第10話 錆が落ちる音
深夜練でへとへとになって始発で帰宅。1時間ほどの仮眠を取って、遅刻ギリギリに出社する。
そんな生活を3日間。
寝不足で目を擦りながら、始業直前に出勤した尾褄を待っていたのは、険しい顔をした黒瀬だった。
「埜ノ下。セプトリア・システムズ社からクレームが入っているぞ」
「えっ」
尾褄は慌てて自席に鞄を置き、ノートパソコンも出さずに黒瀬の元に駆けつけた。
黒瀬の男前の眉間には深い皺が刻まれている。
その後ろで片岡が、心配そうに様子を伺っていた。
「業務時間外に先方から電話があったらしいが、出なかったらしいな」
「……っ、確認します」
そう言って、尾褄はすぐにスーツの内ポケットを探った。
社用のスマホは真っ暗だ。電源が、落ちている。
途端に尾褄の顔が青褪めた。息が止まるかとも思った。
そういえば、いつから充電していなかったっけ?
終業後のダンス練習に夢中になっていたせいで、覚えていない。
「——対応ができなかったことで、今朝からの業務に支障が出ているらしい。対応が遅れるなら遅れるで、せめて連絡を入れてくれ、との仰せだ」
黒瀬の冷たく無機質な声が、尾褄の心臓に突き刺さる。
業務に支障が出ているなんて、ヤバい。ヤバすぎる。
「も、申し訳、ありませんでした……っ」
尾褄は、黒瀬の顔を伺うことはせず、すぐさま頭を下げた。
使い込まれて皺が寄る黒い革靴が見える。黒瀬の靴だ。
よく磨かれているな、だなんて。うっかり現実逃避をしてしまう。
尾褄にとって、得意先からクレームを入れられるようなミスは、これがはじめてだ。
頭を下げて謝る以外に、なにをすればいいのかわからない。
尾褄の首筋に浮かんだ汗が、くたくたのシャツの襟に染み込んでゆく。
ダンスにばかり気を取られていたから、仕事が疎かになってしまった。
その事実が、尾褄の胸に鋭く突き刺さる。
ヨレたスラックスの膝を握りしめていると、黒瀬から、ふ、と息が漏れる声がした。
「……埜ノ下、顔を上げろ。幸いにも、先方は1時間遅れで処理ができたらしい」
尾褄は、胸の支えが取れたような安堵を覚えた。
気が緩んだところに、黒瀬がお灸を据えるように口を開いた。
「20時は業務時間外かもしれんが、連絡は一旦受けろ。取れなかったのなら、せめて折り返せ」
「はい……!」
「すぐに対応するかは、私が決める。得意先から営業時間外に連絡を受けた場合は独断で判断せず、必ず私に回せ。出るまで電話をかけ続けて構わないから」
そう告げる黒瀬の声は、柔らかかった。
だから尾褄は、どうしようもなく申し訳なくて、下げた頭をもう一段階、下げ直した。
旋毛に刺さる黒瀬の視線の意味が、慰めなのか責めなのか、あるいは呆れなのか。
尾褄には考える余裕なんて、ない。
その夜も、尾褄はスーツを脱ぎ捨てて、仕事終わりにスタジオへ走る。
「……昨日も同じステップで足が止まってた」
イグニのダンススタジオの端っこで、CHIKAがぼそりと呟いた。
OZと踊るようになってから、CHIKAは少しずつ調子を取り戻しつつあった。
音に対する感覚が、サイファーをしたときよりも鋭くなっている。
そんなCHIKAに、深夜練をしているとはいえ、2年のブランクがある尾褄——OZがついていくのは、やっとだ。
「なあ、OZ。あんた、真面目にやってる?」
CHIKAとともに7日後のバトルに向けた練習していたOZは、鋭い指摘に顔を強張らせる。
毎晩、CHIKAにも黙って深夜練をしている身としては、言われたくない言葉だ。
「集中しろよ、OZ! あんたなら簡単にできるステップだろ!?」
「……っ」
苛立つCHIKAの言葉に、OZは奥歯を噛み締めた。
簡単なステップから次の技に繋げられない。
そのせいで、2on2バトル用に組み立てているルーティンの作成が上手くいっていない。
バトル用のルーティンと並行して、ファンミーティング用のショーケースも作っているから、頭がこんがらがっているのか?
——違う。原因なんて、わかってる。
ブランクを取り戻そうと、連日連夜無理をしているのがいけなかった。
おかげで身体はボロボロ。
頭はまったく動かずに、創造性を発揮できない。
体力だって常にゼロに近いから、思い通りに手足が動かないのは当たり前だ。
——今日は得意先に迷惑をかけて、黒瀬や片岡に心配だってかけた。
このままじゃ、いけない。
そんなことはわかっていた。けれど、OZには馬鹿みたいに深夜練を重ねることしか思い浮かばない。
OZの胸の中は、焦りと悔しさで膨れ上がっている。
「まさか、仕事があるからって、言い訳するつもりじゃないよね?」
「……俺は、俺には仕事がある。お前みたいにダンスだけで生きているわけじゃない」
吐き出した言葉は、CHIKAを余分に刺激した。
みるみるうちにCHIKAの眉が吊り上がり、顔が赤くなってゆく。
震えるCHIKAの拳がOZの胸ぐらを勢いよく掴み、コンクリート打ちっ放しの壁に押し付けた。
「はぁ? ……それでもおれと踊るって決めたの、あんたじゃん!」
「そうだよ、俺が決めた。もう一度踊るなら、お前とだって思ったからだ。俺だって本当は……!」
OZは息苦しさの中で、ギリリ、と奥歯を噛み締めた。
——お前に俺の、なにがわかるっていうんだ。
OZは、喉の奥まで出かかった言葉を、拳を固く握りしめて呑み込んだ。
ここで、CHIKAに鬱屈した感情をぶつけたところで、何もならない。
OZは、尾褄としての理性を引き出して、息を吐く。
肺が空っぽになるまで息を吐き出して、それから短く吸う。
そうして尾褄は、感情が先走って目を赤くしているCHIKAを真っ直ぐ見つめ、冷静に告げた。
「本当は、ダンスを辞めたくなかった。その気持ちを、思い出したくなかった」
一瞬の沈黙。
尾褄とCHIKAの視線が交差する。
そうして——
「……っ。……ごめん、言い過ぎた」
折れたのは、CHIKAだった。
CHIKAは、OZの胸ぐらを掴んでいた指を解くようにそっと外すと、その場にへなへなとへたり込んだ。
「おれさ、OZが踊ってたステージ、全部覚えてるんだよ。ずっと追っかけて、ずっと観てた。いまだに記憶の中のOZを超えられない」
ぽつりと落とされた呟きに、尾褄が目を見張る。
CHIKAがゆっくりと顔を上げて、尾褄を見た。
尾褄を見つめるCHIKAの目は、透明な水のように澄んでいて、尾褄は息を止めてCHIKAの言葉を待っていた。
「おれ、OZがまたステージに立つとこ、見たい。おれと一緒にフロアで踊るところを感じたい」
CHIKAの言葉が、一筋の光のように尾褄の胸に刺さる。
「……好きだから」
恥じらいもなく、真正面に放たれた
それを受けた尾褄の身体から、最後の錆が剥がれ落ちる音が聞こえたような気がした。
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