第3話:無骨な将軍、その不器用な救済

馬車が横転しかけ、私は投げ出されそうになり、必死に座席にしがみついた。馬車が急停止し、地鳴りが響く。血と獣の匂いが、窓から入ってくる冷たい空気と共に、私の鼻腔を刺した。窓の外に目をやると、巨大な影が、夜空に牙を剥き出し、私に迫っていた。それは、これまでの人生で見たこともない、おぞましい魔物だった。


「…ひっ」


声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。御者が悲鳴を上げ、馬は恐怖に狂ったように嘶き、前足を上げた。御者がバランスを崩し、馬車の座席から地面に叩きつけられる。その瞬間、魔物は馬車に襲いかかった。牙が、馬車の屋根に突き刺さり、木材が砕け散る音が耳に響く。私は、もう終わりだと思った。こんな辺境の地で、誰にも知られず、こんな醜い魔物に食い殺される。それが、私の末路なのだ。


(ああ、やっぱり、私は誰にも必要とされない……。死ぬ時ですら、誰も助けてはくれない……)


その時、キィィィィィンッ!

耳をつんざくような、金属音が響き渡った。馬車の屋根が、一筋の銀色の光で切り裂かれる。魔物は唸り声を上げ、その巨大な爪を振り上げた。男が剣を構え、その爪を受け止める。ガキィンッ!と、硬いものがぶつかり合う鈍い音が響き、その衝撃で、私の髪が風に舞った。獣の唸り声と、男の低いうなり声が混ざり合う。一撃で倒すのではなく、数合の攻防を挟む。そのたびに、骨が砕けるような音、焦げ臭い血の匂い、そして剣が空気を切り裂く風圧が、私を襲った。


男は、まるで岩を削り出したかのような、無表情の男だった。彼は、巨大な剣を片手で軽々と振るい、魔物の首を刎ねたのだ。彼の剣は、血を滴らせながら、鈍い光を放っている。獣の生臭い血の匂いが、私を包んだ。彼は、まるで呼吸をするかのように、当たり前のように魔物を倒した。その姿は、あまりにも人間離れしていて、私は恐怖で言葉を失った。


男は、何の言葉もなく、私に近づいてきた。彼の顔は、夜の闇に溶け込み、表情を読み取ることができない。ただ、彼の目だけが、夜空の星のように、冷たく光っていた。私は、彼が魔物よりも恐ろしく見えた。


(この人は、私を助けてくれるの?それとも、この場で、口封じに殺すのだろうか。こんな辺境の地で、私の存在を知る者は誰もいない。魔物より恐ろしいのは、人間の冷酷さではないのか?)


私の思考は、恐怖と安堵の間を行き来する。死ぬなら今だ。でも、なぜか、私の目から涙があふれていた。死にたくない。そう、私の身体が叫んでいた。


男は、私を抱き上げた。その手は、ゴツゴツと分厚く、硬い。鍛え上げられた手のひらが、私の背中と膝の裏に食い込む。痛いほどに硬いのに、その手のひらから伝わる熱は、凍りついていた私の心臓をじんわりと温めるようだった。その矛盾が、私の思考をかき乱す。


(何、この人……怖い。無表情で、まるで死神みたい。でも……この手、すごく温かい……)


彼は、私を馬車から降ろし、地面にそっと立たせた。そして、私を一瞥すると、何の言葉もなく、魔物の死骸へと向かっていった。彼は、剣についた血を、魔物の毛皮で拭き取ると、再び私の方を振り返った。


「…立てるか」


彼の声は、低く、まるで岩が擦れ合うような音だった。私は、彼の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。彼は、私に心配の言葉をかけてくれたのだろうか。信じられない、という感情が身体中を駆け巡る。


「…あなたは、誰……?」


私がそう尋ねると、彼は一瞬だけ、私を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「レオンハルトだ。この辺境の守護者」


その言葉を聞き、私は彼がこの辺境伯領の将軍だと悟った。社交界では、その名を聞いたことがあった。冷徹で無愛想な、鉄の将軍だと。だが、目の前の彼は、私の知っている将軍のイメージとは、どこか違っていた。彼は、私の隣に立った。そして、静かに、空を見上げていた。


私は、彼の隣にいることが、なぜか、とても安心できた。彼の存在は、まるで巨大な壁のようだった。私を守ってくれる、揺るぎない壁。この男は、私を助けてくれたのだ。私は、ようやく、安堵の息を吐くことができた。私の目からは、涙があふれ、止まらなかった。


