第29話「無名の夜」
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
東條の手は、いつもより重かった。互助会の搬送課の詰所、夜勤の明かりが低く、応接のテーブルの脚が床に沈んで見える。彼は小さな箱から一冊のノートを取り出し、弓の前に置いた。黒い表紙に白のスタンプでただ一語――〈無名〉。
背の綴じ糸は二本、端で片結び。表紙の角は擦り切れて、紙の層が薄く剝がれている。弓は表紙を撫で、指の腹に和紙の毛羽を感じた。東條は視線を落としたまま言う。
「名前が記せない搬送だけ、ここにまとめている。A票から名の欄を削ったものを、秒と受け取った手だけで写す。“誰が”ではなく、“どの手”が受けたか。責任の温度を残すために」
弓は開いた一頁目の端を摘み、音を立てないようにめくった。紙は少し重い。秒が染み込んでいる紙は、乾いた紙よりわずかに沈む。
そこには時刻だけが並ぶ。21:00:07、21:00:31、21:00:58――そして受け取った手の符牒。〈R-02〉、〈T-11〉、〈S-03〉。名の欄はない。被送者の属性欄もない。無名の記録は、秒と手だけで世界に留まっている。
ページが進む。ある夜、同じ頁に三件の無名が連続していた。21:00の窓に三つ。いずれも匿名供養便に載った印。B票へ移る際に丸められた時分の脇に、A票から写した秒が細く鉛筆で書き足されている。秒は個人の名ではないが、その人が通った瞬間の温度だ。
東條はノートの縁を指で押さえ、低く続ける。
「この三件は――戻らないまま、手続きが完了した。戻す工程が立つ前に、“完了”で閉じた。完了は終わりじゃない。凍結だ。現場の言葉では**“箱が固まった”**って言う」
弓は頷き、ノートの余白に〈完了=凍結〉と書いた。点を一つ置き、拍を胸に打つ。三回・ひと呼吸・二回。
「誰の名も呼ばない匿名供養の**“楽”は、戻す工程が動き始めると重さに変わる。楽で在ってくれた時間は、制度の時間に溶かさなければならない」
東條は言って、ノートの後半を開いた。そこには短いメモ**。持参者の手の特徴。〈薬指の爪が短い/指腹に紙やすりの痕〉、〈軍手の匂い〉、〈受け渡しの際、拍が三回・二回〉。“誰”でなく、“どの手”。顔の代わりに秒があり、名の代わりに手がある。
弓は静かに閉じ、表紙の〈無名〉の文字を見た。無名は匿名とは違う。匿名は意志だ。無名は状態だ。状態は更新できる。秒を基準に更新する。“完了”は凍結であり、解凍できる。
「凍結を解くには温度が要る」
篠目の声が背後から落ちた。彼は抱えていたトレイをテーブルに置く。透明な樹脂箱の中に、小さな砂時計が氷に閉じ込められていた。氷の表面には白い霜の花。
「演出じゃない。温度で進む秒を写す試み。氷の中でも、心臓が近くに在れば解ける。掌の温度で秒を戻す」
篠目は薄い手袋を外し、氷に掌を当てた。氷はゆっくり汗をかき、砂時計の首に小さな穴が開く。粒はまだ落ちない。気泡が浮かんでいる。
「凍った秒」
弓は口の中で繰り返し、ノートの余白に〈凍った秒=“完了”の見かけ〉と書いた。〈溶け始め=“再同意”〉。〈流れ出し=“戻す”〉。図になる。写真になる。工程になる。
「三件の無名、21:00の連続は、灯りの拍と同期している」弓は東條へ視線を向けた。「匿名供養便の出荷は、21:30の締切に間に合わせて運ばれた?」
「はい。“拍”に乗せれば運びやすい。表に出ない約束の裏で、俺たちは拍を使った。拍は便利だから」
「便利は危険だ」弓は言う。「便利な拍は神秘の拍に見えやすい。神秘に見える拍は見物を呼ぶ。見物は工程を壊す。だから、拍を可視化する。“運ぶ拍”を図で出す。顔は出さない。手と秒の位置だけ置く」
東條は頷き、ノートの端をトントンと揃えた。「揺り戻しの次の波が来る。“無名”は神秘に利用されやすい。だから、先に置いてください。工程で」
「置きます」
弓はノートの表紙を閉じ、〈無名〉の上に手を置いた。無名は軽くない。軽く持ってはいけない。重いものは遅く動く。遅い正しさに体温が要る。体温は写真と文章の間で受け渡しができる。それが共同作業。
◇
翌日、社会部の特集会議。弓は最大山場の構図を具体に置く。31〜33話。
「“無名”を頂に置きます。灯りの家が**“相良”を探す夜に、手と秒だけで立てた橋を渡る。逃げ場のないカメラ位置は、顔を写さない代わりに“撮らない写真”で受けます。粉、押印秒、波形、札の角、そして“凍った秒”」
