第2話「雪の中の一歩」

目を覚ました只野は、古びた営業所の中に立っていた。


壁には「グローバルモーターズ新潟支店」の看板。


窓の外には雪が舞い、冷たい風が吹き込んでくる。だが、それ以上に冷たかったのは、支店内に響き渡る怒号だった。


「只野!お前、昨日何件回った!?契約ゼロだと!?営業じゃねぇ、ただの散歩だろが!」


江藤課長の声は、壁を震わせるほどの勢いだった。顔は怒りで真っ赤に染まり、机を拳で叩きながら只野を睨みつける。


「地図と電話帳持って、雪の中を歩くのが仕事だと思ってんのか!?飛び込み100件!契約ゼロなら、帰ってくるな!営業手帳に“ゼロ”って書いたら、明日から机なくすぞ!」


若き只野は、声を震わせながら「はい…」と答えた。手には地図と電話帳。足元の革靴は雪で濡れ、冷えがじわじわと体に染みていた。周囲の社員たちは目を伏せ、誰も助け舟を出さない。江藤課長の怒鳴り声は、毎朝の“儀式”のように繰り返されていた。

現在の只野は、その場に“いる”のに誰にも見えない存在だった。幽霊のように、過去の自分をただ見守るしかなかった。


「俺だ…只野だ…聞こえるか…?」


声は届かない。触れることもできない。ただ、目の前にいる若き自分が、必死に営業に出ようとしている姿を見つめるしかなかった。

只野は、そばにあるAIデバイス「コピオ」に問いかけた。


「コピオ…どうすれば、あいつに伝えられる?」


コピオは静かに答えた。


「直接の接触は不可能ですが、間接的な影響は可能です。営業手帳、ラジオ、夢、記憶の断片——いずれかを通じて、ヒントを残すことができます」


只野は若き自分の机に目を向けた。そこには、まだ白紙の営業手帳が置かれていた。


「手帳だ…あいつの手帳に、何か残せるか?」


「可能です。記憶同期を利用し、未来の言葉を“直感”として刻みます」


只野は目を閉じ、心の中で言葉を紡いだ。


「営業は、売ることじゃない。信頼を積み重ねることだ。相手の心を読むんだ——」


その日、若き只野は雪の街を歩いていた。


地図を片手に、震える足で一軒一軒、扉を叩いていた。断られても、冷たくされても、言葉が通じなくても、それでも前に進もうとしていた。


「すみません、グローバルモーターズの只野と申します…」


何度も断られ、心が折れそうになる。雪は容赦なく降り続け、靴の中まで冷えが染み込んでいた。


ある商店の前で、只野は意を決して扉を開けた。中には年配の女性が一人、ストーブの前で編み物をしていた。


「こんにちは。お車のことで、何かお困りのことはありませんか?」


女性は顔を上げ、少し怪訝そうな表情を浮かべた。


「んだば、あんたどっから来たんね?」


只野は一瞬、言葉に詰まった。


「え…えっと、神奈川から来ました。新潟支店に配属されて…」


「ほうけ、そんげ遠くから。ほれ、うちには車あるし、買い替えはまだ先だすけ」


「だすけ…?」


只野は頭の中で言葉を整理しようとしたが、意味がつかめない。女性は続けた。


「だすけ、今はいらんてば。ほれ、うちの旦那が車好きでの、次は軽トラがええって言うてるんさ」


只野は笑顔を保ちながら、内心焦っていた。


(“だすけ”?“ほれ”?“ええ”?…関西弁とも違う…)