「冷たい手なのに、不思議と温かい……」


彼は、私を再び抱き上げた。今度は、私の身体を、より優しく、そして、大切に抱きしめるように。彼の身体から伝わる熱が、私を包み込む。私は、彼の胸に顔を埋めた。そこには、革の匂いと、彼の体温が混ざり合った、温かい匂いがした。


「馬車は壊れた。このままでは夜を越えられない。砦まで歩くぞ」


彼の声は無骨だった。私は、彼の言葉に従うしかなかった。彼は、私を背負い、歩き始めた。星明かりしかない闇夜、遠くで獣の咆哮が聞こえる。しかし、私は、彼の背中で、不思議と恐怖を感じなかった。乾いた土の匂いが、私を包む。それは、社交界の甘い香水の匂いとは全く違う、生の匂いだった。


数時間後、私たちは小さな砦にたどり着いた。レオンハルトは、私をそっと地面に降ろすと、焚き火を起こした。パチパチと薪がはぜる音が、静かな夜に響く。彼は、何も言わずに、硬い干し肉と、水を差し出した。


「…食べろ」


彼はそう言って、再び私を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、憐れみも、嘲笑もなく、ただ、静かな光が宿っていた。


彼の不器用な優しさが、私の心を深く満たしていく。私は、この旅の終着点で、この男に出会えたことに、心から感謝していた。彼は、私をただの「追放された令嬢」としてではなく、一人の人間として、見てくれているようだった。


---


レオンハルトは、何の言葉も発せず、魔物の死骸に向かった。月の光を反射する巨大な剣の刃先からは、どろりと黒い血が滴り、地面に小さな染みを作っていく。首を刎ねられた魔物の体は、まだ温かい湯気を立てていた。その赤黒い血からは、生臭さと、鉄が焼けるような焦げ臭い匂いが入り混じり、私の鼻腔を攻撃する。


(ひどい……。こんな、こんなものが、本当に現実……?)


私は目を背けたいのに、恐怖と好奇心で、その光景から目を離すことができなかった。魔物の太く、硬い毛皮は見るも無残に引き裂かれ、露出した筋肉は、まだ痙攣しているようにも見えた。そこに、夜の虫が、まるで獲物を見つけたかのように、ブンブンと羽音を立てて群がり始める。その様子に、私はこみ上げる吐き気を抑えきれず、思わず口元を押さえた。


しかし、レオンハルトは、そんな私の様子を気にするでもなく、淡々と作業を続けていた。巨大な体躯に似合わない、信じられないほど繊細な手つきで、魔物の牙や爪を器用に剥ぎ取っていく。その動作には、一切の迷いや無駄がない。まるで、毎日の日課であるかのように。彼の冷徹なまでの冷静さが、私にはかえって恐ろしかった。この人は、どれだけ多くの魔物を倒してきたのだろうか。この血と臓物の匂いに、彼はもう何も感じないのだろうか。そう思うと、彼の人間離れした存在が、私には一層、遠く、手の届かないもののように思えた。


---


レオンハルトの広い背に背負われ、私はゆっくりと、夜の森の中を進んでいった。身体の奥底から込み上げる吐き気と恐怖はまだ残っていたが、不思議と、彼の背に触れている安心感の方が勝っていた。彼の硬い背中越しに伝わる体温は、私の震える身体をじわじわと温めてくれる。


(馬車を失って、このまま夜の森に放り出されていたら……。きっと私は、獣に食い殺されるか、恐怖で発狂していたに違いない。そう考えると、この人の背中は、まるで動く砦みたい……)


空を見上げると、満点の星が輝いていた。社交界の街灯に遮られ、ほとんど見ることのできなかった星々が、ここでは手の届きそうなほどに煌めいている。北斗七星の柄杓が夜空をなぞり、そのすぐそばで、幾つかの星座が瞬いていた。レオンハルトの歩みに合わせて、それらの光が揺らめく。森の中からは、風に揺れる木の葉のざわめきや、遠くで聞こえるフクロウの鳴き声、そして、どこかで獣が獲物を追う、低い咆哮が聞こえてきた。


(背負われるなんて、令嬢としては恥ずかしいことのはずなのに……)


社交界でなら、こんな姿を誰かに見られたら、翌日には醜聞として広まっているに違いない。しかし、今は誰もいない。誰も見ていない。だから、私は、この恥ずかしさよりも、安堵感の方が大きかった。彼の肩に顔を埋め、目を閉じると、ゆっくりと眠気が襲ってくる。だが、同時に、まだ終わっていない恐怖も、脳の奥底で囁き続ける。眠ってはいけない、目を閉じれば、あの魔物の顔が浮かんでくる。それでも、彼の背中はあまりにも居心地が良くて、私は無意識のうちに、彼の服の裾を強く握りしめていた。その手のひらの先に、彼の筋肉の隆起を感じる。その力強さが、私を守ってくれている。この人の隣なら、たとえ眠ってしまっても、大丈夫だ。そんな根拠のない確信が、私の心を支配していた。