篠目はアトリエで仕上げた氷の砂時計の連写を机に並べた。氷が汗をかき、穴が開き、最初の一粒が落ちる瞬間**。
「演出にならないよう、温度の記録を併置します。氷面に触れた指の表面温。赤外の数字。“秒”が溶け始める温度は人の温度で証明できる」
デスクは腕を組んで聞いていたが、最後に短く頷いた。「顔を出さなくても殴れるな。工程で」
「殴りません」弓は微笑む。「橋を架けます。ただ、渡る先は鋭い」
「どこだ」
「灯りの家が**“相良”を探す夜です。記者の名が問われる。私の家の“無線”が外へ出る。逃げ場はない**。だから、逃げない写真で受ける」
会議の終わり際、デスクが一枚の紙を弓に渡した。読者からの手紙のコピー。
〈“無名”だった兄の秒が、記事で温まりました。戻す工程、待っています〉
短い文なのに、紙が重くなった。弓は胸に置き、呼吸を三回・ひと呼吸・二回で整える。拍は重いものを運ぶための台車だ。
◇
夜、灯りの家。
入り口で三回・ひと呼吸・二回。ノブは静かに回り、橙の光が濃かった。机の上に砂の粒が少し散っている。砂時計は横倒し。横倒しにされた秒は悪ではない。基準になる。
黒板の右上に、粉書きの図。
〈匿名供養便/拍の見える化〉
21:00の窓に三本の細い線。線の根元に小さく〈A→B〉。Bの右に波形の谷。ドリフトの数字が**±0.3℃と書かれている。温度だ。秒は温度で見える。
机の上には白封筒。差出人なし。
中から出てきたのは、小さな紙の束。五十音の母音が一列に並び、上に薄いトレーシングペーパーが重ねられている。トレペの端に、鉛筆の線**。
〈相良〉
弓の姓だ。
線は母音の列と重なるように薄く引かれている。〈あ〉と〈お〉の上が少し濃い。
弓の胸が短く跳ね、呼吸が逆流する。灯りの家が**“相良”を探している。名が問われる。読者の前ではなく、儀礼の前で。
逃げ場はない**。
弓は椅子に座り、黒板の端に白墨で一行だけ書いた。
〈“名を晒す”と“名を置く”の差を設計する〉
晒すのではない。置くのだ。名を呼ばずに置く場所。置く方法。置く秒。
携帯が震えた。東條からの短文。
〈“無名”三件の受け渡し、受け手の“手”を特定できるかもしれない。明日、影で〉
〈了解〉と返し、すぐに上園にも短い文。
〈“匿名供養便/拍の見える化”の図、黒板にあります。公開監査ログの欄に“拍”の項目を〉
〈入れます〉と帰ってくる。早いが、言葉は軽くない。
弓は机の上の砂を集め、砂時計を立てた。粒はまだ落ちない。首に氷の薄膜。篠目の氷の砂時計を思い出す。温度だ。
弓は両手で砂時計を包み、掌の温度を渡す。粒が動いた。最初の一粒が落ちた。
戻すのは、記者の筆だけではない。体温だ。“無名”の秒は人の温度で解かれる。名は呼ばずに置かれる。置かれた名は在る。在る名は読む者の呼吸の中で立ち上がる。
帰路、弓はフロントガラスの潮を三回・二回で払った。胸ポケットの名刺の裏は、しっかり上を向いている。“相良”という字の前に、秒を一つ置く。秒が橋になる。橋を渡るのは個人だが、橋脚は共同で打つ。東條の手、上園の制度、海野の母音、元団長の拍、篠目の写真。そして、記者の紙。
送稿前、弓は近況ノートに短く置いた。
〈“無名”のノートを受け取りました。秒と手だけで残された頁。完了は終わりではなく凍結。温度で秒を解き、名を呼ばずに置く方法を設計しています。最大山場に向けて、灯りの家が“相良”を探す夜が来ます〉
21:30、送信。画面が白に戻る。デスクは「山場、工程で押し切れ」とだけ返してきた。弓は笑い、黒板に粉で小さな矢印を書いた。〈温度 → 秒 → 在〉。句点は打たない。在は終わらないから。
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
※読了ありがとうございます。今回は**『無名の夜』。“秒”と“手”だけで綴られた〈無名〉ノート、完了=凍結という現場の言葉、氷の砂時計で写す“凍った秒”、そして灯りの家が“相良”を探す予兆まで。つづきが気になったら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで応援してください。あなたの一押しが、相良弓の定時とこの物語の秒**を、最大山場へ押し出します。
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