第六話
「さて、そろそろ帰るか。流石にロートが心配するだろう」
「そうだね」
ゆっくりと日が西へと傾き始めた頃、ライナーが焚火を消し、帰り支度を始めた。水浴びで濡れていたハノの髪も体もすっかり乾いている。
燃えがらに湖の水をかけ、完全に火が消えたのを確認しているライナーの様子に、ハノがふと気になったことを尋ねた。
「ライナー、服は乾いてるの?」
湖に着いてすぐにハノが飛び込んだことに慌てて、ライナーが服のまま追いかけてきたことを思い出したのだ。
先程まで焚火の傍で寄り添っていた時には乾いていたと思うのだが、何せ全身が濡れていたのだ。まだ乾ききってない所もあるかもしれない、とも思ったのだ。
「ああ、べつにだいじょうぶだ、多少濡れていても」
「ダメだよ! いまは暖かい季節だし、ライナーも丈夫だろうけど、体が冷えることは万病の元なんだよ!」
最近父の書斎の蔵書で知った知識の中に、病気に関する記述があったのを思い出す。体が冷えてしまうことはたちまち病を呼び、竜人よりはるかに弱い人間はたちまちに死んでしまう、とまで書かれていたからだ。
とは言え、湖に入ったのはもう何時間も前のことで、その上焚火にもしっかりあたっていたのだ。乾いていない所があるにしても、体を冷やすほどのものではないだろう。でもハノは心配で、平気だと苦笑するライナーに歩み寄り、服の乾き具合を調べ始めた。
「……うん、ここはだいじょうぶ……ここもよし、ここは……」
「は、ハノ……ちょっと、近、い……」
「……へ?」
夢中になって服の乾き具合を調べていると、ライナーからたじたじな様子で声を掛けられ、ハノはハッと我に返る。吐息を感じるぐらいの至近距離で、しかもライナーの腰の辺りに触れていたからだ。
ライナーの体は、兵役を経験しているからか、服地越しでも十分にたくましいことが感じられる。遠く父に抱かれて胸元に頬を寄せた時の感触を少し思い出したが、それよりもずっと熱く鍛えられた肉体の熱を感じる。もちろん、ハノのそれとは比べ物にならない。
(ライナーの体……思ってたより、大きくて、厚い……)
ほんの一年ほど前の幼い姿だった時分は、この体に遠慮なく抱き着き、頬を寄せていたのだということを急に思い出してしまい、たちまち頬が熱くなり、反射的にライナーを突き飛ばしてしまっていた。
「っわ、わぁぁ?!」
「おぉっと……ハノ? どうした?」
虫でもいたか? と、ライナーが心配そうに近付いてくるが、差し出される手――やはりそれもたくましくてハノよりもうんと大きい、大人の男性の手――までもが、いままでと違う、何か特別なものに見えてしまい、振り払ってしまう。ついさっきまで、自分の方がライナーに近づき、あまつさえ抱き着くような格好になっていたのに。
「……ハノ?」
戸惑いを隠せないライナーの呟くような声に、ハノは自分がしてしまった振る舞いのひどさに一層うろたえ、「違う、違うの」と、うわ言のように繰り返す。
「違うの、あの、ライナーがイヤとかじゃなくて、その……」
何と言えばいいのだろう。でも言い訳を考えれば考えるほど言葉が混乱して喉元で大渋滞し、何も言えなくなってしまう。
なんて情けない……いまの状況に泣き出したいほど自己嫌悪に陥りかけているハノを、ライナーはきっと呆れているに違いない。
そう思っていたのだが、うつむくハノの頭に触れるものがあった。そっと上目づかいで見やると、ライナーが苦笑しながらこちらを見ている。
「心配してくれたんだろう? だいじょうぶだ、しっかり乾いているから」
ほら、と言って差し出されたシャツを着た腕に、ハノはそっと、遠慮がちに触れてみる。鍛えられていて筋肉が程よくついて無駄な肉のないそれは、傍にいるだけでハノを守ってくれていると実感できる安心感がある。
正直な気持ちを言えば、子どもの時のようにその腕にぶら下がるように抱き着きたい。でもそんなこと、きっとライナーは困ってしまうだろうし、何より、恥ずかしい気持ちがする。大人じゃない振る舞いだ、という恥ずかしさとは違った、なんだか照れ臭い要素が強い恥ずかしさだ。
その内に腕は引っ込められ、ライナーは荷物をまとめたズタ袋を肩に背負う。
「さ、帰ろう、ハノ」
「……うん」
ライナーはそう言いながら先を歩きだし、ハノはその後を追う。しかし手は、来た時のように繋いではいない。それがなんだかひどく物悲しく思える。
「……手、繋げないのかな」
呟いた言葉は小さく、恐らく数歩先を行くライナーには届いていないだろう。
もし仮に言葉が届いていて、「じゃあ繋ごうか」と手を差し出されても、それを素直に繋げるのか、いまのハノには全くわからなかった。繋ぎたい気持ちはあるのに、そうしようと想像するのも、ましてや声を自分からかけることすらも出来そうで出来ない気もする。
(なんで? この前まで、全然……ううん。ここに来るまで、手を繋げないなんて考えもしなかったのに……)
繋ぎたくないわけじゃない。でも、繋ごうかと考えると、歩くこともできなくなってしまいそうになる。
