人を救う」

「秩序は時に、人を縛る」

「神は語る」

「神は、ときに黙る」


 剣と氷、祈りと静けさが交錯するたび、議論は短く、深くなる。

 話しているのに、どちらも“説得”を目指していない。互いの背に立つものが、あまりにも違うからだ。


 ルシウスの刃が、アレンの肩口で止まった。

 アレンの氷が、ルシウスの足元で止まった。

 止めたのは、二人の意思だ。

 セレナの息が止まり、レオナが弦を絞り、ガイルが踏み込みかけ、オルフェンが盾の角度を変え、エルノアが杖を下げ、ティアが護符を握りしめる。

 審問官の列も、同じだけ息を詰めていた。


 最初に息を吐いたのは、ルシウスだった。

「……理解できない。だが、見誤りたくはない」

 彼は刃を引く。

「今日のところは退く。沈黙を、報告にしない。――記録に留めるだけだ」


 護衛が戸惑う。だが命令には逆らえない。

 白い列が後退を始め、祈りは低く、短く変わった。“退路を護る祈り”。

 声は時に、逃げるためにも要る。


 アレンは追わない。

 セレナが横顔を見る。

「助けたの?」

「殺せば“沈黙は悪”になる。……今日の彼は、まだ、つまずいただけだ」


──


 戦いが去った森には、別の静けさが残った。

 “怖い静けさ”ではない。“帰ってくる静けさ”だ。

 折れた枝が地に戻り、霧が薄く解け、鳥が最初の一声を許されるまでに、しばらく時間が要った。

 その空白の時間を、六人はそれぞれのやり方で過ごした。


 レオナは矢羽根を一本ずつ撫で、さっき外した一本を横に置いた。

(外したわけじゃない。外させた。……あれで良かった)

 自分に言い聞かせて、頬の熱を引かせる。


 ガイルは剣の刃に布を当て、油を染み込ませる。

(剣はうそをつかない。うそをつくのは、人だ。だから俺は、剣の近くにいる)

 それでも、さっき止まった一撃を思い出すと、胸の奥に小さく温かいものが灯る。止まれた。まだ、間に合った。


 オルフェンは盾の縁を指で押し、歪みがないことを確かめる。

(守る。理由は要らない。守る)

 それだけで充分だ。


 エルノアは膝に紙を広げ、短い記録を書く。

“沈黙下での神聖術、成立。無言祈唱(セレナ式)の有効性。

 詠唱=言語 対 構造=指示。

 倫理は術式を決めない。人が決める。”

 ペン先が止まる。(私、今、研究者じゃなくて仲間として書いてる)

 それが心地よいと気づいて、少し頬が緩んだ。


 ティアは護符を胸に当て、小さく「ありがと」と言い続けた。

 ありがとうは神様へ、アレンへ、みんなへ、そしてさっき怖くて逃げなかった自分へ。


 セレナは手のひらを合わせ、わずかに目を閉じる。

(言葉は速すぎる。速いから、すれ違う。……だから今日、私は遅く祈った)

