第6話 過去の記憶に揺さぶられる瞬間に

 放課後の教室。

 千葉蒼真ちば/そうまは教科書を通学用のリュックに無造作に突っ込み、帰路につく準備を整えていた。


 そんな中、廊下から聞き慣れた声が響いてきた。少し低めで、自信たっぷりなその声は、副生徒会長――内山櫂うちやま/かいのものだ。

 蒼真が何気なく視線を廊下へやると、そこには櫂の姿。そしてその隣には、今年からクラスが離れた元カノ――黒沢朔菜くろさわ/さくなが立っていた。


 朔菜の顔には、どこか翳った表情が浮かんでいる。昨日、彼女は蒼真に別れを告げ、櫂と付き合うと宣言したばかりだ。

 なのに、彼女の瞳には恋する少女の輝きなど微塵もない。

 暗い目元、わずかに下がった唇――まるで心が別の場所にあるかのようだった。


 一瞬、朔菜の視線が蒼真と交錯する。彼女の瞳が驚いたように揺れ、すぐにそっぽを向いた。

 その仕草には、どこか後ろめたさのようなものが滲んでいるように見えた。


「ほら、朔菜、行くぞ」


 櫂の声が響き、彼女の手を引くようにして歩き出す。

 二人の背中が遠ざかるのを眺めながら、蒼真の胸に得体の知れないモヤモヤが広がった。


 まさか、わざと見せつけてるのか?

 それとも……


 そんな考えが頭をよぎる。


 朔菜は本当に櫂を好きで選んだのか?

