第2話 新しい部屋

月は重力が低いとは聞いていた。別に力が強くなったわけではないが、重力だけが低いという環境は、ここに来るまでの船でもそうだったが、もうしばらく過ごさないと慣れそうもない。

到着した部屋は、まだほとんど何もないこともあってかなり広く見えた。葛西が来てくれていなかったら、心細さで折れていたかもしれない。

ふたりで電気・水道の開通の確認と、念のため規約の読み合わせをして、買っておいた弁当を食べる。寝台とテーブルと椅子と空調だけは設備に含まれていた。


「これから、よろしく」


狭山が出した手を、葛西はためらわずに握る。葛西の手はやわらかい。


「こちらこそ」



ずっとずっと焦がれていたひとが、部屋の壁の先にいる。明日も、そのさきも。ほかに親しいひとのまだいないこの月面で、ふたりきりだ。

あちらにはそのつもりがないだろう。親しい友人との新生活のつもりに違いない。疑いを持たれてはいけない。その信頼を損なったら、この街で自分はひとりだ。枕を抱きしめ、顔をうずめて眠る。からだはそのうちおさまるだろう。


一週間かけて生活に必要な諸々を整備したあと、狭山は新しい職場に向かった。月面都市は閉鎖環境ということもあり、気候が人工的に制御されている。狭山の仕事は、気候制御システムのメンテナンスだ。


「いってらっしゃい」

「行ってきます。面接、がんばれよ」


おう、といって、葛西は手を振る。角を曲がるまで、鍵を閉める音は聞こえなかった。

葛西のなか、誰かと暮らした痕跡のようなもの。それが、あの眼鏡の彼女なのか、ほかのひとなのか、あるいは実家の家族なのか。まあいい。嫉妬してもしかたない。

いってらっしゃい、が、胸の中に広がる。低い重力の兼ね合いもあって、身体がとても軽い。



初日は顔合わせと職場の案内、諸手続きとPCなどのセットアップであっという間に過ぎた。

帰宅すると、すでに葛西も帰宅していた。PCに向き合っていたが、手を止めて狭山に手を振る。


「お疲れ。職場、どうだった」

「まあ気のいい人たちばかりに見えたな。これからだけど。そっちは?」

「手ごたえはあった。このまま決まると一番いいな」


メシ食べに行こう、といって、ふたりで街へ出る。あまり、足に負荷がかからない。


「運動しないと太りそうだ」

「しばらくは街歩きにしようか」

「いいな。安上がりだし助かる」


こうして、小さい約束を取り付けては、胸のなかの温度を上げる。



月にあると思っていなかったうどん屋を見つけて入る。かなり美味しい。本格的なだしの味がした。調べなかったから、発見の喜びがある。横を見ると、葛西は、黙々と口に運んでいく。


「陽一、うどん好きだったっけ?」

「すごく食感がいい。地球で食べたどんなうどんより美味い」

「また来よう」


うなずいて、葛西はまたうどんを口に運ぶ。



先にシャワーを浴びてもらったことに他意はなかった。そのほうが快適だろうと思ったくらいだ。それでも、ただでさえ好ましい葛西の匂いが残っているシャワー室は毒だった。温度を下げて、頭を冷やす。

リビングに戻ると、葛西が頭もじゅうぶんに乾かさないまま、机に突っ伏して眠っていた。せめてタオルドライくらいはしてやりたい。風邪をひいてしまう。

タオルを手に戻り、葛西の頭にかける。


「陽一、よういち。せめて頭を乾かせ」


少し乱暴に、タオル越しに、頭をなでる。このくらいは許されるだろ、と胸の中でつぶやく。

葛西は、目をうっすらと開けて、気持ちよさそうに細めた。


「ありがとう。はるひこ」


聞いたこともないやわらかな声でそう言ったあと、葛西は目を見開いた。


「晴彦?」

「そうだよ。何だよ」

「ごめん、ありがとう。乾かしてくる」


葛西はタオルをそのまま受け取り、浴室に向かった。狭山はリビングに取り残される。


「なんなんだよ、いったい」


あのやわらかな声でのありがとうは、心臓を掴むのにじゅうぶんだった。



しばらくして、葛西は仕事が決まった、と報告してきた。


「遺言管理センター?」

「そう。宇宙の仕事は命がけのことが多いから、こういうの大事なんだよ。地球に遺したひとたちや、同僚に、ギフトと遺言を届けるサービス。やりたかったんだ。ずっと。だから、ここに来れてよかった」


晴彦のおかげだ、ありがとう、と笑う。

そのありがとうは、いつもの親しいありがとうだったが、あのやわらかな響きではなかった。

お祝いは何がいい、と聞くと、あのうどんがいい、というので、ふたりで向かう。彼はそのうどんを余程気に入ったようだった。

職を得られるかの懸念が解消されたからか、前回は表情が硬かったが、今回はうどんを待つ間もにこにこと笑っている。

うどんは相変わらずおいしい。葛西は、つゆまですべて飲み干した。口をぬぐう親指に目が奪われてしまう。


「晴彦」

「なに?」

「あちこち回ろう。ここで、好きなもの、一緒に増やしていこう。このうどんもそうだけど」


うれしいばかりだ。すぐに頷く。


「もちろん」


葛西の差し出した手を、狭山は両手で握り返した。

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