無能と呼ばれ追放されたが、静かなる無詠唱で異世界最強でした
桃神かぐら
第1話 追放の日
王都の中心街は朝から祝祭の色に染まっていた。花弁を散らす露店車、陽光を弾く旗布、鐘楼の上で鳴らされる高い鐘の音。今日が「勇者パーティ結成の日」であることを、王都はあらゆる音と色で表していた。
冒険者ギルドの本部――白石の大階段を上がった二階大広間は、人の熱で空気が重い。貴族の正装も商人の礼装も、衛兵の甲冑も、すべてが祝福のために磨かれている。壇上中央に立つ若者は、磨き上げられた剣を掲げ、群衆から歓声を受けていた。
「勇者ライル様だ!」「聖剣が眩い」「これで魔王軍も恐るるに足らずだ」
聖剣〈オルディネ〉は光を舐めるたびに低く鳴り、柄に刻まれた聖紋が淡く脈打つ。これが「勇者適性」の証左――神殿が定め、王国が広めた新しい時代の秩序。聖紋に応える者は勇者と認められ、王の庇護を得て魔王を討つ。
若き勇者ライル・クロードは、その秩序の象徴だった。端整な顔立ち、通る声、笑えば会場が沸く。王国に必要なのは希望の形であり、彼はまさにそれだった。
そのライルと同じ壇上、端の席に一人の青年が座っている。黒髪を短く刈り、背筋を伸ばしているのに、不思議と目立たない。名はアレン・クロード。勇者の兄であり、クロード侯爵家の長男であり、そして今、会場の視線が最も冷えて向かう場所でもあった。
「……静かだな、あれが兄のほうか」
「魔導師と聞いたが、詠唱の一つもしないらしいぞ」
「聖剣も反応しなかった相手だ。席を与えられているだけで僥倖だろう」
囁きは石つぶてのように飛んでくる。アレンは眉一つ動かさず、壇上の木目を見ていた。右手の指先が椅子の肘掛けを一度だけ軽く叩く。癖。戦場で数多の詠唱を聞いた耳は、今日に限って何も求めていない。ただ、終わりの合図を待っていた。
合図はすぐに来た。聖剣の光が収まり、司式役の神官が退く。代わって、銀糸の肩掛けをきっちりと整えた若い男が一歩前に出る。王国付き宮廷魔導士、セルゲイ・ハイドリッヒだ。舌鋒で人を刺すことにかけて、王都では彼の右に出る者はいない。
「――では、勇者パーティの最終構成を発表する。勇者ライル殿、剣士ダリル殿、僧侶ミーナ殿、弓手レオナ殿、盾兵グラント殿、および……」
ほんの一拍、名前が続くと信じた者がいた。あるいは会場の一部は、血縁と体面が全てを覆うのだと確信していたかもしれない。
だが、銀の肩掛けは冷酷に言葉を終える。
「以上の五名で編成する。よって――アレン・クロード殿は、これをもって勇者パーティから外れる」
ざわり、と空気が揺れた。控えめなざわめきではない。待っていた者の、溜め込んだ呼気が一気に漏れる音。
セルゲイは涼しい顔で続ける。
「理由は明白だ。パーティ結成前の対魔王軍前哨戦において、アレン殿は一度たりとも**呪文式(スペル・フォーミュラ)**を行わなかった。魔導師でありながら、だ。戦果への寄与は確認できず、むしろ指揮体系を乱す恐れがある――と宮廷魔導院は結論した」
壇上右手の僧侶、ミーナが静かに頷く。白い法衣、揺れる聖印。柔和な顔に微笑が浮かぶが、その微笑の下にある断定は硬い。
「神は言葉を通して奇跡をもたらします。呪文式を捨てる者は、神の秩序を捨てる者。わたくしは、祈りの輪から彼を外すべきだと考えます」
剣士ダリルが腕を組み、顎をしゃくる。
「戦場で黙って立つ奴ほど怖ぇもんはねえが、あんたの場合は別だ。何もしないで立ってただけだ。勇者様の足を引っ張る理由が見当たらねえなら、居る理由だって見当たらねえ」
会場のざわめきが増幅する。アレンは、視線を上げた。セルゲイ、ミーナ、ダリル。三者三様の正しさをまとった言葉は、質量を持って彼に降りかかる。
そのとき、聖剣を掲げた弟――ライルが一歩前に出る。光を背に受け、祝福の中心の位置から、兄を見下ろす。
「兄上。わたしは、あなたを尊敬したかった。家の長男として、幼いころから剣の手ほどきをしてくれた兄として。だが――」
