第43話「闇に溶ける」
夕暮れが雪を青黒く染める。小屋の影は長く、世界の輪郭を曖昧にする。外に出ると、風が低く唸り、山の斜面が銀紙のように光った。私たちは二人で荷をまとめていたが、動作はぎこちなく、互いの存在を確認するだけのものになっていた。
「村とは、最後に連絡が途切れている」イヴァが呟く。声はいつもの低さで、でもそこに緊張が混じっていた。
「マルタは、常に誰かと定期的に連絡を取っていた。連絡が来なくなれば、あの人たちは不審に思う。探しに来るかもしれない」
ティナ、と彼女は私の目を見て言う。まるで事務的な報告のように冷静だが、その瞳は火のように揺れている。
「時間はないよ。ここに長居すると、外の世界が動きはじめる」
私は荷紐を締めながら、胸の中で何度も言葉を反芻した。外に出る——下山する。そうすると、私たちがここで成したことがどう評価されるかは、もう私たちの手にはない。罰を受けるのか、隠れるのか、誰かに真実を知られるのか。言葉にすればどれも恐ろしいが、沈黙にしておけばそれはぼやけて、抱きしめるべき何かとして残りそうにも思えた。
「残るって選択肢もあるわ」私が言うと、イヴァは小さく首を振った。雪の反射で彼女の頬が淡く光る。
「ここでじっとして、祈りや二人だけの形を守る──でもそれは、自分たちの世界に閉じこもることと同義よ。外が動けば、どうしようもなくなってしまう」
彼女の言葉は理屈だ。けれど私の胸にあるのは理屈ではない。あの日、手を伸ばしてしまった。その結果が私の全てを震わせる。赦しを求めたい気持ちと、罰を受けるべきだという自己嫌悪。どちらも真実でどちらも私の一部だ。
イヴァは荷台の袋を私の方へ押しやり、小さな蝋のかけらを差し出した。掌の上で、白くて柔らかいかけらがほのかに溶ける。匂いが鼻腔に広がり、過去の断片がひゅっと胸に戻る。これは保存の道具ではなく、二人だけの合図だ。
「ここに置いていくの?」私は問い返す。声は小さい。外の世界の音が私たちの会話を包む。
「置いていくわけじゃない」イヴァは私の手首を取り、蝋を私の掌と自分の掌にちょん、とつける。冷たさが指先に残る。
「これは、約束。私たちのやり方で、あなたを――私たちを形にするための印よ。誰にも触れさせないためのものじゃない。二人で共有するためのもの」
その仕草に、私の胸がぎゅっとなる。イヴァの指が私の皮膚を通して暖かさを伝える。抱擁や長い言葉はなかった。二人の間にあるのは、言葉にならない合意と、互いの体温に託された沈黙だった。外へ出る決意が、ゆっくりと二人の内側で固まっていく。
「下山するときは、人目に触れないように動く」イヴァが続ける。
「だがまずは東側の稜線を下る。そこなら昔の山道が短く通じているはずだ」
彼女の声はそう指示しつつも、計画の詳細には踏み込まない。具体的な方法より、選択の重みを共有したいという意思が伝わってくる。
夜が落ち、暗闇が一枚の幕のように降りてきた。私たちは火を消し、身支度を再確認しないまま外へ出る。空気は冷たく、足音だけが静かに続く。言葉が少ないほど、沈黙は深く、二人の距離は縮まる。互いの呼吸が近くで混じり合い、言葉よりも濃い何かが伝わる。
下山の道は、未来への問いだ。外の世界に戻れば私たちは裁かれるかもしれない。ここに残れば、私たちだけの世界に閉じこもることになる。どちらも完全な救いではない。だが今は、二人で歩くことを選んだ。足跡は薄く、やがて風に消えるだろう。それでも、二人の沈黙の約束だけは、雪の中に小さく刻まれていた。
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