第16話「新たなる風」

秋の風が、東京本社の窓を静かに揺らしていた。只野課長は、企画部の会議室に呼ばれ、ゆっくりとドアを開けた。そこには島野部長が待っていた。


「只野、よく来てくれた」


島野は穏やかな笑みを浮かべながら、机の上に一枚の辞令案を置いた。


「現場連携プロジェクト、一区切りついたな。ちょうど一年だ。よくここまでやってくれた」


只野は深く頷いた。札幌支店の改革から始まったこのプロジェクトは、全国の支店・営業所を巻き込む壮大な取り組みだった。だが、その道のりは決して平坦ではなかった。


「最初は、現場の声を拾うことすら難しかったです。営業所の所長たちも、企画部に対して警戒していたし、何より…佐々木部長の派閥が、ことごとく妨害してきました」


島野は静かに頷いた。

「大阪支店を中心に、佐々木派の支店長たちは“数字至上主義”を掲げて、現場連携の取り組みを“甘い理想論”と切り捨てていた。君の提案書を握り潰した支店もあったと聞いている」


只野は苦笑した。

「ええ。札幌の成功事例を共有しようとしたら、資料が会議前に破棄されていたこともありました。現場の課長が勇気を出して声を上げても、“飛び込み営業の邪魔をするな”と叱責されたと…」


「それでも、君は諦めなかった」


「はい。札幌の三人が動いてくれたことで、少しずつ風向きが変わりました。企画部のメンバーも、現場に何度も足を運びました。営業所の朝礼に参加したり、クレーム対応の現場を見たり。数字だけじゃない“現場の空気”を感じることができた。それが、今回の成功につながったんです」


島野は辞令案を指差した。

「そこでだが、次のステージに進んでほしい。山梨支店の所長として、現場を率いてもらいたい」


只野は驚きながらも、静かにその紙を手に取った。

「所長…ですか」


「富士吉田エリアだ。甲府駅から車で40分ほど。自然に囲まれた土地だが、営業は厳しい。だが、君ならやれる。」


只野は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。精一杯、やらせていただきます」


その頃、大阪支店では別の嵐が吹き荒れていた。佐々木部長の強引な営業方針によって退職した社員の一人が、うつ病を発症し、労働基準監督署に相談。調査が始まり、社内では複数のパワハラ訴訟が同時に進行していた。

電話で社長は冷たく伝えた。


「佐々木君、君の責任は重い。九州支店へ異動してもらう。役職は係長だ」


佐々木は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。かつての威圧的な姿はそこにはなかった。


そして、会社全体では「飛び込み営業」からの脱却が本格的に始まった。顧客との信頼関係を重視する営業スタイルが、札幌支店を皮切りに全国へと広がっていった。

甲府駅。

只野は改札を出ると、スーツ姿の若い社員が待っていた。


「只野課長ですね。山梨支店の佐伯です。お迎えにあがりました」


「ありがとう。よろしく頼むよ」


車に乗り込むと、甲府の街並みが徐々に山間の風景へと変わっていく。紅葉が色づき始めた山々が、窓の外に広がっていた。


「支店までは40分ほどです。富士吉田の方にあります」


「いい場所だな。空気が澄んでる」


やがて、車は一つの建物の前に停まった。白を基調としたモダンな外観。広々とした駐車場には、数台の高級車が並んでいた。

只野は目を細めて看板を見上げた。


「…レクサス?」


佐伯が誇らしげに頷いた。

「はい。先月から、山梨支店はレクサス専門店としてリニューアルしました。札幌支店の成功を受けて、社長が決断されたんです」


支店の中に入ると、静かなジャズが流れ、落ち着いた空間が広がっていた。応接室に通されると、そこには札幌支店の阿部が待っていた。


「只野課長、お久しぶりです」


「阿部さん…札幌から?」


「ええ。山梨支店の立ち上げ支援で来ています。札幌の変化は、只野課長のおかげです。社員の意識が変わりました。お客様に寄り添うことが、数字以上の価値を生むと、皆が実感しています」


只野は静かに頷いた。

「札幌の皆が動いてくれたからだ。俺は、ただきっかけを作っただけだよ」


阿部は笑顔で言った。

「その“きっかけ”が、店舗を変えました。札幌も、山梨も、今は“レクサス店”です。高級車を扱うには、信頼が必要です。それを築ける営業が、今、求められているんです」


只野は窓の外を見た。富士山の頂が、遠くに静かに佇んでいた。


「ここから、また始めます。現場の声を、もっと深く聴いて、もっと遠くまで届けたい」

佐伯がそっと言った。

「課長、山梨支店の皆、楽しみにしています。札幌のように、誇れる支店にしたいです」


只野は力強く頷いた。

「やろう。一緒に」

その夜、只野は支店近くの宿に泊まり、窓から星空を見上げた。静かな夜風がカーテンを揺らし、遠くから富士山の稜線が浮かび上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る