第2話
「ではすぐに出発せよ」
木下の言葉に頷くと、懐に銀子をしまい丑之助は肘で寅太郎をつつく。丑之助が駕籠の前、寅太郎が後ろに立つと、よっと調子をあわせて棒を担ぎあげる。ちりんと中から鈴の音がした。小柄な男か、それとも女かと、丑之助はのしかかる重さから中の誰かを推し量る。
「中のお方、揺れますのでしっかり紐を握ってくださいよ」
声をかけても、無論中から返事はない。
「それでは木下様、行ってまいります」
「うむ。くれぐれも急いでな」
木下に会釈すると、丑之助は走り出した。草鞋で地面を掴むように力強く踏みしめながら、軽快に道を行く。
「それにしたって、うまい話も有ったもんだよ」
走りながら、後ろから寅太郎が声をかけた。
「本当に人ひとり運ぶだけで銀子二枚とは、木下様も太っ腹だ」
「なんだ寅公、誘っておいて半信半疑だったのかよ」
「うますぎやしないかと、ちっとだけ訝しんでいたんだよ。だが前金までくださるあたり、木下様はただただ気前の良いお方だったってだけだな」
丑之助はあいづちを打った。銀子二枚なら、普通は一週間ほど走らねばならない。ひと山なら明日には到着だから、文句なしの仕事と言えた。ただ気になるのは、中のお方が誰なのかということだけだ。いったいどんな方が乗っていらっしゃるのか。若いのか年寄りなのか、男か女か、もしや子どもか。いや子どもということはあるまい。いくら高貴な姫様であっても、子どもがこれほど静かにはできないだろう。
「乗り心地はいかがですかい?」
気になって仕方なくて、中の誰かに声をかけてみる。
相変わらず返事はない。物静かにもほどがある。
こうなったら鐘が鳴るのを待つしかない。戌の刻に駕籠を停めた時、もしかするとちらりと姿が見えるかもしれないではないか。
その時刻が来るのを心待ちにしながら、力強い足取りで丑之助は山道を駆け上がっていった。
……西の空へと夕日が傾いて、そろそろ松明が入り用かと思われた頃。
どこかから響く鐘の音に、丑之助は心を躍らせた。
「おう寅公、お約束の戌の刻だ」
当然ながら、山道に厠などはない。しゃがみ込める草むらを探すと、丑之助はそちらに駕籠を向けた。寅太郎と調子をあわせ、駕籠を地面におろす。
「さあて御簾をあげるとするか」
「決して中は見るなよ丑の字。万が一銀子がご破算になったらことだ」
「分かってるってんだ」
真正面ではなく駕籠の横に立ち、御簾をあげる。
中をのぞきこんだりはしていない。ただ横に立っているだけだ。用を足しに下りるとき、ちらりと衣の裾が見えたとしても、それは別に見ようとして見た訳ではない。色々と言い訳しながら、丑之助はちらちらと駕籠に横目を向けていた。それにしても一向に出て来る気配がないが、何か手間取っているのだろうか。そう訝しんだ時だった。
がさがさと、草むらがざわめいた。
しまった、どうやらとっくに駕籠から下りていたようだ。ちらちらと目を配っていたはずなのに、なんと素早いお方だろう。草の鳴る方へ目を凝らす。もし向こうがこっちを見たら、そしらぬ振りで顔をそらす準備もできている。
「もうし」
唐突に、声がした。か細く年老いた女の声。駕籠の中の方はご老人だったか。
「ははあ、お呼びでしょうか」
「もうし、お助けくだされませ。手を貸してくだされませぬか」
「無論でございやす。今そちらに参りますゆえ」
松明に火をともし、丑之助は草むらへと下りてゆく。灯りに照らし出されたのは、小柄な尼僧の姿だった。
「さあさあ、手におつかまりください」
「ああ、ありがたいことにございます。転んでしまって難儀しておりました」
差し出した手につかまる老女を見て、丑之助は拍子抜けした。決して中を見てはならないと、強く言いつけるほどの方にはとても見えなかったからだ。
「お気になさらず。すぐに駕籠にお連れいたしましょう」
尼を支え草むらから出る。寅太郎が青い顔で丑之助を睨みつけた。
「馬鹿お前、見るなと言われていたじゃないかよ」
「そうはいっても、助けてと請われてほったらかしたら、なお始末が悪いじゃねえか。俺たちが見たことを中の方に黙っていてくれと、そうお頼みするよりあるまいよ」
そう突っぱねてから、丑之助は尼の方を向いた。
「さあ、駕籠へお戻りください。奉行所までお運びいたしやす」
御簾の中を覗き込んだ後、尼僧が丑之助の方を向いた。
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