第32話「記者の名を呼ぶ夜Ⅱ」

 翌夜、集会所の戸を引く前に、弓は胸の内で三回・ひと呼吸・二回の拍を置いた。扉の金具は昨夜よりも冷え、指先の皮膚が少しだけすべる。ノブを回して押し開けると、黒板の中央――昨夜、篠目が黒いパネルで覆った位置に、白い線が一本、細く、しかし確信的に足されていた。


 〈相良/〉


 /が、右に余白を呼ぶ形で書かれている。誰かの手が、名の終端を“開いたまま”にする仕草を、黒板に残していった。弓は足元の粉の感触を確かめてから、白墨の角を立て、“斎/齋”の夜と同じ手つきで二文字を解体する。


 〈相/良〉


 線は切断ではなく分かちに変わる。二文字の間に空洞が生まれ、呼称の力が弱まる。意味の骨が、記法の骨へと肉替えする。

 「名を呼ぶ記号を、記法に変換する」

 独り言のように言ってから、弓は板書の下へ小さく加えた。

 〈読みを止める/読むのは工程〉


 篠目が三脚を肩から外し、視線で問いかける。

 「黒は要る?」

 「半分だけ。名は画面外に、/は画面内に」

 篠目は黒いパネルを斜めに差し入れ、二文字の左半分を覆う。“相”の画数が闇に沈み、/と“良”だけが可視として残る。名は隠すのではない、退席させるのだ。残すのは記法、つまり儀礼と編集のハイブリッド。


 録音機の赤を落とし込む。沈みが一つ深くなる。

 〈この録音は要約しないでください〉

 海野の声が、昨日より近い位置から重なった気がした。黒板の粉がわずかに鳴る。粉は呼気、呼気は在る。


 机の上、ランタンがひと息分、明滅した。昨夜より弱い。電池残量の計算は合っているのに、光は呼吸のように浅くなる。短・短——間——短・短。

 上園が入ってきて、紙束を掲げる。議会の判子が二つ、監査の朱が横に並ぶ。

 「承認が下りました。“名前の匿名化プロトコル”に、『儀礼的記法』の採用。スラッシュを記号ではなく工程として扱う。“相/良”“斎/齋”の表記方針は、戻し工程の標準に入ります」

 弓は小さく頷いた。現場が先に発明し、制度が後から追認する。この遅速の逆転は、正しい。

 「“誰の秒でもない秒”は?」

 「採用。二名立会/二系統記録は常設化**。“拍”欄の公開も決裁された」


 東條がドアを押し開け、薄い金属ケースを机に置く。中には透明のトレーとA票模写の新しい刷り、一番上に押印用の赤。

 「運ぶ者は、名を運ばない。形と秒だけ運ぶ」

 彼は静かに、しかし芯のある声で言った。

 弓は黒板に向き直り、太い線で一行を置く。

 〈名は運ばない/在るを渡す〉


 その瞬間だった。外からの投石。

 ガラスが短く高い音を立てて割れ、破片の弧が室内の薄い光を束ねて走る。

 「――!」

 篠目の反応は早かった。彼はレンズを伏せ、撮らないを選びつつ、割れの軌跡だけを撮る。シャッターではなく、露光で光の筋を掬う。

 名の代わりに、出来事の弧。顔の代わりに、速度の曲率。

 弓は反射的に黒いパネルを立て直し、黒板の前面を覆う。印は守る。/は残す。

 上園が窓際へ身を寄せ、外を一瞥し、すぐに戻る。「人影なし。投石の拍は雑。拍は呼びではない。威嚇だ」

 東條が透明のトレーの上に破片を集める。片の輪郭を揃え、秒を読み上げる。

 「二十一時、零分、三十秒。私設ログ。片、大、端部白磨。二十一時、零分、三十一秒。次」

 上園が二系統の時刻を読む。

 「二十一時、零分、三十秒。課長立会——二十一時、零分、三十秒。監査立会」


 ランタンの橙は、そこで一段、明度を落とした。呼吸がさらに浅くなる。寿命。

 弓はランタンの背面を外し、内部電池の端子を確かめた。焼けはない。バッテリーはまだ持つはずだ。なのに、光が痩せていく。

 「寿命か。」

 灯りの継承は誰の責任だろう。儀礼の灯を行政に、行政の灯を読者に、読者の灯を現場に。もつれをほどく順番を考える間もなく、弓は肩掛けのトートから新品のランタンを取り出した。自腹で買い、二日前から車に積んでいたものだ。

