第2話 南境ギルド支部にて

 夜の冷えは、焼け跡の黒を硬くしていた。

 村の広場に並んだ長卓には、木椀、鉄皿、湯気の立つ鍋。香草の匂いと麦の甘み、薄く仕込んだ酸い酒の香りが混ざって鼻をくすぐる。

 獣魔の気配は遠のき、代わりに人の声が戻ってきている。


 村長が立ち上がり、杖で地面を軽く叩いた。

「みんな、聞け! この者が、わしらの村を救ってくれた! 名は――アレン殿だ!」

 拍手が、最初は遠慮がちに、やがて波のように広がる。木製の椀がぶつかる乾いた音が夜に弾ける。


 小柄な子どもが走ってきて、アレンの袖を引いた。マリエルだ。

「アレンおにいちゃん、いっしょにすわって!」

 アレンは頷き、長卓の端に腰を下ろした。村人たちの視線が集まる。その中に、怯えはもう少ない。

 素朴なスープが湯気を上げる。アレンは椀を受け取り、一口だけ口に含む。温かさが、喉を降り、腹の奥の冷えに触れた。


「乾杯!」

 誰かの声に、椀が持ち上がる。

 アレンの前にも、薄く色づいた酒が置かれた。彼は唇を湿らせる程度に口をつける。

 村人が代わる代わる話しかけてきた。「どこから来た」「家族は」「どうして声を出さない」――問いは多いが、悪意はない。

 アレンは必要なだけ答えた。短く、簡潔に。

 それでも、話し声は減らない。人は、静かな者の周りでよく喋る。安心するからだ。


 火の向こうで、老人たちが昨日のことを語り始めた。

「氷の花、見たか」「風が止まった」「音が吸い込まれた」

 語りはすぐに尾鰭を得て、やがて笑いが混じる。

 誰かがぽつりと言った。「あの方は、静かなる魔導師だ」


 アレンは椀を置き、空を見上げた。

 星は王都より近く、風は王都より素直だ。

 (……求められている)

 胸の内で、乾いた部分に水が触れる感覚がした。痛みではない。安心に似て、しかしすぐに消える儚いもの。

 彼はその感覚を、そっと胸の奥に置いた。


 マリエルが木の笛を持ってきて、得意げに吹いた。音はきれぎれで、時々裏返る。

「うまくなった」

 アレンが言うと、周りが笑い、マリエルは真っ赤になって笛を抱えた。

 村長が酒を持ってやってきた。

「明日、南境のギルド支部に報告してくれ。魔石は――持っていってくれ。支部までの道は、この村の者が送る」

「自分で行く」

「そうか。……世話になった。わしらの生きる音を、戻してくれた」


 アレンは否定しなかった。

 音は戻った。だが、必要があれば、また静かにできる。**無響障壁サイレンス・シールド**の薄膜は、広場の外周で夜風に合わせて微かに角度を変え、人の笑い声を村に返していた。


