第11話「台数こそすべて」

営業企画部に赴任して2年目の秋。


只野は、朝の定例会議室の隅に座りながら、いつも通りの空気に息苦しさを感じていた。

壁に映し出されたスライドには、今月の販売台数速報。赤字で表示された「未達」の文字が、まるで警告灯のように点滅している。会議室の空気は重く、誰もがその数字を見つめながら、次に飛んでくる叱責を待っていた。


部長の島野は、眉間に深いしわを寄せながら、静かに口を開いた。


「今月も未達か。あと何台足りない?」


只野は手元の資料を見ながら答えた。


「150台です。低価格帯中心に攻めてますが、値引きが限界で…」


その瞬間、営業部長の佐々木が椅子を軋ませて立ち上がり、定例会議に参加している営業所の所長たちを見渡しながら怒鳴った。


「いいから売れ。利益は後回しだ。台数がすべてだろ!」


その言葉に、只野は思わず視線を落とした。2年前、希望を持ってこの部署に異動してきた頃は、企画の力で現場を支えられると信じていた。だが、現実は違った。何度も同じやり取りを見てきた。現場は疲弊し、営業マンは数字に追われ、顧客との関係は希薄になっていく。

だが、企画部の空気は変わらない。むしろ、数字だけを見て「売れればいい」と言い切るその姿勢は、年々強まっているようにさえ感じる。


会議が終わると、島野は只野に目もくれず、資料をまとめて席を立った。只野は、資料を抱えたまま自席に戻り、深くため息をついた。

自動車業界は今、かつてないほどの変革期にある。EVシフト、若者の車離れ、サブスク型の利用スタイルの台頭。市場は縮小し、競合は増え、価格競争は激化している。大手メーカーでさえ、台数よりも利益率やブランド価値を重視する方向に舵を切り始めている。


そんな中で、只野の会社は「台数至上主義」から抜け出せずにいた。

社長の神谷は株主に対して「前年同月比プラス○○%」という数字を誇示することに執着し、その意向を受けた島野や佐々木は、現場に対して「売れ」「積め」「数字を出せ」と繰り返すばかりだった。


只野は、以前札幌支店の阿部から聞いた話を思い出していた。


「最近は、値引きしても契約に至らないことが増えてます。お客さんも賢くなってるし、安いだけじゃ動かない。こっちも、もう何を武器にしていいか分からないですよ」


彼の言葉には、現場のリアルが詰まっていた。値引き合戦に疲弊し、提案力を活かす余地もなく、ただ「台数」を積むために動く毎日。それが、今の営業現場の実態だった。

只野は、現場の声を集めた「営業連携プロジェクト案」を再びまとめ直した。

内容は、台数至上主義からの脱却。利益率と顧客満足度を軸にした営業戦略への転換。営業マンの提案力を活かし、値引きではなく価値で勝負する体制づくり。

資料には、現場からのヒアリング結果、競合他社の戦略分析、顧客満足度と利益率の相関データなどを盛り込んだ。只野は、これなら島野も納得するはずだと信じていた。

しかし、島野は資料に目を通すと、ページをめくることもなく、無言で閉じた。沈黙が数秒続いた後、彼は資料を机の端に滑らせるように置き、冷たく言い放った。


「これ、社長には出さない。台数が減る可能性があるだろ。今はそんな余裕ない」


その言葉は、まるで氷の塊が胸に落ちてきたようだった。只野は、口を開きかけたが、声が出なかった。喉の奥がひりつき、言葉が引っかかったまま、ただ島野の横顔を見つめるしかなかった。


「でも…」と、ようやく絞り出した声は、島野の耳には届いていないようだった。

彼はすでに次の資料に手を伸ばし、只野の提案など最初からなかったかのように、別の話題へと意識を移していた。


只野は、資料の中に込めた現場の声を思い出した。札幌支店の阿部、名古屋の若手営業マン、顧客アンケートの手書きのコメント。どれも、数字の裏にある「人」の声だった。だが、それらは今、紙の束として無造作に机の端に置かれ、誰にも読まれることなく、静かに沈黙していた。


「現場の声は、またしても握りつぶされた」


その言葉が、只野の頭の中で何度も反響した。企画とは、現場と経営をつなぐ架け橋のはずだった。だが今、その橋は一方通行で、しかも出口は数字しか見ていない。

島野の机の上には、社長からの「今期目標台数」のメモが置かれていた。赤字で書かれたその数字は、現場の悲鳴をかき消すように、強く、無慈悲にそこに存在していた。

只野は、資料をそっと引き寄せ、静かに抱えた。その手の中にあるのは、否定された提案ではなく、まだ誰にも届いていない声だった。

島野の机の上には、社長からの「今期目標台数」のメモが置かれていた。

そこには、前年よりもさらに高い数字が赤字で書かれていた。只野は、その数字が現場の悲鳴をかき消していることを痛感した。


その夜、只野は一人でオフィスに残り、閉じられた資料を見つめていた。ふと、モニターの隅に小さなアイコンが揺れていることに気づいた。


「只野さん、あなたの資料は間違っていません。むしろ、今こそ必要な視点です」


静かな声が、誰もいないはずの空間に響いた。只野は驚いて周囲を見渡したが、誰もいない。ただ、心の奥に語りかけるようなその声は、確かに存在していた。


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