軽く息を吸い、会場全体に届く声量を作る。勇者は、見られることに慣れている。
「だが、あなたは努力を怠り、現実から目を逸らした。魔導師を名乗りながら、呪文式一つ覚えようとしなかった。出自に甘え、兄という立場に甘え、王国の恩寵に甘えた。無能は、勇者の隣に立てない」
その言葉に、歓声は起きない。代わりに、同意のざわめきと、納得のため息がさざ波のように広がる。
アレンは身じろぎもせず、ただ弟の顔を見返した。ライルの目はよく通る青で、幼いころはその青に憧れた。空の色だと思った。
壇上の左側から、衣擦れの音。アレンの婚約者、ミリア・ローゼンが前に出る。今日のために仕立てた薄桃のドレスは、光を受けて柔らかに輝く。彼女は小さく会釈し、会場に聞かせる声で言った。
「アレン様。わたくしは本日をもって、あなたとの婚約を破棄いたします。これからは勇者ライル様と、その隣に相応しい者として歩んでまいります」
会場のどこかで乾いた笑いがこぼれる。「勇者の妻か」「目が高い」そんな言葉が飛ぶ。
アレンは目を閉じてから、ゆっくりと開いた。ミリアの瞳は揺れていない。彼女は怖れている。世間を、未来を、評価を。だから、最も安全な場所に移動した。
壇上後方、家族席。クロード侯爵夫妻が座っている。父は硬い口元で何かを噛み殺し、母は扇を畳んだまま視線を落としている。アレンが視線を向けると、父はわずかに首を横に振った。
「……家の名誉のためだ、アレン。理解してくれ」
その声は、驚くほど弱かった。縋るような弱さではない。自己の正しさを保つための、わずかな震え。
アレンは立ち上がる。椅子が床を擦る音が会場に響く。彼は一礼し、短く言った。
「わかった」
それだけ。
引き止める声はない。感情の奔流もない。会場のざわめきが少し高まり、やがて彼の背に向けられる。
大広間の扉が重い音を立てて開く。陽光が差し込み、外の喧騒がひとしきり流れ込む。アレンはその光へ歩いた。背後で、誰かが小さく吐き捨てる。
「無能が」
扉が閉まるとき、アレンはふと見た。壇上の端。群衆から身を引くようにして立っていた一人の女性――王女エリシア。王族の装いでありながら、表情に華美がない。
彼女は群衆と同じ方向に顔を向けていたが、目だけが、アレンを見ていた。疑問の色を宿した目だった。
扉が閉まる。音が途切れる。
◆
石畳の目地に、小さな紫の花が根を張っている。祝祭の紙吹雪が地面に溶けて、湿った色になっていた。
アレンは大広間を出ると、そのままギルド本部の裏手に回り込み、石段に腰を下ろした。背中に、壁のひんやりした感触。喧騒は遠くなり、かわりに鳩の鳴き声が近い。
息を一つ吐く。胸の奥のどこかが空いている。それは痛みではなく、抜け落ちた感覚に近い。長い時間、同じ場所に置かれていた石が、ある日突然取り払われたときの跡のような――そんな空白だ。
指先が、無意識に空をなぞる。呪文式には一定の節回しがあり、息継ぎの場所があり、手の所作が伴う。王都の魔導士院では、それを「基本」と呼ぶ。
アレンは、その「基本」を一度も覚えなかった。覚える必要が、なかったからだ。
耳の底に、砂を踏む音と、甲冑が鳴る音が蘇る。暑い風、鉄の匂い。視界の端で砂塵を上げて突進する獣魔の群れ。これは三ヶ月前の前哨戦、南境での戦いだ。
――剣士ダリルが前に出る。僧侶ミーナが祈りを唱え始める。宮廷魔導士セルゲイの呪文式は長い。彼の魔法は強力だが、完成までの時間が要る。
獣魔の角が光る。角は魔力を帯び、突進の勢いをさらに増す。前列が押される。
アレンは、誰にも見えない位置で〈無響障壁〉を張った。音も光も衝撃も吸い込む薄い膜。詠唱はしない。手も動かさない。呼吸すら乱さない。ただ、思考を魔力に触れさせ、必要な秘儀式(アルケイン・フォーミュラ)を完成させて置く。
