第15話「秒の地獄」
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第十五話の朝、相良弓はノートの左上に「取材記録#015」と書き、□を三つ描いて5:30/17:30/21:00を塗りつぶした。真ん中に太い一本の線——〈秒の地獄〉。線の端に小さく添える。〈Excelのタイムスタンプ:yyyy/mm/dd hh:mm(秒がない)〉。
紙面の骨子はすでにある。“21:00の灯り”が記録上どこにも存在しない。ならば、それを現在形で見せる。秒を落とした仕様が順序を壊し、順序が壊れれば原因が溶け、原因が溶ければ責任が海に散る——その経路を工程で描く。
午前、社の会議室でエクセルの印字列を机いっぱいに並べた。20:57、20:58、20:59、21:00。四分のはずが、印字の順はでたらめで、21:00の行が四つも五つも重複し、20:59の行が後ろに回っている。秒がない世界は、地面のない坂道みたいなものだ。重力のかかり方が、一定ではない。
篠目は定規を持ってきて、紙の端を揃えた。言葉を使わない。“人間の指が、秒を返す”というキャプション案だけが、すでに彼の中で固まっている。
「裏取りに行く」
弓はそう言ってバッグにノートとICレコーダーを突っ込み、大学のデータ監査研究室へ向かった。担当の準教授は、細い眼鏡越しに資料を一瞥し、迷いのない速さでホワイトボードに書き出した。
〈秒の欠落 → 全順序(Total Order)の喪失 → 因果の喪失 → 責任の希薄化〉
「“順序”がなければ、“因果”は証明できないんです」
準教授は言葉を置く位置が正確だ。
「Excelのセルが分単位しか持たない表に複数イベントを流し込むと、同一分内の行は擬似同値になります。擬似同値は人間の目に**“同じ”と映るが、実際には先後があります。先後が落ちた瞬間に、誰が先にスイッチを切ったか、どの合図が先に届いたかが、“どちらでもいい”に変わる。責任は、順序の上にしか立たない」
「“秒”が落ちると、“責任”が溶ける**」
「ええ。そしてもう一つ。こちらを見てください」
準教授は端末を叩き、古いNASとWindows端末の時刻同期ログを模した図を出した。
「NTP(時刻同期)の不全です。古いNASは上位NTPからの応答が不安定で、1〜3分の浮動が発生している。クライアントのWindowsも、既定の同期間隔が長すぎるとずれを抱えたままになります。結果、“21:00の灯り”という実世界のイベントと、ログの時刻が一致しない。“灯りの瞬間”は記録上どこにも存在しない」
弓は小さく笑った。
「要約は怪異を作る」
準教授は目だけで笑い、頷いた。
「怪異というより設計の盲点。ただし社会的には怪異と同等の力を持つ。“記録に存在しない”は“存在しなかった”に転じやすい。秒は倫理なんですよ」
「秒は倫理」
「はい。単位は制度です。制度を落とすと、倫理が落ちる」
弓は礼を述べ、ホワイトボードの写真を三枚撮った。全順序/因果/責任、そしてNTP不全の矢印。扉を出る直前、準教授が一言だけ付け足した。
「“ミリ秒”まで取れとは言いません。でも**“秒”は捨てないでください**。秒を捨てることは、人を捨てることです」
◇
社に戻ると、篠目が会議室の机に印字列を物理的に切り貼りしていた。20:59、21:00、21:01——同じ分に並んだ複数の行に、篠目は鉛筆で仮の“:00〜:59”を書き入れ、取材メモと無線のログ、灯りの観測時刻を突合しながら、“正しい順序”で帯を作る。写真は真上から一枚。並ぶ紙の端に指が一本だけ入り、位置を押さえる。「**キャプションは〈人間の指が、秒を返す〉で行く」
弓は頷き、本文で“秒が返る工程”**を記述する計画を頭の中で組み直した。
そこに、役場の上園が社に姿を見せた。電話やメールではなく、来庁だ。彼は印字列の切り貼りを見て、短く息を飲んだ。
「これは……」
「分だけのタイムスタンプでは、順序が落ちる。NTPのずれも押さえました。1〜3分、浮動がある。“21:00の灯り”はログ上のどこにもいない」
上園は喉仏を一度、上下させた。
「市販ソフトの仕様です」
「仕様の向こう側を見せてください。導入決裁の議事録、運用教育の資料、監査の未実施記録。仕様は責任を免除しません。仕様を採用した人がいる」
上園は目を伏せた。
「見せます。ただ、時間を——」
「時間は、こちらが秒で管理します。そちらは**“遅延の儀式”をやめて**、工程を出してください」
上園は短くうなずき、去っていった。背中に、決めると迷うが交互に立ち上る。
◇
夕刻、弓は紙面の見出しを決めた。
『秒の地獄』
副題:〈“21:00の灯り”は、どこにも記録されていない——分しかない表/ずれる時計/溶ける責任〉。
本文の目次は四つ。
1)秒がない表:順序の喪失。
2)ずれる時計:NTP不全の1〜3分。
