第3話 雨

月面都市の天候はすべて管理されている。故障がなければ、天気予報の的中率は100%だ。

エリアは限られるが、洗浄も兼ねて、雨も適宜降らせることになっている。新しい仕事について半年ほど経った、その土曜日の午前は雨だった。


「これ、晴彦が降らせているんだよな。こっちでも降るんだな」

「僕じゃなくて、システムが降らせているんだよ。管理しているのウチだけど」

「それでもすごいことだよ」


そういって、葛西は窓の外に目を向ける。


「陽一、雨が好き?」

「俺は雷が苦手だったけれど、ここは落ちないからいいな」

「そうだね」


隣に座って、窓の外に目を向ける。指先が触れた気がして、葛西のほうを見ると、触れていないほうの手が伸びてきて、眼鏡をはずされた。視界がぼやける。


「なんだよ」


葛西は、しばらく真顔で狭山の顔を眺めたあと、ゆっくりと顔を近づけてきた。反射的に目を閉じると、くちびるに感触がある。からだが、固まってしまう。

葛西は、やわらかく触れるだけで、数秒で離れてしまった。


「晴彦、いやだった?」


首を何度も横に振る。むしろ夢でも見ているようだった。


「よかった」


少し微笑んで外した眼鏡を畳み、狭山に持たせると、葛西は立ち上がって自分の部屋に行った。扉が閉まる。その音で、ようやく現実が戻ってきた。

自分でくちびるに触れる。幻覚ではなかった。うれしさよりも、混乱のほうが強い。欲を満たすためのものでは、なかったと思う。

次に部屋を出てくるときには、もう普段通りの葛西で、狭山に手を出してくることはなかった。



狭山のほうから手を出すと、引かれてしまうかもしれない。そもそも、そういう意味合いではないのかもしれない。ではどういうつもりなのかもわからないが。

普段通りにふるまうと、葛西のほうもいたって普段通りだった。あの雨の日が夢だったような気もしてしまう。

生活は順調だった。仕事もはかどり、家では談笑し、休みのたびにあちこちふたりで歩いて回る。それだけでも、じゅうぶんに幸せで、満たされていた。



次の雨は、日曜の午後だった。

狭山が座って本を読んでいると、すぐ横に葛西が座ってくる。前の雨のことを、どうしても思い出してしまう。


「晴彦、いい?」


緊張しながらうなずくと、両肩に手が置かれた。そのままするすると背中と腰に彼の腕が回り、彼の頭が狭山の肩のあたりにうずめられた。

おずおずと手を伸ばして、葛西の背中に回すと、ゆっくりと息を吐く音が聞こえた。葛西の匂いがする。

こちらの心臓が早鐘を打っていることくらい、気づかれているだろう。

しばらくそのままでいると、葛西が震えていることに気が付いた。


「陽一、何かあった?」


頭を、弱く振る。嘘だと思う。聞きたいが、話したければ話すだろうし、まだ話す時ではないのかもしれない。なるべく敏感な場所を避けて、そのまま背中をさする。葛西の呼吸が、ゆっくりになっていく。

そうしているうちに、雨が止んだ。ゆっくりと、葛西が離れていく。


「晴彦、ありがとう」

「いいよ。いつでも」


いつでも、は自分の欲も入っているが。

もう一度、ありがとう、といって、葛西は自分の部屋に下がっていく。自分の服から、葛西の匂いがした。

座ったままで、よかった。リビングで、よかった。無理に突き進まなくて、もう一緒に暮らせなくなるようなことをしなくて、よかった。

それでも、その晩は、その服を抱えて眠った。



葛西が触れてくるのは、雨の日だけだった。雨ではない日は、友人の範疇だけだった。雨の日でも、軽いキスやハグだけだった。そこから先には進む気配はなかった。それでもいい。あちらから、そうしてくれるなら。


先々の天候の予定を、仕事用ではない個人のカレンダーにも登録する。日々のメンテナンスにも気合が入る。雨の日をご褒美として待ちわびるようになった。仕事熱心だと周囲からも言われるようになった。


葛西のそれが恋でなくても、甘えたいと思ってくれることが、甘えられる相手だと思ってくれることが、嬉しい。はじめは緊張も強かったが、いまは安らぎのほうが強い。


二日連続で晴れの設定の週末。午後に思い立って、バーチャル水族館に誘おうと葛西の部屋をノックした。


「陽一、入っていいか?」

「少し待って」


しばらくして、いいよ、と声がかかった。扉を開くと、PC周辺が片付いている。何か作業をしていたらしい。リビングで作業することも多いが、見られたくないものでも見ていたのかもしれない。


「水族館行こう!」


高精細な3Dモニターに映る、地球の水棲生物たち。もう、絶滅したものもいるらしい。狭山はクラゲの成長の過程が気に入ったが、葛西はサメが気に入ったようだった。勝手に、デートだ、と思うことにする。お土産にしおりを買った。


帰りがけのバス停で、水滴が落ちてきたと思ったら、急な雨に降られてしまった。ふたりで近くの地下鉄の入口に駆け込み、あまり濡れずに済んだ。水滴をそれぞれ手で払う。


「エラーか。呼び出されるかもな」

「晴彦」


くちびるが、慌ただしく重なって、離れた。葛西は、真っ赤になっている。


「すきだ」

「僕も。ずっと前から」


口にすると、急に、すこし怖くなってきた。葛西が、手を重ねてくる。


「晴彦、早く帰ろう」


幸い呼び出しはかからず、その日も、次の日曜も、誰にも邪魔をされなかった。


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