角がぶつかる。衝撃は音もなく消え、前列の盾兵は一歩も退かなかった。驚いた目が後ろを振り返る。アレンは視線を逸らし、もう一つの式を重ねる。〈連鎖強化〉――仲間の武器に薄い光を忍ばせ、刃の縁をわずかに硬化させる。
ダリルの剣が獣魔の首節に吸い込まれるように入る。彼は叫ぶ。「今だ、落ちるぞ!」
叫びが戦場の合図になり、隊列が音を合わせる。ミーナの祈りが間に合い、セルゲイの炎が完成する。
火柱が上がる。歓声が上がる。
アレンは、汗を拭った。誰にも気づかれないように。
戦闘の合間、ダリルが言った。「今日は楽勝だな」
ミーナが笑った。「神の御業は確かです」
セルゲイが顎をしゃくった。「勇者様のカリスマあってのことだ」
アレンは首を縦にも横にも振らなかった。視線が合うことも避けた。戦は終わっていない。彼が気にするのは、獣魔の背後で蠢く別の魔力――崖上の陰に潜む魔族の監視だ。
監視の視線が、彼のほうだけを鋭く抉った。魔族は知っている。魔法は音ではなく構造であり、力は言葉ではなく式であることを。
視線は、獣の匂いとともに去った。
回想がふっと薄れる。アレンは石段の上で、指先を止めた。
王都は「詠唱=呪文式」を基準に魔法の可否を測る。神殿は、その基準を「神の秩序」と呼び、王国は「勇者適性」という制度に組み込んだ。
その秩序の外側にいる者は――測られない。測れないものは、存在しないとみなされる。
「……」
足音が一つ、石段の下に止まった。金の飾り房が風に揺れ、柔らかな靴音。アレンが顔を上げると、そこに王女エリシアが立っていた。近衛を伴っていない。銀糸を織り込んだ青のドレスは簡素に見え、しかし目を引く。
「ごめんなさい。無作法を承知で……少しだけ、お話をしても?」
アレンは立ち上がり、会釈した。王族に許された距離まで近づくのを避け、二歩分の間を置く。
「私の言葉に価値はありません。今は、特に」
「価値のない言葉を、私は信じません。あなたは……式の間、ずっと黙っていましたね」
「言うべきことが、ありませんでした」
「呪文式を使わないのは、恐れですか? それとも、信条ですか?」
エリシアの目は真正面から来る。柔らかいが、逃げ道を用意しない目。
アレンは一秒だけ考え、首を横に振った。
「恐れではありません。信条とも違う。ただ――必要がない」
王女は瞬きをひとつ。
必要がない、という語の軽さに、彼の口調はどこまでも静かだった。
「詠唱が、あなたには必要ない……という意味ですね」
「はい」
「……わかりました。いえ、理解できたとは言いません。ただ、覚えておきます」
エリシアは小さく頭を下げた。王族の礼としては破格に深い。
近衛が遅れて駆けてきて、ようやく王女を取り囲む。騒がしくなる前に、エリシアは踵を返した。
去り際、振り向かずに言葉だけが届く。
「あなたが黙っている間に、誰かがあなたの代わりに声を出すでしょう。今日の壇上のように。でも――本当に必要なとき、声が邪魔になることもある。私はそう思います」
アレンは答えなかった。王女は階段を下り、群衆の海へ消えた。
彼は手袋を嵌め直し、腰の小袋を確かめる。旅装には程遠い。だが王都に長居の理由はない。
ギルド裏門から通りへ出ると、すぐに幌馬車の勧誘が声をかけてきた。
「北へ? 西へ? 勇者様の行列は見に行かないのかい」
「南境へ」
「なんでまた。あそこは魔王軍の出没が多いぞ。命が惜しけりゃ――」
「行く理由がある」
短い返答に、御者は肩をすくめる。「物好きだね」と笑い、馬車の戸を開いた。
◆
王都を囲む外壁の外、穀倉地帯を抜ける細い街道は、午後になると風が低くなる。馬車の軋みと車輪が砂利を噛む音だけが続き、同行の商人たちは話題を探しては笑いに変えた。
アレンは荷の上に腰を下ろし、丘陵の線を眺める。遠目に見える小さな森、その先にかすむ青灰色の帯が南境の山並みだ。
彼は目を閉じた。瞼の裏、指先が空気の骨組みを撫でる。音のない詠唱――いや、呪文式の不在。
