第25話「二人で夜道を歩いてみよう」
「じゃあ気を付けてね。明良、ちゃんと玄関に入るところまで見届けないと殺すわよ」
「息子に殺すとか言うなよ」
いつになく語気の強い母に見送られ、奏を伴って、本日二度目の出発。やっと涼しくなりはじめた秋の空気が通り抜け、街灯に照らされた奏の髪が、スカートの裾が揺れ、なるほどこれが秋の風かと感じ入ってしまう。
「なんか変な感じですね、同じ家から出てくるのって」
奏はそう言うと、トントンとつま先で床を叩いて足の位置を調整する。
「なんか幼馴染みたいですね、こういうの」
「それ朝だろ」
そうですけど、と奏は言って、明良の横に並んだ。明良が小さい頃によく遊んだ公園とか、よくお菓子を買ってもらうスーパーだった場所とか、仲のよかった友達の家とか、そんな明良の話をいくつも奏としながら、けれども少し歩けば駅に到着してしまう。緑色の「東小金井駅」という文字列を二人で見上げて、なんとなく立ちつくしてしまう。
「明良くん」
奏が口を開く。
「変なお願いしてもいいですか」
「社会通念上許される範囲なら」
「なんですかその、私がいつでも社会通念上許されないお願いばかりしてるみたいな言いぐさは」
「してるだろ」
「してませんよ、お願いは。私と明良くんがそれぞれ自発的にしてるだけでしょ」
「それなら許されるわけじゃないだろ」
あのですね、と奏は明良のネクタイを掴んでぐいと顔を引き寄せた。
「ソープランドっていうのは風呂場で勝手に恋愛してるっていうていでやってるんです、この意味がわかりますか」
「何の話?」
「つまり、自由恋愛なら結構何しても許されるってことです」
「……何の話?」
「って違う! そうじゃなくて!」
明良のネクタイから手を離した奏は、その場で地団駄を踏む。その子供らしさを少しでも他の人に見せたら、きっと奏の見え方も変わるだろうに。
「つまり、明良くん、その……」
もったいぶったように、奏はその場でまたもじもじし始める。そうかと思えば、ふんと息を吐いて言おうとして、それでもまだちょっと言えなくて。
――めっちゃかわいいなコイツ。
いかな天邪鬼でも、このかわいさには口をそろえるだろうなと、明良は奏が口を開くのを待ちながら思った。
「ん、なんですかそんなにじっと見て」
結局奏の口が本題で開かれることはなかった。
「いや、かわいいなって」
「……な、なんですか」
「まんまだよ」
「あ、明良くんって時々そういうことしますよね! もう!!」
顔をぐしゃぐしゃと擦って、奏はそれから居直って、明良の顔をじっと見る。
「つまり、国分寺まで一緒にお散歩しませんかというお誘いなんですが」
「なんだ、そんなことか。もったいぶるから何言われるのかと思った」
「な! 私がこんなに頑張って明良くんを誘ってるのに!」
「そんな頑張らなくてもいいだろ」
ほら行くぞ、と明良は奏の袖を掴む。国分寺まで歩けば、まだ一時間もある。
「てかさ」
明良が急に声を出したから、奏はびくりと身体を震わせた。
「どうしたんですか急に」
「今も聖女教会のやつらは俺たちのことを見てるんだろうか」
辺りを見回しても、一見それらしい影は見えない。人影と言えば、駅から出てきて自分の家へ向かう会社員が数人歩いているくらいのものだった。
「……どうなんでしょう」
「マジであいつらどこにでもいるけど、あいつらのこと見つけられたのなんて吉祥寺が最初で最後だろ」
そうですね、と奏も辺りを見回して、うーんと唸る。時折向こうの高架を、轟音を響かせながら電車が通り過ぎて、奏の声をかき消したりする。
「もはや諜報機関の域ですからね、彼ら。まあ、日光でも部屋の中のことまでは知られてないみたいでしたから、最低限プライバシーは守ってくれてるようではありますけど」
「あれ知られてたらだいぶ気まずいというか、なんというか……。でも、あいつらは、いつか越えてはならない一線を越えそうな気がしてならない」
そうですね、と奏は顔に苦笑いを浮かべて、もう一度辺りを見回した。
「例えば、止まってみるとか」
顔を見合わせ、ちょっとその場に立ち止まってみる。辺りを見回してみても、明良たちと一緒に止まる人影はなく、後ろから来た人は二人を避けて前に歩いていく。
