第2話 砕ける夜

王城の大広間は、建国記念を祝う夜会の熱気に満ちていた。

巨大なシャンデリヤが眩い光を放ち、優雅なワルツが人々の喧騒に溶け込んでいく。

その夜会の中心で、ひときわ輝く存在がいた。


セリナ・フォン・クライネルト。

陽光を溶かしたような金髪に、空の色を映したドレスを纏った彼女は、まさにおとぎ話の姫君そのものだった。


「まあ、セリナ様とアラン殿下、本当にお似合いですわ」

「クライネルト公爵家の令嬢ですもの。次期王妃はあの方以外に考えられないわ」


周囲から聞こえてくる囁き声は、全てが賞賛と羨望の色を帯びている。

セリナは、腕を組む婚約者、第二王子アランに優雅に微笑みかけた。


「アラン様、皆様がわたくしたちを見ておりますわ」

「当然だろう、セリナ。今宵の君は、夜空に輝くどの星よりも美しいのだから」


アランが囁くと、セリナは頬を染めて見せる。

完璧な婚約者同士の完璧なやりとり。

彼女は自らの未来がこの輝かしい夜会のように、一点の曇りもなく続いていくことを信じて疑わなかった。


王子と結婚し、国母となる。そのために幼い頃から全てを捧げてきた。今宵はその栄光の頂点にあることを再確認する場に過ぎない。

その時、彼女の足元で幸福という名の硝子の靴に微かな亀裂が入り始めていることに、セリナは全く気づいていなかった。






ワルツが一曲終わり、会場に心地よい静寂が訪れた、その瞬間だった。

アラン王子がセリナの手を離し、楽団が演奏する壇上へと一人で登った。

貴族たちが何事かと注目する中、彼はマイクを手に取る。


「皆、静粛に! 今宵、このめでたき日に、どうしても伝えねばならぬことがある!」


ざわめきが広がる。

アランは会場の隅にいた、控えめなドレスを着た小柄な令嬢を手招きした。

おずおずと壇上に上がった彼女の肩を、アランはためらいなく抱き寄せる。

セリナは、自分の婚約者が公の場で他の女性を親密に扱う姿を見て、眉をひそめた。


「アラン様…? いったい、何を…」


その問いは、マイクを通して響き渡ったアランの絶叫にかき消された。


「皆、聞いてくれ! 私は長年、この女! セリナ・フォン・クライネルトに騙されていた!」


アランは憎悪に満ちた目でセリナを指さす。

大広間は水を打ったように静まり返った。


「隣にいる彼女こそ、真に清らかで心優しい女性だ! だがセリナは、その穢れなき心に嫉妬し、陰湿ないじめを繰り返してきたのだ!」

「なっ…!?」


セリナは言葉を失う。

アランの隣で、男爵令嬢が可憐に震え始めた。


「そんな…わたくしは、何も…」

「まだ言うか! お前が彼女のドレスを切り裂き、教科書を隠し、あまつさえ階段から突き落とそうとしたことを私は知っているのだぞ!」

「お待ちください! 全く身に覚えがありませんわ!」

「黙れ!」


アランの怒声が響く。

次々と挙げられる罪状はどれもこれもが初耳のことばかりだった。


「それだけではない! セリナはクライネルト公爵家の力を盾に、国の予算を横領し、私腹を肥やしていた! これは国家への反逆にも等しい大罪だ!」


王子派の貴族たちが待っていましたとばかりに声を上げ始めた。


「なんと卑劣な女だ!」

「我々はずっと騙されていたのか!」

「公爵令嬢の皮を被った悪魔め!」


ついさっきまで賞賛を送っていた者たちの視線が、今は侮蔑と憎悪に満ちた刃となってセリナに突き刺さった。






「お待ちください、アラン様! そのようなことは断じてしておりません! 全て何かの間違いですわ!」


セリナの悲痛な叫びは、しかし、無情にもかき消される。


「間違いだと? 証人がいるのだぞ!」


アランが合図すると王子派の貴族たちが次々と前に進み出た。


「はい、殿下! 私は確かに見ました! セリナ様がこの方のドレスにナイフを突き立てているのを!」

「私もです! 階段の上から、突き落とそうとしているのを目撃いたしました!」

「嘘です! そんなこと…!」


男爵令嬢は、か弱く震えながらアランの腕にしがみついた。


「ひっ…うぅ…セリナ様が、誰にも言うなと…言わなければ、もっとひどい目にあわせると…怖くて…!」

「もういい、もう言わなくていい。可哀想に…」


アランは男爵令嬢を庇うように抱きしめ、セリナを睨みつける。

さらに、金の横領に関しても巧妙に偽造された帳簿が提示された。


セリナは最後の希望を託し、会場の隅で静観する実の父親に助けを求めた。


「お父様! お父様、助けてください! わたくしは無実です!」


しかし、クライネルト公爵は娘と視線を合わせようとしない。

ただ苦々しい表情で顔を伏せ、小さく首を横に振るだけだった。

王子の怒りを買い、公爵家そのものが危機に陥ることを恐れた彼は、この場で娘を見捨てるという最も残酷な選択をしたのだ。


信じていた婚約者。信じていた父親。信じていた周囲の人々。

彼女を支えていた全てのものが、音を立てて崩れ落ちていく。

アランは勝ち誇ったようにセリナの前まで歩み寄ると、冷え切った声で言い放った。


「よって、この場を借りて宣言する! セリナ・フォン・クライネルト! 貴様との婚約は、本日をもって破棄する!」


その目はもはやセリナを人間として見ておらず、汚物でも見るかのような冷たい光を宿していた。






セリナは膝から崩れ落ちた。プライドも未来も全てが引き裂かれた。

アランはそんな彼女を愉しむように見下ろし、最後の選択を突きつけた。


「罪人セリナ! 貴様には慈悲として二つの道を与えてやろう」

「……」

「一つは、この場で反逆者として首を刎ねられること」


会場が息を呑む。


「もう一つは、生涯を北の修道院で過ごし、己の罪を神に懺悔しながら労働に励むことだ! さあ、選べ!」


処刑か、生涯にわたる軟禁と苦役か。どちらを選んでも待っているのは地獄だった。

セリナの美しい空色の瞳から、急速に光が失われていく。

希望、誇り、愛、信頼。


彼女が今まで信じてきた全てのものが偽りであったことを悟った。

代わりに、その心の奥底で黒く冷たい感情が静かに芽生え、燃え広がっていく。


――アラン様。

――あの女。

――お父様。

――私を罵った、貴族たち。

――この、理不尽な世界。


全てを許さない。全てを破壊し尽くしてやる。

激しい憎悪と復讐心が、彼女の砕かれた心を支配していく。

セリナはもはや何も答えず、ただ虚ろな目で床の一点を見つめていた。その姿は、まるで魂の抜け殻だった。

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