 胸の内側で、遅い祈りがまだ温かく燃えている。


 アレンは、踏み荒らされた霧の残り香を指で撫でた。

 静けさは戻る。戻らせる――彼は、そういう選択をしたのだ。


──


 焚き火の小屋に戻ると、火はまだ生きていた。

 乾いた枝を足してやると、炎はすぐ穏やかな音で応えた。

 ティアは疲れでこくりこくりと舟を漕ぎ、レオナは矢羽根の乱れを一本ずつ整える。

 ガイルは黙って酒を唇に触れさせ、オルフェンは入口で夜気を読む。

 エルノアは記録を畳み、杖を横に置いた。

 セレナがアレンの隣に座る。膝がかすかに触れ、彼は少しだけ身を引いたが、逃げはしない。


「無言祈唱、怖かった?」

「いいや。綺麗だった」

 彼は火を見て言い切る。

「言葉は速い。だから、傷つけるのも速い。……沈黙は遅い。遅いぶんだけ、ほどくのが上手い」

「あなたの言うこと、たまに詩人みたい」

「詩は書けない」

「書かなくていいよ。あなたは“置けば”いい」

 ふたりの声が小さく混ざり、やがて火の音に溶けた。


 少しして、ティアが寝言を言う。「静かに……帰ってくる……」

 皆が笑い、順に横になっていく。

 見張りは交代で――最初はアレン。

 彼は火のそばに座り、耳を澄ませた。

 支部の匂いはここには無い。だが、支部の言葉はここにもある。

 “帰ってくる場所はある”。

 それだけで、夜の長さは半分になった。


──


 離れた樹間で、ルシウスはひとり、布に包んだ報告書を開いた。

 ペンが走り、止まる。

“沈黙の魔導師、交戦。殺戮意思なし。撤退成功。

 無言の祈り、確認。異端と断ずる根拠不足。”

 ……書いて、破った。

 破り、書き直す。

“交戦。撤退。詳細不明。”

 紙を畳み、目を閉じる。


(俺は、何を守りたい?)

 神の言葉か、民の安寧か、あるいは自分の信仰の形か。

 答えは夜に溶け、朝に持ち越された。


──


 夜明けは薄く、速く来た。

 梢の先から光が降り、森の輪郭が輪郭に戻る。

 小屋の外で鳥が一度だけ鳴き、その声が今日を確定した。


 そこへフェリアが駆けてくる。フードを跳ね、息を整えずに言う。

「王都から布告。神殿大導師ヴァルドの名で――『沈黙の魔導師、異端認定』」

 差し出された羊皮紙は濃い朱の印で重たく、言葉は乾いて硬い。


 アレンはそれを受け取り、焚き火の端に持っていく。

 セレナが目で問う。

 彼は答えず、紙を火に近づけた。

 火は言葉を躊躇なく食い、黒に変え、灰を上げる。

 灰は軽く、風に弱い。

 ティアが小声で言う。「……燃えちゃえ、悪い言葉」

 レオナは肩を竦め、「そうね」と短く同意し、エルノアは灰の舞い方を目で追い、ガイルは拳を握り、オルフェンは頷いた。


「怒らないのね」フェリアが囁く。

「怒っている。だが、怒りは刃が鈍る」

「じゃあ何で戦うの?」

「静けさで」

 彼は少しだけ笑った。「それで充分だ」


「審問官は?」

「今日の彼は、まだつまずいただけだ」

「助けるの?」

「機会があれば」

 フェリアは短く息を吐き、目を細めた。「あなたは、本当に厄介で、優しい」


──


 王都、白塔神殿。

 大導師ヴァルドは堂々と布告を読み上げ、鐘楼が三度、低く鳴る。

 広間の脇で、勇者ライルが顎を上げて立つ。眼差しには、崩れた自尊の破片がまだ残っている。

「沈黙は、秩序への反逆です。声を拒む者は、神の鎖を断とうとしている」

 ヴァルドの言葉に、信徒の合唱が応じた。

 その背で、ミリア・ローゼンが白い紙に署名する。

 薄い唇がかすかに震え、すぐ落ち着く。

(私は“人を見る”と決めたのに)

 署名は組織の名義で、彼女の想いではない。だが紙に残るのは名だけだ。

 彼女は筆を静かに置き、胸に手を当てた。


 ライルは拳を握った。

「兄は、秩序を壊した。俺は――秩序を守る」

 彼の声は、誰に向けたものでもなかった。

 自分自身に向けた、慰めの形をした祈り。

 セルゲイはその横顔を一瞥し、窓外に目を逸らす。

(光は強いほど、影も濃い。……問題は、どちらも“見せ物”になる王都という舞台だ)


 もう一人。

 王都の外れ、空になった館の奥で、ひとりの男が椅子に腰掛けていた。アレンの父。

 壁のひびを指でなぞり、目を閉じる。

 言葉は出ない。

 沈黙は罪ではない。

 だが、沈黙が遅かったことは、いつまでも刺さる。

(あのとき、あの場で、私は――)

 思考は音にならず、胸の内で崩れていく。

 それでも、彼は一つだけ決めた。

(次に会えたなら、謝るではなく、頭を下げる)

