第8話「未来は、変えられる」
意識が浮上した瞬間、俺の耳に聞こえてきたのは、鳴り響くセミの声ではなく、窓ガラスを静かに叩く、しとしとという雨音だった。
ゆっくりと目を開ける。
そこに広がっていたのは、見慣れた自室の天井。夕焼け色の空も、緑豊かな山も、どこにもない。ただ、灰色のカーテンが、外の雨模様を静かに伝えているだけだった。
慌てて体を起こす。
俺は、自分の部屋のベッドの上にいた。
壁に掛かった時計の針は、土曜日の午後三時を指している。ちょうど、俺があの砂時計をひっくり返した直後の時間だ。
まるで、長い長い、しかし信じられないほど鮮明な夢を見ていたかのようだった。
肌に残る夏の日差しの感触。耳の奥にこびりついている仲間たちの笑い声。そして、最後に見た結衣の、あの優しい笑顔。
その全てが、あまりにもリアルで、夢だったとは到底思えなかった。
ベッドの脇に目をやると、床の上には、あの使い込まれた木製の小箱が、まるで何事もなかったかのように置かれていた。
だが、あるべきはずのものが、一つだけ消えていた。
あの小さな、木枠の砂時計の姿が、どこにも見当たらない。
代わりに、小箱の傍らに、あの羊皮紙が一枚、ひらりと落ちていた。
俺はそれを拾い上げる。
そこには、見覚えのある流麗な文字が記されていた。しかし、その言葉は、俺が過去へ旅立つ前に見たものとは、明らかに変わっていた。
『時間は取り戻せない。だが、未来は変えられる』
「……未来は、変えられる」
その言葉を、俺は何度も何度も、声に出して呟いた。
脳裏に、結衣の最後の言葉が蘇る。
『無理はしないでね』
『私は、今のケンゴも、昔のケンゴも、どっちも好きだから』
俺は、なんて馬鹿だったんだろう。
過去に戻って、後悔を消し去り、完璧な人生を演じようとしていた。
だが、結衣が好きだと言ってくれたのは、完璧な俺じゃなかった。不器用で、格好悪くて、失敗ばかりしていた、あの頃の俺自身だったんだ。
俺は、今の自分を、ありのままの自分を、肯定できていなかった。
過去の後悔にばかり囚われて、不器用な自分から目をそむけていた。完璧な自分を演じることで、その弱さを隠そうとしていただけだった。
過去は変えられない。
あの夏に戻って、どんなに完璧に立ち回ったとしても、それはただの「上書き」でしかなく、本当の意味で過去を変えたことにはならない。不器用だった俺がいたからこそ、あの夏は、かけがえのないものだったんだ。
変えるべきなのは、過ぎ去った過去じゃない。
これから訪れる、未来だ。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
けれど、俺の心にかかっていた分厚い雨雲は、ほんの少しだけ、晴れ間が差してきたような気がした。
俺はベッドから立ち上がり、窓を開けた。
ひんやりとした、湿った空気が部屋に流れ込んでくる。その空気を、俺は胸いっぱいに、深く、深く吸い込んだ。
夢のような、奇跡のような夏は終わった。
俺はまた、退屈で、灰色で、疲れるだけの日常に戻ってきた。
でも、もう大丈夫だ。
俺は、もう一度、この現実を歩き出すことができる。
不器用で、格好悪い、ありのままの俺として。
羊皮紙を、そっと机の上に置く。
もう、これに頼る必要はない。
俺は、自分の足で、未来へと歩き出す覚悟を決めた。
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