魔法は構造で、意志はその骨組みに流し込む流体だ。言葉は、意志を自分で確かめるための影絵にすぎない。影絵がなくても、本物があれば足りる。
アレンは、影絵を持たない。最初から、本物だけを握っている。秘儀式――古代に失われ、強すぎたがゆえに忘却された式。
馬車が大きく揺れ、停まった。御者が短く舌打ちをする。「野営だ。夕暮れには峠にかかる。無理はしない」
焚き火が起きる。干し肉の匂いが広がる。新人の商人が世間話の中で勇者の話題を出し、年嵩の隊商長が「勇者様はすげえ」と頷いた。その目の素朴な敬意に、アレンは何も言わない。
夜は冷えた。星が滲み、火の粉が風に乗る。アレンは少し離れた岩の上に腰を掛け、夜を見た。
夜は、静かだと人は言う。だが、夜は音で満ちている。冷えた草の擦れる音、虫の翅の鳴る音、遠くで石を落とす音。人が声をやめたとき、世界の声がよく聞こえる。
アレンは、世界の声に耳を傾ける。その声の配列を、掌の内に並べ替える。必要があれば、いつでも、どの声でも、別の式に組み替えられるように。
◆
翌朝、峠に差しかかったところで、馬車が再び止まった。御者が顔色を変える。
「……煙だ。前方、谷から煙が上がってる。あれは村だろう」
谷筋に沿って、薄灰の煙がいく筋も立ち上っている。火事の煙だ。嗅ぎ慣れた焦げではない。獣脂の混じる重たい匂い。
御者が迷う間に、アレンは荷台から飛び降りた。地面を蹴る音が一度。次の瞬間には、谷への細道を降りていた。
御者が叫ぶ。「待て、危ねえ!」
商人が叫ぶ。「戻ってこい!」
山道は滑る。アレンは足裏だけで石の角度を読み、転ばずに進む。谷は近い。叫び声が風に乗って千切れ、鳴き声のように上がってくる。
斜面の木立が途切れ、視界が開けた。
そこに村があった。そこに、炎があった。
藁葺きの屋根が黒煙を吐き、家々の間を、背の低い獣魔の群れが素早く走り回る。狼に似た四足だが、背骨が盛り上がり、口腔が深く、牙の根元が赤く発光している。群れの後方には、二回り大きな影――群れを束ねる亜種。
村の男たちが武器を取っている。だが数が足りない。子どもを抱えて逃げる女の背を、獣魔の前足が掠める。
アレンは、走りを止めた。
足元の小石が転がる。そのわずかな音が、彼の中の何かを静かに整える。
――音を増やす必要はない。
彼は、ただ、**秘儀式(アルケイン・フォーミュラ)**を置く。
空気がひとつ、温度を失う。
風が止まる。炎の舌が一瞬だけ、動きを忘れる。
獣魔の群れが、走りながら硬直する。四肢の付け根から白い結晶が芽吹き、毛皮の表面に薄氷が走り、牙の赤が硝子の下に閉じ込められる。
音がない。悲鳴がない。呪文式がない。
ただ、世界が、凍る。
村の中央の広場を中心に、薄青い光が花弁のように広がり、氷の花が咲く。
呼吸をする間に、群れ全体が氷像になった。
遅れて、軋む音がする。氷が重さに耐えきれず、内側から粉砕される音だ。
氷像が崩れる。細い雪片が陽の下で舞い、獣魔の影は粉になって地面へ散った。
村人の一人が、武器を落とした。石に当たって、乾いた音がする。その音が、合図になったかのように、息を飲む音が村中から上がる。
「……い、今、誰が……?」
アレンは広場の端に立っていた。手は下ろしている。肩も上がっていない。呼気だけが、少し白い。
最も大きかった亜種――群れの核――だけがまだ崩れず、氷の殻の中でかすかに震えた。
アレンは半歩、前に出た。氷殻に、指先で触れる。
触れた場所から、透明な裂け目が走り、殻は静かに開く。中身はもはや獣ではなく、ただの冷えた彫刻だ。重みだけを残して地に落ち、砕けた。
ようやく、ひとりの老人が言葉を見つける。
「……なん、だ……今のは……」
アレンは答えない。代わりに、倒れた屋根に〈無響障壁〉を薄く張り、延焼の進行を止める。近くの井戸から汲み上げられた水が、障壁の内側で霧になり、火を弱らせる。
