第44話「雪解け」
朝の光が、昨日より少しだけ強くなっていた。雪面の白が鈍く光り、足跡の縁から水がにじむ。下山道は思ったよりも険しく、だが確かに春の息吹が混じる寒さだった。雪が解ける音は目立たない——滴が岩に当たる小さな音、柔らかく崩れる雪の声。私たちはその音に合わせて一歩ずつ進んでいく。
「冷たくない?」とイヴァが訊く。声はいつもの低さで、それだけで私の肩の力が少し抜ける。
「うん、平気」私は答える。嘘でもない。体はまだ弱いが、歩けることが嬉しい。足下の雪が柔らかくなり、靴が少しずつ沈む感触が春を教えてくれる。
会話は必要最小限だ。言葉よりも、互いの手の位置や、歩幅を合わせる所作が多くを語る。時折、指先が触れてしっかりと握り合うと、胸の奥で何かがゆっくりほぐれる。過去の痛みが一瞬で消えるわけではないが、共有された重さは確かに軽くなる。
「ここの沢は水が多いかも」イヴァが地図の代わりに岳の稜線を指さす。彼女の目は道を読む。私はその指先を見て、自分がどこにいるのかを確かめる。
過去の映像——ルークの顔、マルタの祈り、私が押した瞬間——がふっと胸を横切り、すぐに風に飛ばされるように薄くなる。毎度そのたびに、私は息を整えなくてはならなかった。
「ねえ、ティナ」イヴァが突然、低く囁く。
「思い出させてくれる? あなたが薬師になった理由を」
私の口から、意外とすんなりと出たのは幼い日の母の声だった。薬草の匂い、母が与えた小さな包み、病んだ人の笑顔を取り戻すときの感覚。言葉にするたびに、私の胸に温かさが差し込む。イヴァはそれを聞きながら、微かに頷いた。
「いい匂いだったね」彼女は言い、私の肩に小さく頭を寄せる。沈黙が戻るが、その中で私たちは互いに「分かっている」と伝え合う。赦しは誰かが与えるものではなく、少しずつ自分が受け入れるものだということを、足跡の浅さが教えてくれるようだった。
道はときどき裂け、小さな岩場や流れを越えさせられる。崩れかけた土手の上で、私たちは立ち止まった。下を見ると、谷の底に小さな暗みが波のように揺れている。
遠くで、風に乗ってかすかな声が届いた。人の話し声か——それとも雪のせせらぎか。耳を澄ますと、二つの音が折り重なり、追手の存在をほのめかす。
「誰か来てるのかも」私は呟く。胸の奥が一瞬、硬直する。
イヴァは顔を上げ、山裾の方向を見据えた。黒い点が動くように見えたが、確信は持てない。
「急ぐ理由が増えたね」彼女は淡々と言ったが、その手が私の手を強く引いた。
引かれるままに歩くと、足元から水が溢れ、靴下が湿る冷たさが伝わる。びりびりとした感覚が体を現実に戻す。
歩きながら私は何度も過去と未来を行き来した。罪と赦し、保存と放棄。山に留まれば私たちだけの世界が続くかもしれない。だが外は動く。追手は来るかもしれないし、私たちの秘密はいつか砕かれるだろう。未来を選ぶことは、罪を認めるか、永久に隠すかの二択ではない。新しい生き方を模索することでもある。
「ティナ」イヴァがふと顔を上げ、笑みを見せる。それはいつものからかいとは違い、柔らかくて少し切ない。
言葉がないぶん、私の胸にその笑みは深く刺さる。私は答えを返さず、代わりに視線を合わせて軽く会釈した。会話のリズムは戻らないが、それで良かった。
日が傾き、雪の色がまた少し変わる。光が増すたびに、私の中の重さも解けていく気がした。だが同時に、最後の障害が目の端にちらつく。遠くの谷で黒い影が濃くなる。川音が高まり、渡るにはちょっとした工夫が必要そうだ。追手の声はたまに風にのって届き、私の思考を割る。
「準備は、心のほうも整えて」イヴァがぽつりと言う。彼女の声に、励ましと覚悟が混ざっていた。
私は頷き、胸の奥にある赦しの種を見つめる。新生は華やかなものではなく、小さな決意の積み重ねだと、今日の足跡が教えてくれる。
私たちはまた歩き出す。言葉少なに、だが確かに近く。共有する沈黙は、抱擁よりも深くて重い約束になっている。雪が解けて水になり、私たちの影が長く伸びる先に、まだ見ぬ世界が待っている。追手も自然の牙も、内なる葛藤も、その先にある。だが一歩ずつ、私たちは向かっていく。
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