「すみません、ちょっと言葉が…」


女性はくすっと笑った。


「そりゃそうだて。あんた、よそ者だもんね。新潟の言葉は慣れんとわからんさ」


只野は頭を下げた。


「はい…でも、慣れます。必ず慣れて、また来ます」


女性は少しだけ表情を和らげた。


「そんげ気持ちがあるなら、まぁ頑張ってみなせや」


只野は深く頭を下げ、店を後にした。手帳を開くと、そこに見慣れないメモがあった。

「信頼は、売るよりも先に築くもの」


「…これ、俺が書いたっけ…?」


若き只野は首をかしげながらも、その言葉に何かを感じた。

次の訪問先では、少しだけ話し方を変えてみる事にした。

次の訪問先は、雪に埋もれた古い町工場だった。

入口のガラス戸には「営業中」の札がかかっているが、店内は静まり返っていた。

只野は深く息を吸い、凍えた手で扉を押した。


「こんにちは。グローバルモーターズの只野です。お車のことで、なんか困ってることねぇですか?」


その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。

先ほどの商店で聞いた“だすけ”や“ほれ”といった言葉が頭に残っていて、無意識に地元の言い回しを真似ていたのだ。

店の奥から、作業着姿の男性が顔を出した。年の頃は五十代半ば、手には工具。只野を一瞥すると、少しだけ眉を上げた。


「……あんた、さっきの“ねぇですか”って、新潟の言葉か?」


只野は少し照れくさそうに笑った。


「はい。まだ慣れてないんですけど、さっき地元の方に教えてもらって。ちゃんと話せるようになりたくて」


男はふっと笑った。


「そんげこと言う営業マン、初めて見たわ。だいたい、よそから来たやつは標準語でまくし立てて帰ってくだけだて」


只野は頭を下げた。


「それじゃ、話も心も通じないと思って。車のことだけじゃなくて、地元のことも知りたいんです」


男は少し黙ってから、工具を置いて椅子に腰を下ろした。


「うちは今んとこ困ってねぇけど、来月、軽トラの車検があるんさ。その時、見積もり持ってきてみなせや」


只野の胸に、じんわりと温かいものが広がった。

契約ではない。

だが、確かに“会話”が生まれた。雪の中で、初めて心が通じた瞬間だった。

営業手帳を開くと、そこにはまた一つ、見慣れないメモが浮かんでいた。


「言葉は、心を開く鍵になる」


只野はその言葉を見つめながら、静かに頷いた。

(そうだ。売る前に、話す。話す前に、聞く。そして、聞くには、相手の言葉を知ることからだ)

雪はまだ降り続いていたが、只野の足取りは少しだけ軽くなっていた。


そして現在の只野は支店の隅に立ち尽くしていた、静かに目を伏せていた。

目の前には、雪の中を歩く若き自分の姿。

地図を片手に、震える足で一軒一軒、扉を叩いていたあの頃の自分。

断られても、冷たくされても、言葉が通じなくても、それでも前に進もうとしていた。

その姿を見ているうちに、只野の目にじわりと涙が滲んだ。


「よくやった…お前は、ちゃんと乗り越えたんだな…」


声は誰にも届かない。若き只野は、只野の存在に気づくこともなく、ただ雪の中を歩き続けていた。


コピオの声が、静かに響いた。


「只野さん、あなたの記憶は確かに過去に届きました。直接の接触はできなくとも、心は繋がっています」


只野はゆっくりと頷いた。胸の奥に、言葉にならない感情が広がっていた。悔しさ、誇り、そして安堵。


「AIは便利だ。でも、最後に動かすのは“人間の心”なんだな」


「その通りです。私はあなたの“相棒”です」


只野は、過去の自分を見つめながら、静かに語りかけた。


「お前は、何も知らずに新潟に来て、方言もわからず、地元の人に冷たくされて…それでも、逃げなかった。江藤課長に怒鳴られて…それでも、諦めなかった」


コピオが優しく応える。


「あなたの“心の記録”は、すべて私の中に残っています。苦しみも、努力も、希望も。だからこそ、今のあなたがあるのです」


只野は涙を拭いながら、笑った。


「そうか…俺は、あいつに何かを伝えたかった。でも、伝えなくてもよかったのかもしれない。あいつは、自分で答えを見つけたんだ」


「それでも、あなたが過去に戻った意味はあります。自分自身を見つめ直すこと。それが、未来を変える第一歩です」


只野は、もう一度若き自分を見つめた。雪の中で、手帳を開き、見慣れないメモに首をかしげる姿。その小さな違和感が、彼の心に火を灯した。


「信頼は、売るよりも先に築くもの」


その言葉が、若き只野の背中を押した。

そして今、現在の只野は確信した。


——営業とは、数字ではない。心だ。

——AIとは、道具ではない。相棒だ。

——そして、自分自身とは、過去と未来を繋ぐ存在なのだ。


只野は静かに目を閉じた。雪の記憶が、温かく胸に降り積もっていた。




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