3)仕様の向こう側:導入決裁/運用教育/監査未実施。
4)秒を返す:人間の指と灯りの家のデジタル時計。
最後の項目を入れたのは、夜に回すためだった。灯りの家に、秒が戻る気配が数日前からあった。「オ」の紙片が収まり、クリアファイルに“秒が殺す”の走り書きが残された夜。次は、秒だ。秒を戻す誰かが、いる。
◇
夜。半島の海は、満ちでも引きでもない水平の呼吸で、陸に寄り添っていた。弓と篠目は灯りの家の前で立ち止まり、いつものように三回・ひと呼吸・二回を足で刻む。ノブを回すと、橙の光がすっと広がり、机の上の新しい影を作った。
デジタル時計が置かれていた。秒まで刻むモデル。七セグの赤い棒が、21:00:—の直前で細く震える。弓は思わず机に顔を近づけ、背面へ回り込んだ。配線が、切られている。電源ケーブルが途中で断たれ、導線がテープで封じられている。だが、時計は点灯している。内部電池だ。時刻合わせの痕跡——裏蓋のネジに新しい擦れ。誰かが、秒を戻そうとしている。
机の端に、小さな紙。鉛筆で、ただ一行。
〈21:00:00〉
弓の皮膚が逆立つ。鳥肌という言葉が、そのまま現場で体になった感触だ。秒が、ここに在る。仕様や遅延や要約の外で、誰かが秒を起動している。21:00:00。ゼロが三つ、起点が、置かれた。
ランタンの光がわずかに呼吸を変える。21:00:00。ぴったりの瞬間、デジタル時計の赤が強くなり、一秒、深く点き、それから穏やかに戻った。背面の配線は切れたまま。電源は入っていない。内部電池だけで、秒が走る。
篠目が低い声で言った。
「“灯りの瞬間”が、ここにはある」
「記録にはないけれど、現場にはある」
「**だから、撮るのは“指”**だ」
「**書くのは“秒”**だ」
弓はノートを開き、一行、置いた。
〈“秒の地獄”から人を引き上げる〉
それは宣言ではなく、工事計画だ。秒を戻す手続き——Excelの秒を列ごと復旧するか、補助カラムで**“擬似秒”を足すか。NTPの同期を短くし、NASの時刻を親機へ直結するか。導入決裁の議事録を公開し、運用教育の資料に秒を足すか。監査の未実施を実施に倒すか。
“秒”は倫理。倫理は制度**。制度は工程。工程は人。人の指が、秒を返す。
机の向こう、窓が一度だけこちらを見た。灯りの家の目が、秒で瞬きする。その瞬間、弓の胸の奥で、21:30の入稿線が針を打った。戻る。秒を抱えて、戻る。地獄を紙面で足場に変えるために。
◇
社へ戻る車内、弓は本文の順を最終確認した。リードは短く。分しかない印字列、定規で切り貼り、人間の指が、秒を返す。準教授のホワイトボード、全順序/因果/責任。NTP不全の1〜3分、“灯りの瞬間”がどこにも存在しない。上園の**“市販ソフトの仕様”、導入決裁/運用教育/監査未実施への切り込み**。そして、灯りの家のデジタル時計、〈21:00:00〉。
見出しは**『秒の地獄』**のまま。句点は置かない。現在進行形で渡す。
社のフロアは夜の白。デスクが弓を見る。
「“殺す”の語は控えめに」
「本文では使いません。“落ちる/溶ける/削られる”で行きます。見せるのは秒です」
「よし。キャプション、強いな」
「人間の指が、秒を返す。一枚で行けます」
「上園の向こう側、明日も叩け」
「議事録、教育資料、監査——秒で行きます」
キーボードに指を置き、砂時計を横倒しにしてから送稿の時計に目をやる。21:18。秒は倫理。倫理は制度。制度は文章で起動する。弓は打った。“分”だけの行が崩す順序。“秒”の欠落が溶かす責任。NTPが漂わせる****1〜3分。“灯り”が記録にいないのに、現場に在る。要約が怪異を作る。人の指が秒を返す。〈21:00:00〉。
そして結びに一行。
〈“秒の地獄”から人を引き上げる——記す者は、秒でやる〉
句点は置かない。
21:30。送稿。画面が白に戻る。デスクが親指を立て、篠目が頷く。弓は胸ポケットの名刺を裏のまま確かめ、近況ノートに短く書いた。
〈“秒の地獄”を見てきました。分しかない表、ずれる時計、溶ける責任。誰かが灯りの家に“秒”を戻そうとしていました——〈21:00:00〉。人間の指で、秒を返す。定時で、続けます〉
送信を押す。遠い海が三回・二回。灯りの家のデジタル時計の赤い棒が、脳裏で一秒だけ強く点く。次の柱は、導入決裁と監査の机だ。秒で、行く。
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
※ここまで読んでくれてありがとう。“秒の地獄”から人を引き上げる工程、まだまだ続きます。続きが気になったら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで背中を押してください。あなたの一押しが、相良弓の定時とこの物語の秒を、次の頁へ押し出してくれます。
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