──


 明け方、見送りの列を背に、アレンは村を出た。

 背嚢には緊急用の薬草、腰には小袋。村長から受け取った獣魔の魔石の袋は重い。

 谷を渡る風が、昨夜の焚き火の匂いを薄く残している。


 南境の冒険者ギルド支部は交易街の中央にあった。

 石造りの大きな建物、使い込まれた扉金具、二階から聞こえる訓練の声。

 扉を押すと、獣脂と酒の匂いが混ざった空気が肌にまとわりつく。依頼掲示板の前で冒険者が言い合い、奥の酒場では朝から杯が動いている。


 カウンターの内側で、茶髪の若い女性がきびきびと手を動かしていた。

 ――リサ・ファルネ。

 琥珀色の瞳がこちらをとらえ、ぱっと笑みが咲く。


「南境支部へようこそ! ご用件は――って、魔石の袋! 報告ね?」

「村の緊急依頼。討伐と救援。報告と提出」

 アレンが袋を置くと、布越しに赤紫が滲む。

 周囲がざわめく。「おいおい、どれだけ狩った」「一人で?」

 リサは素早く印を押し、袋を検分した。

「……群れの核、混ざってる。サイズがちょっとおかしいくらい。確認、支部長呼ぶね」


 重い靴音。

 肩幅の広い男が現れる。銀髪交じりの髭、無駄のない視線。

 ――ガイウス・ベルンハルト、支部長。


「報告は聞いた。お前がやったのか」

「アレン」

「アレン。……無詠唱――いや、**呪文式スペル・フォーミュラ**を用いない、と聞く」

 支部の喧騒が一瞬だけ薄くなった。

 アレンは頷く。

 ガイウスは短く息を吐く。

「証言と魔石が物語っている。ならば南境では結果を尊ぶ。――協力を頼みたい依頼がある」


 扉が開き、風が吹き込む。

「支部長、戻りました」

 小柄な影が滑り込む。灰色の瞳、肩に弓。

 ――ティア・エルン、斥候。


「昨日の焼け跡、見た。獣魔の足跡は二筋。片方は谷へ。もう片方は……観察してた」

 ティアはアレンを見て、言葉を切った。

「……声、出さない魔導師」

「……」

「戦い、見たい」


 周囲が笑い、空気が緩む。

 ガイウスが手短に説明した。

「護衛だ。薬草商カッセルの隊商で峠越え、三つの村へ物資を配る。近頃は魔物だけでなく盗賊も出る。昨日の村もその道筋にある」

 リサがカウンターから身を乗り出す。

「私も同行する。書類の記録も現場の判断も両方見たいし、回復要員は多いほうがいい」

 ティアも淡々と加える。

「索敵する。峠の風、読める」

 ガイウスは顎を引いた。

「三人で受けるなら許可する。責任は俺が持つ」


 アレンは短く言った。

「引き受ける」


──


 出立は昼過ぎ。

 隊商は荷馬車二台、御者二人に小間使い一人。名目上の護衛の槍兵が一人いたが、甲冑は薄く、槍先は欠けている。

 御者の老人が手綱を打った。「カッセルだ。草と根と、たまに毒。あんたが噂の静かな魔導師か」

「噂?」

「南境は狭い」

 老人は目を細め、前を向いた。


 行軍の配置はすぐに決まった。前衛にティア、中央に隊商とリサ、後衛にアレン。

 リサが明るい声で確認する。「危険時の合図、ティア?」

「弦、二回で後退。一回で停止。無音が最優」

「了解。私は防護光ルーメン・ヴェイル光標ライト・マーカーで視界を守る。アレンは――」

「必要に応じて無響障壁サイレンス・シールド氷糸罠アイス・スレッド冷却封コールド・シール。連鎖は最小」

「頼もしい」

 リサは笑い、荷のバランスを目で追う。

 その横で、アレンはすでにいくつかの式を置いた。

 車輪の軸に連鎖強化チェイン・ブースト、外周に薄い無響障壁。荷の傷みやすい箱には冷却封。

 息をするように、淡々と。


──


 峠の石道に差しかかると、風が斜面を滑り降りた。

 ティアが指を立てる。隊商が止まる。

 彼女は矢羽を一本抜き、草に挿して揺れを読む。

「……右手の窪地。獣の匂い。十――いや、十二。狼型亜種。狩りの直後。血は獣」

 御者が声を潜める。「戻るか?」

 リサは首を振る。「荷は急ぎ。抜けよう」

 ティアは弦に指をかけた。「私が釣る。三息で反応」

 アレンは頷く。薄く**霧壁フォグ・ヴェール**を前方の稜線に沿って置き、群れの視界と風の層をずらした。


 ティアが走る。矢が二本、異なる角度で放たれ、二つの影の肩に刺さる。

 地面が低く唸り、12の影が飛び出す。

 先頭が滑る――氷糸罠が関節を凍らせ、転倒。後続が躓き、隊列が乱れる。

 リサが両掌を突き出す。「光紋陣ルーメン・サークル!」

 地面に淡い紋が走り、影の足を絡め取る。致命傷は与えないが、動きを鈍らせる光。

 ティアは乱れの中に空いた喉と目を正確に撃ち抜いていく。「右、三落ち。次、左奥」

 アレンは息を吐くように、**氷葬花アイス・ブロッサム**を置いた。

 音はない。花弁のような薄氷が静かに開き、統率個体の周囲で円を描く。次の瞬間、花弁は内へ反転し、熱と動きを封じた。

 崩れ落ちる音が、遅れて谷に落ちた。


 御者が震える手で手綱を握り直す。

 リサは肩で息をしながらも、すぐに周囲を見回す。「被弾なし。隊商、無傷」

 ティアが矢を回収しつつ短く言う。「奥、残り三。逃走」

 アレンは頷き、統率個体の氷殻を足で割って核を露出させた。

 赤い魔石が二つ。

 リサが言う。「回収して。これ、報告の証拠になる」

 アレンは二つを小袋に落とし、隊商に戻った。


 (――息が合う)