村の女が子を抱いて、アレンの前に膝をついた。震える肩。声にならない礼。
アレンは首を横に振る。礼は要らない。確認することがある。
「怪我人は」
問いだけ。女は慌てて立ち上がり、納屋のほうを指す。
納屋の中には、角材が崩れて閉じ込められた男がいた。胸の上に太い梁。呼吸が浅い。
アレンは梁の両端を見て、指を二度鳴らした。音は小さい。だが梁は内側から粒状にほどけ、砂のように流れ落ちる。〈魔力分解〉――**魔導式(マジカル・フォーミュラ)**の系統に古く残る応用。
男の胸が大きく上下し、荒い呼吸が戻る。
アレンは手のひらを軽くかざす。〈魂癒〉――傷腫れの下にある痛みの根だけをほどく。男は目を開け、焦点が合う。天井を見て、次いで目の前の黒髪の青年を見る。視線が問いを含む。
答えはやはり、返らない。
村の奥、倒れていた柵の陰で、年端のいかない子が泣いていた。膝を擦りむき、手に小さな刺が刺さっている。アレンがしゃがむと、子は泣くのをやめた。泣くよりも、目の前の人が何者かを測ろうとする、子どもの真剣さ。
アレンは刺を抜き、小さな傷口に指を当てる。痛みが霧のように薄れる。子は目を丸くして、どもりながら言った。
「……おにい、ちゃん、いま、うた……歌って、ない」
アレンは微かに首を傾けた。
「歌じゃない」
「じゃあ、なに?」
「ただ、式を」
「しき……」
子は言葉を舌で転がし、納得したようなしないような顔をして、こくんと頷いた。
村のあちこちから、人々が集まってくる。年寄り、女、男、子ども。皆、彼を見る。誰かが呟いた。
「静かだ……」
別の誰かが答える。
「……あの方、声を出していなかった」
「呪文式を……しないのか?」
「じゃあ、どうやって」
問いは連鎖する。アレンは、答えない。代わりに、燃え残りを見て回り、倒壊の危険がある柱に見えない楔を打ち込む。〈魔導刻印〉――簡易のもの。柱は一夜は保つ。
村長と思しき老人が、震える手で杖をつきながら近づき、深々と頭を下げた。
「助けていただいた。名を、お聞きしても……」
アレンは少しだけ考えた。名は、王都に残してきた重さだ。だが隠す理由はない。
「アレン」
「アレン……殿。あんたは……」
老人は言葉を探す。彼の背で、誰かがもう口にしていた。
「静かなる、魔導師だ」
それは称号というより、目撃談だった。
アレンはわずかに目を細めた。目の端で、谷を渡る風の向きが変わったのを見た。風は上流から煙を押し、匂いを連れてくる。甘い、しかし乾いた、焦げとは違う匂い――腐肉ではない。魔族だ。
谷の入口、木影の奥。気配が、笑う。
アレンは視線だけを向けた。木筋の隙間に、薄い影。瞳がこちらを見る。
見て、理解し、そして――納得する瞳。
影は音もなく後退し、森に溶けた。
彼らは見た。呪文式の不在を。王都が測定不能と切ったものの輪郭を。
やがて、これが魔王軍の戦術を変える。詠唱破りや沈黙罠が意味を持たない敵――「静かなる魔導師」が戦場に現れた、と。
だが、それはまだ遠い未来の話だ。
◆
夕暮れ、村の片隅で、アレンは一杯の薄いスープを受け取った。大鍋からよそわれた麦と野菜の味。椀は温かく、両手に持つと掌に血が戻る。
村人たちは、距離を取って近づいては離れる。礼を言う者、手を振る子、ただ見つめるだけの老人。
アレンは椀を置き、立ち上がる。
「見張りをする」
誰に言うでもなく、そう言って村の外れに向かった。谷を見下ろす丘の上に立つと、夜の気配が早い。今日の夜は、少し風がある。
星の出る前、空は均一な群青になり、世界の輪郭だけが残る。アレンはその輪郭の隙間に立ち、目を閉じて世界の声を拾う。
遠くで、狼が一度吠えた。答えるように、別の方向で一度、鈴が鳴った。風鈴ではない。金属の小さな鳴り。人の持つもの。
谷の入口に、あの気配。
アレンは、丘の草に手を触れた。草は冷えて、薄い水を含んでいる。彼は草の水分をひと筋、指先に集め、空気の薄膜に広げる。