「変なところはないですね」
「じゃあちょっと、脇道に逸れてみるか?」
「それ、アリです。ちょっとそっちの暗いところとか入ってみましょう」
奏に手を引かれ、高架下の小さな道に入る。車止めが二つ並んで埋め込んであって、車の通る幅もなく、手前側は駐車場の端っこで、向こう側は住宅街の路地と、わざわざこの時間にこの道を通って向こう側に渡るような人もいない。ただ、そんなに明るくない街灯が少しあって、真っ暗闇というわけでもなかった。
そうやって誰もいない高架下で、東小金井側も武蔵小金井側も、フェンスで囲まれて入れないようになっていて、誰がいるということもない。時折電車が上を通る轟音が響いて、あるいはさっきまで歩いていた道で話している声が聞こえてきて、それ以外は二人っきり。
「なんか、ちょっと、アレですね、ここは」
奏はそう言うと、フェンスに身体を預けた。握られたままの手がぐいと引かれ、明良は奏のいるフェンスに手をついてバランスを取る。
「壁ドンされちゃった」
「ちょっと古くないか?」
「こういうことに古いとか新しいとか、野暮なことは言わないでください」
「……ごめん?」
「ゆるしてあげます」
奏はそう言うと、明良の首元に手を回す。
「奏?」
「その、一回正式なお約束事をしていないとかそういうのは置いておきましょう。目、瞑ってください」
「か、奏……?」
「はやく」
「はい」
明良が目を瞑る。唇に、いつか触れたのと同じ、柔らかい感触が触れる。五秒、十秒、いったいどれくらいそうしていたのか、やっと奏が離れて、明良は目を開けた。
「明良くん、もっかいです」
「お、おう」
明良が目を閉じる前に、目を閉じた奏の顔が近づいてきて、また唇に触れ――
「ああ―――――ッ!!!!!!!!」
触れようかというところで、なんとも脳天に響くデカい声。もう日も暮れ切って街は晩御飯の頃合いだというのに、なんという大絶叫であろうか。びっくりした奏が、明良の首に回していた手をぎゅっとしめ、明良の顔はフェンスにガシャン。
「あっ、明良くんごめんなさい!」
「痛い」
「誰ですかもう、せっかくめちゃめちゃいいところだったのに!」
その声の主は、明良たちが歩いていた道側の、小道の入口に立っていた。
「き、キスしようとするなんて…………! なんて破廉恥なんだ!!!」
手にはスマホを持って、それを明良たちの方に向けていた。
「それは普通に盗撮じゃねーか」
――しようとするというか、してるし。
あれだけ長々とむにょむにょやってたのに、丁度離れたところで来るとは、なんとも間がいいのか悪いのか。
「って、ていうか、早く聖女様から離れろ! いつまでそうやって抱き合ってるつもりなんだよ!」
「抱き合ってるなら双方合意の上だからいいんじゃないですか?」
「そういうもんだいじゃ……!!!」
「もうちょっと反論頑張れよ」
今にもスマホをへし折りそうな勢いで、その影はスマホを握っていた。その震える手にどれほどの力が込められているのか明良にはわからないしわかりたくもない。
「…………!!!」
未だ反論の言葉も思いつかないその影に、明良は助け船でも出してやろうかと口を開く。
「まあほら、貴会のトップは断固として聖女様の意思を尊重すると決めているんじゃなかったのか? 矛盾してんぞ。しまえよ、その矛」
「今日の明良くんはなんだか火力強めですね」
「そうか?」
こくこくと奏は頷く。
「い、言わせておけば……! これを知った福島が黙ってると思うなよ! ぶ、文化祭! 文化祭の朝これを福島に知らせて、台無しにしてやるからなーッ!!」
「福島に言ったとして、だからなんなんだ」
「まあ彼も過激派ですからね。というか、捨て台詞なんて言う人、現実に存在するんですね」
奏の腕に力がこもる。それにつられて奏を見れば、吸い込まれそうな奏の瞳がそこにはあった。
「どうした?」
「つづき」
「つ、つづきするのか」
「なんか、今日はなんていうか、先輩たちが羨ましくなっちゃった」
奏の家に到着したのは、実に九時前だった。真っ直ぐ歩けば一時間くらいで到着するはずが、ゆっくり歩いていた上にイベントが挟まって、すっかり時間を食ってしまった。