 アレンは短く思う。声を重ねないほうが、速い。

 王都の戦場では、声が秩序だった。ここでは、沈黙が秩序になる。


──


 峠を越えると、空は高く乾いていた。

 最初の村に入ると、子どもたちが駆け寄り、御者カッセルの名を呼ぶ。

 荷を降ろす間、ティアは柵の壊れを数え、アレンは**魔導刻印アーク・シグナで仮補強を入れる。

 リサは村の女たちに治癒符キュア・タグ**の使い方を教え、切り傷の手当を手早く見せた。

「ほらね、へこんだらここを押して。光が消えたら取り替えるの。――そう、上手」


 村の広場で小さな宴が始まり、隊商は再び出る。

 二つ目の村へ向かう道は狭く、崖が近い。

 午後、崖の上に黒い影がちらついた。

 ティアの弦が低く鳴り、隊商が止まる。

 次の瞬間、落岩。

 アレンは掌を返して無響障壁を盾に変え、衝撃の向きを横へ逃がす。岩は粉になって脇で崩れた。

 上から矢。

 ティアが二本、三本と撃ち落とす。

 リサが叫ぶ。「防護光ルーメン・ヴェイル!」

 薄光の膜が荷を包み、矢を逸らす。

 アレンの指がはじく。氷針閃アイス・ダート。見えぬ針が弓手の手首に刺さり、悲鳴が弾けた。

 影は散る。

 追跡はしない。アレンは首を横に振る。「遅滞目的。追えば獣に混ざる」

 リサは息を整えた。「了解。被害ゼロ、続行」


──


 三つ目の村。

 戸は閉ざされ、窓の隙間から視線が覗く。広場には黒い輪――焼け跡。

 アレンは灰に膝をつき、指でそっと撫でた。

 甘く乾いた匂い。

 魔族。

「……まだ、近い」

 森の縁に薄い影。笑う気配。昨日の“観察”と同じ圧。

 リサが袖をつまむ。「どうする?」

「護衛優先。荷を降ろす。夜、備える」


 人は少ないが、残った者は震えながらも列を作った。

 御者カッセルは声を柔らかくし、物資を配り、名前を呼ぶ。

 ティアは柵を直し、見張り位置を指示する。

 リサは傷の消毒と活力杯ヴィタ・カップで体力を繋ぎ、涙に混ざる笑いを引き出す。

 アレンは村の外周に薄く無響障壁を展開し、焼け跡の中央に**鎮魂紋レクイエム・グリフ**を置いた。

 夜風が印に触れて低く鳴り、子どもの嗚咽がすっと吸い込まれる。

「……歌みたい」

 誰かが呟いた。

「歌じゃない」

 アレンはただ言い、立ち上がった。式の鳴りが夜の輪郭を整える。


──


 夜。

 焚き火を囲む輪の外に、見張りの影が点々と置かれた。

 森から、金属の鈴が一度だけ鳴る。

 ティアの弦に指が触れる。「来る?」

「来ない。見るだけ」

 アレンは森の暗がりを見つめる。気配は遠い。

 リサが火に手をかざす。

「あなたの**秘儀式(アルケイン)**は、王都じゃ認められない」

「……ああ」

「それでも、今こうして人が助かってる。――それが答えなんでしょ」

 アレンは火を見た。

「式は、世界の骨だ。声は影だ。……影を要る者は使えばいい」

「あなたは」

「要らない」


 リサは笑った。「じゃあ、代わりに喋る役、私がやる」

 ティアが小さく頷く。「無駄な音、出さない」


 遠くで鈴がもう一度鳴り、それきり止んだ。

 見張りの夜は静かに過ぎ、東が薄く白んだ。


──


 支部に戻ると、門はすぐに開いた。

 カウンターのリサは先回りして書類を広げ、ティアは無駄のない口数で要点を並べる。

「狼型亜種十二、統率一。盗賊三。魔族の観察者、距離保持。隊商・荷ともに無傷。村三箇所へ物資配布完了。被害村一、再襲来の恐れは保留」