「ハノ? どうした? 疲れたか?」
気が付けば少し距離が離れてしまっていて、大分先の場所でライナーが立ち止まってこちらを振り返っている。その顔はいつもと変わらない、優しい穏やかな顔だ。ハノがホッと安心する、見慣れたいつもの表情に、思わずハノも小さく笑む。
この顔をしているライナーが、どれほど自分のことをやさしく考えてくれているのか、ハノは知っている。ハノが竜人で、人間であるライナーよりも丈夫であると書斎の蔵書で知ってからも、ライナーは変わらずハノを気遣ってくれているのだ。
(でもそれって、僕がまだ六歳の頃のままだって思われてるからなのかな……もう、大人と同じなのに……)
そうだと言われたわけではなく、ハノが勝手にそう推測しているだけなのに、そう考えるだけで悲しくなってしまうのはどうしてだろう。また子ども扱いをされていて腹立たしい! という気持ちとは違う、ほろ苦い感情なのだ。
ほろ苦くて、胸が痛くて、それでもライナーに微笑みかけられると嬉しい気持ちがふつふつと湧く。少し前に、ほこほこと泉のように何かが湧いていたものと似ているようで、それよりも静かな感じだ。
「だいじょうぶか? あれなら、おぶってやるけれど」
ハノのところまで引き返してきたライナーに心配そうにそう言われたが、ハノはふるふると首を慌てて振り、答える。
「だ、だいじょうぶ。お腹が空いただけだよ」
言い訳にしてはへたくそすぎるかなと思ったが、ライナーは「そうか」と、くすりと笑い、ハノの頭をひと撫でしてまた歩き始めた。今度はもう振り返らない。
ホッとするのかと思いきや、背を向けて歩き出された途端に寂しさが募り、またしても歩き出せなくなる。待って、行かないで、と、幼い頃のように泣きだしたい気持ちになってしまう。
「なにこれ……泣きたくなったり苦しかったり……僕、病気なのかな……?」
竜人は人間よりもはるかに丈夫だ、そう思っているのに、どこかおかしなところが自分にはあるのだろうか。父の蔵書ではわからないような、隠された秘密があるのだろうか。誰かに聞きたいけれど、身近にいるのは人間のライナーと魔法使いのロートだけ。竜人のことは、蔵書以上に二人とも詳しいかはわからない。
ぐるぐると巡る感情に振り回されながら歩いていく内に、ハノはライナーと共に屋敷に辿り着いていた。辺りは先程よりも暮れていて、屋敷の中はロートが灯してくれたらしい明かりで照らされている。
「やれやれ、やっと着いたな」
そう言いながらライナーはズタ袋を一旦下ろし大きく伸びをする。ハノもようやくたどり着けた我が家の灯りにホッと息を吐いた。
「ああ、ハノ。俺は明日の煮炊きの薪を取ってくるから、先に荷物を持って行っておいてくれるか?」
「うん、わかった」
そう声を掛けられ、同時にズタ袋を差し出された時、一瞬、ライナーの指先にハノが触れた。カサカサに乾いて硬い皮で覆われている指先は、いつも撫でてもらって知っている感触とは違ったものに思えた。だからなのか、滅多にない感触にハノの指先が過敏に反応し、それは電撃のようにハノの感覚を刺激する。胸が大きく音を立てて、ライナーに聞こえたのではないかと思うほどで、ハノはそれを打ち消すように声を上げていた。
「っひゃ!」
声は思いの外大きく、ライナーもまた思わず手を放してしまい、ズタ袋がふたりの間に転がる。転がったそれを見つめているハノの心臓は、それ以外の音が聞こえないほど騒がしく鼓動している。だからなのか、間近にライナーが迫っているのに気付けなかった。
「ハノ? だいじょうぶか?」
「っわ、わぁ! っや!」
湖でライナーの服の乾き具合を確認するのに夢中になっていた時よりも、ハノの声は大きく響き、近くの樹々から鳥が驚いて飛び立っていく。しかもライナーを突き飛ばしていたらしく、またもや呆然とさせてしまっていた。
気まずい沈黙が、二人の間にズタ袋のように転がる。
「おーい、帰ってたのかぃ?」
沈黙を破るように、屋敷の入り口がの扉が開き、ロートが顔を覗かせる。「楽しめたかぃ?」などとのん気に尋ねられたが、ハノもライナーも答えることすらできないでいた。
ジリッと見つめ合ったまま動かない二人の姿を、ロートはきょとんとした様子で見つめ、ズタ袋を拾い上げる。
「どうしたんだぃ? もしかしてまたケンカか何か――」
「そうじゃない!」
ロートの言葉を打ち消すように声を上げたのは、ハノだった。そしてそのままあっという間に屋敷の中に飛び込み、まるで逃げるようにバタバタと自分の部屋へと駆けて行く。そうしたところで、そこにはライナーだってやって来るのに。
(ケンカなんてしてない。でも、どうしようもなくライナーのこと見たり考えたりすると……気持ちがあっちに行ったりこっちに行ったりしちゃう……! なんで?!)
寝台に突っ伏して掛布を頭からかぶったままの姿で、ハノは感情をどう扱ったらいいかわからず、途方に暮れていた。
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