---


小さな砦にたどり着いた私たちは、レオンハルトが起こした焚き火のそばに座った。パチパチと薪がはぜる音が、静かな夜に響く。彼は、何の言葉もなく、革袋から硬い干し肉を取り出すと、それを私に差し出した。


「…食べろ」


彼の声は低く、そして無骨だった。私は、その干し肉を受け取ると、ゆっくりと口に運ぶ。その肉は、驚くほど硬く、何度も何度も噛み締めなければならなかった。しょっぱさが、舌にピリリと刺さり、私は眉を顰める。


(なにこれ。硬い、塩辛い。社交界の晩餐会に出てくる、とろけるようなローストビーフとは全然違う……)


私は、貴族の娘として、常に最高の食材、最高の料理を口にしてきた。フォークで簡単に切れる柔らかい肉、舌の上でとろけるソース、芳醇なワイン。しかし、今、私の目の前にあるのは、ただの硬い干し肉と、革袋に入った水だけだ。水を口に含むと、ひんやりとした冷たさが、疲れた喉を通り過ぎていく。喉の渇きは癒されたが、その水は決して美味なものではなかった。それでも、不思議と、この干し肉と水は、私の身体を深く満たしてくれるようだった。


私が干し肉を噛みしめている間、レオンハルトは、火の番をしていた。時折、彼が何も言わずに、薪の位置を調整する。そのたびに、火の粉が夜空に舞い上がり、美しい光の線を引いた。そして、私が少し寒そうにしていると、彼は、まるで当然のように、自分の外套を脱いで、私の肩にそっと掛けてくれた。


「…ありがとう」


私がそう言うと、彼は何も答えず、ただ静かに頷くだけだった。その無言の気遣いが、私には何よりも深く心に響いた。言葉はなくても、彼の行動一つ一つに、彼の不器用な優しさが込められている。社交界で経験してきた、甘い言葉や飾り立てられた態度とは全く違う、生の、そして本物の優しさ。私は、この男の隣にいることが、今は何よりも幸せだった。


---


(どうして、この人は、私を助けたんだろう。価値のない私を、どうして……?)


私は、自分の存在に価値がないことを、この数年間、嫌というほど思い知らされてきた。追放され、見放され、誰にも必要とされない。それが私の現実だった。だから、この将軍が私を助けた理由がわからなかった。口封じに殺すならまだわかる。だが、彼は私を砦まで運び、食事を与え、そして、何も言わずに隣にいてくれる。それは、どう考えても、価値のない人間に対する行動ではない。


(…もしかして、私のことを誰かと勘違いしてる?いや、そんなはずない。レオンハルト将軍は、辺境の将軍でしょ?社交界の人間とは接点がないはず……。だとしたら、ただ単に、困っている人間を見捨てられなかっただけ?…そんな馬鹿な。将軍なんて、もっと冷徹で、合理的な人間のはずだ。この人は、私の知っている将軍のイメージとは、どこか違う……。いや、私の知っている将軍のイメージが、勝手に作り上げたものなのか?)


私の頭の中は、疑問符でいっぱいだった。彼の行動の理由がわからず、私は戸惑う。彼は、私をただの人間として扱ってくれている。価値のない、追放された令嬢ではなく、ただの、一人の人間として。その事実が、私の心をじんわりと温かくしてくれる。彼のゴツゴツとした手の温かさ、そして、彼の無言の優しさ。


(怖い……。でも、温かい……。この矛盾は、一体なんなの……?)


私は、混乱し、思考がぐるぐると渦を巻く。彼は、魔物よりも恐ろしい存在に見えた。だが、その一方で、彼の隣にいると、私は安堵できた。恐怖と安堵。その二つの感情が、私の心の中でせめぎ合い、一つの結論へと向かい始める。


(…私、この人と、生きたい。こんな、価値のない私でも、この人の隣なら、生きていけるかもしれない……)


この旅の終着点で、私は、私自身の中に、新しい感情が芽生えているのを感じた。それは、恐怖でも、絶望でもなく、かすかな、だが確かな、希望の光だった。私は、彼に守られて生きたい。そして、いつか、彼に私の価値を見つけてほしい。そんな淡い期待が、私の心を震わせていた。この旅の目的は、もうこの辺境で生き延びることではない。レオンハルトという男の隣で、再び、私の人生を歩み始めることなのだと、私は、そう、強く、そう、感じていた。

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