 謝罪は言葉だ。頭を下げるのは、形だ。

 遅すぎることは分かっている。それでも。


──


 旧道の峠に風が立つ。

 六人の影が並び、草を鳴らす。

 先頭のアレンが振り返らないまま短く言う。

「祈り場、次は三つ。昼前に一つ、午後に二つ。走れば間に合う」

 ガイルが剣を叩く。「走る」

 レオナが矢筒の重さを確かめる。「多めに持った。足りる」

 オルフェンが盾の革紐を締め直す。「守る」

 エルノアが「記録は私が」と杖で地を軽く突き、ティアが「祈りは任せて」と胸に手を当てる。

 セレナが笑い、短い祈りを唇の内側だけで結んだ。無言祈唱。

 静けさが温度を持ち、列の背に巡る。


 歩き出す。

 空は薄く晴れ、枝先に光が引っかかる。

 遠く、王都の鐘の尾が風に引かれてほどけていく。

 届く頃には、ただの風になる。


 沈黙は、祈りだ。

 祈りは、ときに刃になる。

 刃は振り上げるためではなく、絡みついた古い言葉の縄を断つためにある。

 断たれた縄の先で、人は初めて、声を選べる。


 六人は静かに進んだ。

 足音は短く、軽い。

 それで充分だった。


──


 その日の昼、最初の祈祷石は苔と泥に沈み、文字の半分が読めなかった。

 ティアが布で丁寧に拭い、セレナが短く祈り、エルノアが刻み目の欠けを目で補う。

 レオナは周囲の足跡を読み、ガイルとオルフェンは交互に外周を歩く。

 アレンは祈りの“通り”を指先で確かめ、詰まっているところだけ、静かにほどいた。

 石は軽く鳴り、風がひとつ、色を取り戻す。


「ねえアレン」ティアが屈んだまま見上げる。「沈黙って、やさしいね」

「ときどき、残酷だ」

「どうして?」

「誰かに“言わせない”ときがある」

 ティアは少し考え、「じゃあ、今日はやさしい沈黙でいよう」と笑った。

 彼は頷く。

 やさしい沈黙は、選べる。


──


 夕刻前、二つ目と三つ目の祈祷場を繋ぎ直したころ、雲が厚くなった。

 遠雷が一度鳴る。

 雨の前に避難小屋に入ると、薪は湿っていたが、バーロの教えどおり“乾いた芯”を探して組めば火は上がった。

 皆が一息つく。

 フェリアが外衣を絞りながら笑う。「あなたたち、ほんと野営が手慣れてる」

「支部長がうるさいから」レオナが肩を竦める。「“壁壊すな”の次に“火を甘く見るな”ってね」

 ガイルが頷く。「バーロさんは正しい。甘い火は人を焦がす」

 オルフェンが短く「同意」と言い、エルノアは湯の温度を見て「あと一分」と呟いた。

 ティアは手を温めながら、「帰ったら、バーロさんにお菓子渡す」と誓った。


 火が落ち着いたころ、セレナが皆を見回し、そっと言う。

「……“沈黙で祈る”って、きっと叱られる。異端だって」

「叱られるのは私のほうだ」エルノアが口の端で笑った。「“構造で祈るな”ってね」

 レオナが眉をひそめる。「叱られても、やる?」

「やる」セレナは即答した。「このほうが、届く時があるの」

 アレンが続ける。「今日、届いた」

 ふたりの言葉は短いが、火より温かった。


 その夜、眠りにつく前、アレンは小屋の外に一度だけ出た。

 雨上がりの匂い。濡れた土。遠い王都のほうから、風に混じって薄い鐘の余韻が遅れて届く。

 届いたときには、ただの風だった。


──


 王都の夜。

 ヴァルドは書記に布告の写しを十通書かせ、各地に使者を立たせた。「沈黙は異端。祈りは声。声は秩序。秩序は神」

 セルゲイは窓辺でその背を見ながら、己の指の関節を揉む。

(“沈黙”が秩序を乱すというなら、学問はどうなる。沈黙は思索の基礎だ。……だが神殿は舞台だ。舞台には台詞がいる)