 いや、昨日フラれたばかりの自分にそんなことを考える権利はないよな。


 蒼真は小さく首を振って、心のざわめきを振り払った。

 もう終わったことだ。元カノのことは忘れなければと、そう自分に言い聞かせる。


「蒼真くん、なんか……重い空気だったね」


 柔らかな声が耳に届き、蒼真はそちらへ目を向けた。

 そこにはクラスメイトの大橋紅葉おおはし/くれはが立っていた。彼女の少し心配そうな瞳が、蒼真の心をそっと揺さぶる。

 紅葉はいつものように、穏やかで温かい笑みを浮かべていた。


「ああ、まあ……そんな感じかな。でも、もう関係ないよ。過去の話だし」


 蒼真はそう言って、胸の奥でうごめく感情を押し込んだ。

 紅葉はそんな蒼真をじっと見つめ、軽く首を傾げたが、それ以上は詮索しなかった。


「そっか。じゃあ、行こっか! 昼休みに大橋さんが教えてくれた古本屋。楽しみだなぁ!」


 蒼真の声に、紅葉は小さく頷いた。


「うん、行こ」


 紅葉は相槌を打つ。


 蒼真はリュックを肩にかけ、紅葉と並んで教室を後にした。

 過去の傷はまだ疼くが、紅葉の軽やかな足音が心の重さを少しずつ溶かしてくれるようだった。

 前に進まなければと思いながら、蒼真は一歩を踏み出したのだ。




 街の喧騒から少し離れた、ひっそりとした場所。

 そこに佇む古本屋の前に、蒼真と紅葉は足を止めた。


「ここだよ!」


 紅葉が弾むような声で言うと、蒼真は周囲を見回した。

 古びた看板が控えめに掲げられた店は秘密の隠れ家のような雰囲気だ。


「へえ、こんなとこに古本屋があったんだな」


 蒼真の言葉に、紅葉はくすりと笑う。


「うん、ちょっと分かりづらい場所だから、知ってる人も少ないんだよね。隠れ家っぽいでしょ?」

「確かにね」


 大通りから一本外れた静かな場所に、ひっそりと佇む店の周りは静かだった。

 看板の文字は少し色褪せ、どこか懐かしい空気を漂わせている。


「さ、入ろ!」


 紅葉が軽く背中を押すと、蒼真は少し照れながら頷き、店の扉をくぐった。

 店内は、ほのかに古紙の香りが漂う薄暗い空間だった。

 本棚が所狭しと並び、個人経営らしい温かみのある雰囲気が広がっている。

 蛍光灯の明かりは控えめで、どこかノスタルジックな空気が流れていた。


「すみませーん!」


 紅葉が元気よく声をかけると、店の奥から五十代くらいの男性店員がのんびりと現れた。


「はいはい、いらっしゃい。ゆっくり見てってくださいね」


 紅葉は身を乗り出し、にこやかに言った。


「実は、前に電話で問い合わせしたんですけど……あの漫画まだありますか?」

「あー、はいはい。ちょっと待っててな」


 男性店員はそう言うと奥の棚に消え、しばらくして一冊の漫画を手に戻ってきた。


「これでいいかな?」


 紅葉の目がキラリと輝いた。


「はい! それです! ずっと探してたんです。ありがとうございます!」

「じゃ、会計してもいいかな? 五〇〇円ね」


 紅葉は嬉しそうに財布を取り出し、さっと支払いを済ませた。


「やった! やっと手に入れたよー」


 レジ袋を手に、紅葉は弾むような足取りで、店の入り口付近に佇んでいた蒼真の元へ戻ってきた。

 好きな本を手に入れた彼女の笑顔は陽だまりのように輝いている。


「なに買ったんだ?」


 蒼真が興味津々に尋ねると、紅葉は得意げにレジ袋から漫画を取り出した。

 表紙には、キラキラした瞳の男性キャラが描かれている。

 蒼真は一瞬、目を丸くした。


「これ、十年くらい前の恋愛ゲームのコミカライズなんだよね。めっちゃレアで、ずっと欲しかったの!」


 紅葉の声は興奮で少し高くなっていた。


「へえ、そんな古い漫画か。でも、取り置きしてもらってたなら、なんで今まで買わなかったんだ?」


 蒼真が首を傾げると、紅葉は少し照れくさそうに笑った。


「うーん、普段は友達と遊ぶことが多くて、こういうオタクな趣味ってあんまり表に出さないんだよね。ちょっと恥ずかしいっていうか……」

「好きなものを隠すのって、なんか疲れそうだな」

「うん、まあね。でも、蒼真くんは漫画好きだって知ってるから、話しても大丈夫かなって!」


 紅葉は頬を少し赤らめながら、はにかんだ笑顔を見せた。


「そっか。まあ、俺も漫画は好きだけど、こういうジャンルはあんまり読まないかな」


 蒼真は気恥ずかしそうに頭をかいた。


「蒼真くんは、少女漫画とか読まない感じ?」


 紅葉が目を輝かせて尋ねると、蒼真は少し慌てた様子で答えた。


「いや、全く読まないってわけじゃないけど……昔、妹の影響でちょっとだけ読んだことあるくらいで」

「へえ! 妹さんいるんだ! どんな子? 今度会わせてよ!」


 紅葉のテンションがさらに上がる。

 蒼真は苦笑いを浮かべた。


「うーん、妹とは今ちょっと距離があって。そこまで仲良くないっていうか……」

「そっか。まあ、蒼真くんがいいタイミングだと思ったらでいいよ。無理しないで!」


 紅葉は優しく微笑み、蒼真の肩を軽くポンと叩いた。


「ありがと。まあ、考えてみるよ」


 蒼真はホッとしたように笑い返した。

 その瞬間、紅葉の目がキラリと光った。


「ねえ、蒼真くん! せっかく来たんだし、少女漫画の棚見てみない?」

「え、なんで急に?」


 蒼真が驚いた声を上げると、紅葉はにやりと笑った。


「だって、恋愛を学ぶなら少女漫画は最高の教科書だよ! 女の子の気持ちとか、めっちゃ勉強になるんだから! ほら、行くよ!」

「うぉ、ちょっと待てって! 急にそんな⁉」


 蒼真は焦りながらも、紅葉の勢いに押されて少女漫画の棚へと連れていかれた。

 狭い店内の通路を進む二人の背中には、どこか楽しげな空気が漂っていた。


 古本屋の薄暗い照明の下、紅葉の弾ける笑顔と蒼真の少し照れた表情が、青春の一ページを彩るように輝いていたのだった。

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