 「今日、置きます」

 上園が目で問う。「贈与か、預かりか」

 「預かり。工程の灯は個人に帰属しない。拍を繋ぐための共有物」

 東條が頷く。「形と秒だけ運ぶ俺の流儀に合う」


 弓は新しいランタンを古いランタンの隣に置き、21:00の拍に合わせて同時にスイッチを押した。橙が二重になり、弱い古い灯を新しい灯がやさしく抱く。

 短・短・長——間——短・短。二つの光の拍が微妙にずれ、やがて合う。

 「継承」

 弓は小さく言葉にした。継ぐのは光量ではなく、拍だ。拍が工程を支える。


 篠目が破片の軌跡を確認し、「撮れた」とだけ言う。モニタには顔のない光の弧。衝撃の速度と角度、落下の規則だけが画面に残る。

 「これなら載せられる」

 弓は頷き、黒板に短く追記する。

 〈威嚇は可視化/神秘化しない〉


 上園の携帯が震えた。情報政策課からの通知。

〈“拍”欄、公開。ログ反映済〉

 続けて監査委から。

〈“儀礼的記法”の運用ガイド、承認〉

 「決まった」

 上園は紙束の余白に、鉛筆で短く書き添える。

 〈“/”は接続の線〉

 /は刃ではない。橋だ。議会の紙に、やっと橋が描かれた。


 外の砂地から、三回・二回。拍だけの足音が寄って、離れた。窓の縁に残った水滴が、橙の二重の光で淡く二色に割れる。

 東條が透明トレーを持ち上げ、破片を別のケースへ移し替える。

 「“片”は届けます。威嚇の拍は記録に残す。名は書かない」

 「ありがとう」

 弓はA票模写の空白の横に、点をひとつ置く。

 〈・〉

 名の代わりに拍。拍は人を呼ばない。人が呼吸する位置を示す。


 ランタンの古い方が、ふっと短く揺れて、光の腹を浅くした。寿命はやさしい。最後まで付き添い、退き方を教える。

 弓は黒板に一行。

 〈灯りの継承=拍の継承〉

 光量ではなく、刻む方法。誰かが止めに来ても、拍は共有できる。共有の証を制度に入れる。今日、それが決定した。


 そこへ、メッセージが二本、時間差で届いた。

 上園から。

 〈“相/良”のガイドライン、発出。『外周を記す、本文に名を書かない』〉

 海野の甥から。

 〈伯母は“/”を指でなぞっていました。呼ばない線。——あれは橋です〉

 弓は返信を短く返す。

 〈橋を使います〉


 黒板の前に立ち、白墨の腹で**/を一度だけ撫でた。粉が落ち、呼気に混ざる。

 録音機の前で、弓は胸に手を当て、三呼吸。

 〈呼吸、在る〉

 波形に丘が並び、丘が秒を受け止める。要約の刃が、今日はどこにもない。あるのは橋だけ。橋は揺れても落**ちない。


 撤退の刻限が近づいた。二十一時、二九分。

 弓は机のランタンの古い方にそっと手を触れ、スイッチを長押しで落とした。新しい橙だけが残る。

 「預かり灯、明日から制度灯に移行してもらう。備品として登録、拍の管理は危機管理課と情報政策課の共管。個人の善意で消えないように」

 上園がうなずく。「承ります」


 篠目が最後に黒板の隅を撮る。“相/良”の右半分、/、灯りの縁。顔はない。名もない。在るの外周だけ。

 「載せる」

 「載せよう」

 東條は破片のケースを抱え、扉の方へ向かう。足取りの拍が三回・二回。運ぶ者のリズム。

 弓は録音機の赤を戻し、沈黙を保ったまま電源を切る。要約しない録音は、今日の本文をそのまま抱えて静まる。


 外へ出ると、潮の匂いはいつもより薄く、夜の温度が少し高い。継承の熱かもしれない。フロントガラスの潮を三回・二回で払いながら、弓は今日の見出しをもう決めていた。

 〈記者の名を呼ぶ夜Ⅱ――“儀礼的記法”と光の継承〉

 リードは工程だけで構成する。

 〈黒板の“相良”は“相/良”へ。名を呼ぶ記号を記法に変換。議会承認――“儀礼的記法”採用、“拍”欄公開。外から投石、窓は割れたが名は写さない。破片の軌跡だけ撮る。運ぶ者は名を運ばない、形と秒だけ運ぶ。灯りは一段落ち、新しい灯が拍を継承した〉

 本文には顔を置かず、破片、/、二重の橙、押印の圧、拍の採譜だけを並べる。

 締めは句点を打たない。〈名は運ばない/在るを渡す。灯りは橋として続く〉で止める。


 社に戻る車中、弓は名刺の裏を上に向け直した。“相/良”の/が名刺の角にやさしく触れ、粉がわずかに指に移る。粉は呼気、呼気は本文。

 21:30を指す秒が一つ進み、弓は微笑の代わりに拍を胸に打った。三回・ひと呼吸・二回。遅い正しさに間を与える拍。最大山場の手前で、橋はさらに一本、増えた。


【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス

※読了ありがとうございます。今回は**『記者の名を呼ぶ夜Ⅱ』。“相/良”という儀礼的記法の確立、議会承認、投石の夜の可視化**、そして灯りの継承までを工程で描きました。面白かった・続きが気になると思っていただけたら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで応援をお願いします。あなたの一押しが、相良弓の定時とこの物語の秒に、次の拍を刻ませます。

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