 御者カッセルが両手を広げて笑う。「こいつらがいなきゃ死んでた!」

 奥からガイウスが現れ、重々しく頷いた。

「よくやった。功績として処理する」

 彼はアレンの前で足を止める。

「南境は王都の紙では動かん。役に立つ者を信じる。――正式に提示する。アレン、ティア、リサ。**臨時小隊テンポラリ・ユニット**を認可する。名は……」

 リサが即答する。「『静隊』!」

 ティアが首を傾げる。「短い。良」

 アレンは肩をわずかに落とした。「名は要らない」

 ガイウスが笑う。「記録上は小隊Aだ。実質は好きに動け」


 封袋が渡され、印が押される。

 ガイウスは続けた。

「二日後、南境の砦へ護衛がある。物資だけじゃない。巡礼者が混ざる。怪我人も出るだろう。回復が足りん。辺境教会と話をつけた。セレナ・アルティナ――シスターを同行させる。腕は確かだが、呪文式に厳格だ」

 半歩おいて、もう一枚の紙を掲げた。

「それと、盾の使い手。オルフェン・グライア。明日ここに来る。重盾だ。お前たちに足りない“壁”になるかもしれん」


 リサが弾む声で手を叩く。

「回復も壁も、最高! ね、アレン?」

「必要だ」

 ティアが目を細める。

「教会、衝突の可能性」

「私が間に入る」リサが笑った。「それが私の役割」


──


 支部は夕暮れの色に染まっていた。

 リサは現場用の装備一式を広げ、紙束に走り書きを重ねている。

「**治癒符キュア・タグ**は十。活力杯ヴィタ・カップは二。光標ライト・マーカーは追加。――アレン、あなたの無響障壁と干渉しない周波、教えて」

 アレンは短く説明した。「この範囲。この角度。重ねるなら、光の縁を薄く」

「了解!」

 ティアは矢羽を整え、弦の張りを夜風に合わせて微調整する。

「峠の風、明後日は北。霧、朝に出る」

「霧なら霧壁、視界をこちらに有利にできる」

「……好き」

 ティアは一言だけ残し、また手を動かした。

 リサが目を丸くする。「今、“好き”って言った?」

「霧。好き」

「そ、そっちかぁ……」


 笑いが、屋上の風に混ざって街へ落ちた。

 アレンは夕空を見た。

 王都では、笑いは飾りだった。ここでは、働く音だ。

 (――静けさの中で、音を合わせられる)

 胸の奥の乾きに、また一滴、温かいものが落ちた。


──


 夜更け。

 支部長室の灯りは遅くまで消えない。

 ガイウスは古い地図に視線を落とす。古戦場の傷跡、その上をなぞる新しい線。

 魔族行軍路。

 線は王都ではなく、南境を這うように伸びている。

「……嵐になる」

 机の端の書状に目を移す。差出人は辺境教会――セレナ・アルティナ同行の旨。

 もう一通。鍛冶工房レイシア――見習いのカトリーヌ・レイシアが、魔導刻印の特別講習を申し出ている。

 支部長は笑みをひとつだけ漏らした。

「賑やかになるな。静かな連中の、賑やかな日々だ」


──


 同じ頃。

 支部の屋根の上、アレンは夜の匂いを吸い込んだ。

 遠くの闇で、薄い気配が笑う。

 魔族の観察者。

 (見ていろ)

 呪文式は世界を飾る。式は世界を組む。

 静けさは、式を汚さない。

 だから、置けばいい。必要なだけ。必要な場所に。


 彼は目を閉じ、夜の中に、次の式の輪郭をひとつ置いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る