 彼はやがて振り返り、柔らかく言う。

「大導師。祈りは声でしょう。なら、神の最初の祈りはどこから始まったのです?」

 ヴァルドは目だけで笑う。「沈黙からだ」

「では、沈黙は――」

「神だけに許される」

 短い答え。扉が閉まる。

 セルゲイは天井を仰ぎ、肩で軽く息を吐いた。


 別の場所。

 ミリアは家の窓から夜の王都を見た。

 新しいブローチは光るが、手の甲には薄いひっかき傷が残っている。

 布告に署名した指で触れると、かすかに痛む。

(ごめんなさい、と言うのは簡単。……でも誰に? 彼に? 私に?)

 彼女は目を閉じ、言葉の代わりに、ひとつ息を深く吐いた。

 それが今の彼女にできる、いちばん静かな祈りだった。


──


 朝。

 六人は再び旧道へ入り、祈祷石を繋ぎ、森の“通り”を少しずつ良くした。

 昼、短い休憩。

 ガイルが肉を分け、オルフェンが水を配り、レオナが周囲を見、エルノアが記録を加え、ティアが護符を撫でる。

 セレナがアレンに問いかける。

「これから、どうする?」

「王都に入るのは、まだ早い。……先に“道”を整える。声が届くように」

「誰の?」

「皆の」

 セレナは微笑んだ。

「あなた、ほんと詩人」

「詩は――」

「分かってる、書かない。置く」

 ふたりは目を合わせず、しかし同じ笑みの温度を持った。


 丘を越え、谷を渡り、三日目の夕暮れ、遠くの空が薄金に染まる頃。

 旧道の終わりに立つ小さな聖堂跡が見えた。

 屋根は落ち、壁の半分は崩れ、祈祷石だけが雨に磨かれている。

 アレンは指先で石の縁をなぞらずに見る。

 欠けは多い。だが、通る。通せる。


 ティアが息を飲む。「ここ、好き」

 セレナが頷く。「私も」

 レオナは空を見上げ、「この色、忘れないで」と小さく言った。

 ガイルは何も言わず、剣の柄を軽く叩き、オルフェンは周囲に危険がないことを確認する。

 エルノアはページを開き、最後の一行に書き足した。

“静寂は、恐れの形ではなく、選ばれた呼吸である。”


 祈祷石の前で、六人は並んで目を閉じた。

 祈る者も、祈らない者も、ただそこに立つ。

 風が一度通り、音がひとつ、戻る。

 届くべき場所へ、届くべきものが届くために。

 それだけを確かめる、静かな時間。


──


 その夜、焚き火の前でセレナがもう一度だけ話した。

「ねえ、アレン。沈黙って、敗北じゃないよね」

「敗北じゃない」

「どうして?」

「立っているから」

 彼は火を見たまま答える。

「倒れて黙るのは敗北だ。立って黙るのは、選択だ」

 セレナは「うん」と笑って、肩を寄せた。

 火は静かに鳴り、空には雲が薄く、星が三つ、見えた。


 ティアは早く眠り、レオナは矢を包み、ガイルは見張りに立ち、オルフェンは交代の時間を正確に刻み、エルノアはページを閉じて目を休めた。

 フェリアは火の向こうで肩を抱き、「明日も走るわよ」と小さく言った。

 誰も返事をしない。代わりに、火が答えた。


──


 遠く王都。

 ヴァルドの布告は街道を走り、祈祷路をくぐり、各地の掲示板に貼られた。

 だが辺境のいくつかの村では、その紙の前で人々が首を傾げ、「静かなる人は、うちの村を救ったよ?」と小声で言い合った。

 やがてその小声は、祈りのように繋がっていく。

 言葉の祈りと、静けさの祈りが、同じ道を歩く準備を始めていた。


──


 夜半、アレンは一度だけ目を開け、炎の芯を見た。

 芯は青く、周りは橙で、外側は黒く、輪郭は揺れて、しかし倒れない。

 沈黙は祈り、祈りは刃となる。

 刃は振り上げるためではない。絡みついた古い言葉の縄を断つためにある。

 彼は短く息を吐き、目を閉じた。


 明日はまた歩く。

 それで充分だった。

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