薄膜が、夜気を拾い、音を滑らせる。風の形が、指先の内で見える。
彼は音を一つ、そこに落とした。言葉ではない。式だけの命令。
丘の斜面を滑ってきた影が、境目で足を止める。何もない場所に、何かがある――と気づいた獣の止まり方だ。
影は一歩、退いた。
アレンは薄く息を吐いた。今日は、これでいい。村は眠れる。
背後で、草を踏む音がひとつ。振り向くと、昼間の子がいた。手に、欠けた木の剣。眠れない顔。
「おにいちゃん。きょうの、こおりの、うた……」
「歌じゃない」
「じゃあ、なに?」
「ただ、式を」
「しき……」
子は言葉を転がし、納得したようなしないような顔で頷いた。
アレンは子の頭に手を置き、すぐに離した。
遠く、王都の方角に薄い光の筋が上がる。祝祭はまだ続いているのだろう。勇者は歌われ、聖剣はたたえられる。
アレンは空の黒さを見上げた。
王都は信じている。詠唱が世界を変えるのだと。呪文式がすべてだと。
彼は、静かに目を閉じる。
詠唱が世界を作るのではない。式が世界を作る。
沈黙は、式を汚さない。
式を置くために、声は要らない。
夜が深まる。村は眠る。丘の上、静かな魔導師は目を開けて、夜の守りについた。
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用語集(第1話時点)
■ 呪文式(スペル・フォーミュラ)
• 現代魔法の主流体系。
• 言葉(詠唱)・動作・呼吸を揃えて発動することで、魔力を外界に整える。
• 王国の魔導士院や神殿が「唯一正しい魔法」として制度化。
• 詠唱の長さと安定性が威力・効力に直結する。
• 王国の勇者制度も、この呪文式を基準にしているため、詠唱しない魔導師は「無能」と見なされる。
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■ 魔導式(マジカル・フォーミュラ)
• 学術体系として整理された古い魔法式。
• 呪文式よりも幅広い実験・研究に使われる。
• 詠唱を必須としつつも、図形や刻印などの補助も組み合わせる。
• 学者や研究者が好むが、戦場では扱いにくい。
• 遺跡や古文書に残る魔導刻印の多くは、この「魔導式」を基盤にしている。
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■ 秘儀式(アルケイン・フォーミュラ)
• アレンが操る“古代魔法”。
• 詠唱や動作を一切必要とせず、魔力を直接「構造(フォルム)」に組み上げて発動できる。
• 即時発動・同時多重発動・妨害不能という、現行体系の“最上位互換”。
• あまりに強力で、過去の大戦で世界バランスを壊しかけたため、歴史から「失われた」とされている。
• 王国では存在すら認知されず、「測定不能=無能」とされている。
• アレンだけがこれを自然に使いこなす。
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■ 式(フォーミュラ)
• 魔法の本質。
• 「言葉」や「動作」は本来ただの補助にすぎず、力の核は「式」にある。
• アレンは「式そのもの」を直接置くことができるため、声を出さない。
• 物語のキーワード。「静かなる魔導師」という呼び名は、この“式のみによる魔法発動”から生まれる。
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■ 勇者適性
• 神殿と王国が制度化した“勇者認定”の基準。
• 聖剣〈オルディネ〉の聖紋に反応することで選ばれる。
• 王国の公式魔法体系である「呪文式」を前提に設計されているため、秘儀式のような存在は完全に切り捨てられる。
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