「なんていうか、よく私も明良くんも踏みとどまれてますよね」
「踏みとどまれてないだろ」
「あれだけやってまだ一度もお互いに直接アレとかソレとかに触れあってないのはどう考えても踏みとどまってます、そういうことにしてください」
奏はずいと取り出した鍵を明良に突き付けて迫ってくる。
「あ」
ぴたりと、奏の動きが止まった。
「あ?」
「いえ、なんでもないです。その、先に謝っておきますね。ごめんなさい」
奏はぺこりと頭を下げる。
「何???」
「いや、なんでもないんです、決して何かやましいことがあるとか、そういうことじゃないのでご安心ください」
「?????」
エントランスを通り過ぎて、エレベーターのボタンを押して、奏はまた明良の方を見る。
「明良くん、ちなみに、痛みとかはないですか?」
「痛み? どこに?」
「首元とか」
このへん、と奏は明良の首元に触れる。
「別に痛くないけど」
「それなら、いいんですけど、あの絆創膏とか家にありますか?」
「あるけど」
「そ、それなら、まあ、いいんですけどね……」
エレベーターに乗って、奏は五階のボタンを押した。エレベーターはぐんと動き出し、どんどん上へ昇っていく。
「ほんとに玄関先まで送ってくれるんだ」
「殺されたくないからな」
五階で降りて、廊下を歩いて四つ目の部屋。504号室と掛かれたインターホンのところのプレートの下には、同じような素材のプレートに明朝体で「四方山」と彫られた表札が出ていた。奏は扉のちょっと手前で止まると、明良の方へ向き直る。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「そりゃよかったよ」
「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
奏はぱんと軽く顔を叩いて、四方山奏の顔を作った。そうして、愛想笑いみたいな笑みを浮かべてから振り返って、扉の向こうに消えていった。なんだか帰るタイミングがわからなくて、わけもなく奏のいなくなった玄関をちょっと眺めてみて、ふと我に返って踵を返す。ここに突っ立っていたら、不審者じゃないか。
家に帰ると、すっかり家族は夕食を終えて、テーブルの上には空のお皿が三人分と、ラップがかけられた明良の分が並んでいた。父はやっと服を着てテレビを眺めていて、雅はスマホを見ている。なるほどこれが世代間の差というやつなのだろう。母が居間にいないのは、風呂にでも入っているからだろう。
「あ、おかえりお兄ちゃ――」
下から舐めるように明良の顔を見上げようとした雅の視線が、首元で止まる。
「なんだよ」
「おかあさん!!!!! お兄ちゃんがヤった!!!!!!!!!!!!!」
「おいちょっと待てコラ何言ってんだお前!」
立ち上がり、洗面所の方へ走り出す雅を追いかけ、顔面にパックを貼り付けた半裸の母のところに転がり込む。
「お母さんほら見て! 絶対休憩してるじゃんこれ!!」
「なんだよ急に走り出しやがって……」
「明良、鏡見てごらん」
母に促され、熱気で少し曇った鏡を見る。そこには、いつも通りの自分の顔が映っているだけだった。
「もうちょっと下だよ」
「下?」
首元を見る。
――そういえばさっき。
奏に痛くないかと聞かれたのは首元だった。そういえばそこは、奏が随分と念入りに――
「なあ、これって」
「どう見てもキスマークよね」
そこにあるのは、斜めに走る内出血だった。
「そこにキスマークつけるタイミング、私えっちしてるときしか知らない」
「私もえっちしてるときにしかつけたことないわよ」
「実母のキスマ事情なんて知りたくねぇよ」
明良も、噂には聞いたことがあった。キスマークというのは口紅が付いているのではなくて、つまり、キスをしながら同時に皮膚を吸うことでつく内出血の痕であるという、そういう噂を。
「ヤったの?」
「ヤってない」
「………………奏ちゃんて、結構独占欲強めなのね」
「それは割と、見たまんまだと思う」
「これ、絆創膏とか貼ったらいけるやつか?」
「それしかないんじゃない?」
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