交渉

 尿意を感じ、目が覚めた。焦点が定まらず視界がぼやけているが、自室が真っ暗だということは分かる。まだ夜中のようだ。


 社会人になってから、朝まで一度も目覚めることなくぐっすり眠った記憶がない。明日の仕事でミスをしないだろうか、という不安から気が張って中途覚醒してしまう。


 働いていない今、そんな不安は生まれようがない。それにも関わらず夜中に目が覚めてしまうのは、家の構造とこの尿意が原因だ。


 私はこの家に来てから、寝る前になるべくたくさん水を飲むようにしている。理由は、自室に入った後で喉が渇くと、飲み物がある一階のキッチンまで下りなければならず面倒だから。


 一人暮らしをしていたときは布団から冷蔵庫まで往復で十歩もかからなかった。喉が渇いても、すぐに冷たい水が飲めた。しかし、この家で冷えた飲み物を手に入れるには、三階の自室から一階の冷蔵庫まで二階層分も往復しなければならない。その手間を考えると、喉が渇かないよう寝る前に水分補給をしておきたくなるのだ。


 だがその加減を間違えると、こうして夜中に尿意をもよおしてしまう。さらに面倒なことに、トイレは一階と二階にしかない。


 体を起こしてベッドから降りる。早くトイレに行かなければ、年甲斐もなく漏らしてしまいそうだ。こういうとき、個室にもトイレが付いていればと思うが、流石にそこまで贅沢は言えない。


 私の部屋から最も近い二階のトイレを目指して部屋を出る。廊下も暗い。転ばないよう壁に右手を沿わせながら進む。


 そのとき、


ぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱん


 という音が聞こえた。何かが繰り返しぶつかるような音。重低音という感じではない。軽い何かがぶつかり合うような音だ。


 私は最初、父か母か賢太郎が部屋の中で拍手しているのかと思った。しかし、誰かを褒め称えるような出来事が真夜中に起きるだろうか? 仮に起きたとしても、他の家族が寝ている時間帯だということを考えれば、大きな音を立てたりはしないだろう。睡眠の邪魔になる。それくらいの配慮は、父も母も弟もできるはずだ。


 ならば、この音は何なのだろうか……? 私は廊下を進む足を止め、まだ寝ぼけている頭で考える。


ぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱん


 意識がはっきりしてくるに連れて、この音の正体も掴めてきた。私はこの音を聞いたことがある。自分で立てたことはないが、スマホやパソコンで再生した動画で聞いたことがある。


 性交渉のときに鳴る音だ……。男性の下腹部と女性の臀部でんぶがぶつかり合って鳴る音。


 そして音は、父と母の部屋から聞こえてくる……。間違いなく、父と母が盛り合っている。


 そうだ。家族が一つ屋根の下で暮らすと、が発生するのだ。すっかり頭から抜け落ちていた。


 確か五歳の頃だったか。朝方目を覚ますと、家族で川の字に寝ていた部屋の隅で、父と母が抱きしめ合い、全裸で寝ているのを見かけた。


 当時の私は、男女でをするのだと知らなかった。父と母がそういうことをした結果、私と賢太郎が誕生したのだと知らなかった。私は性交渉の存在や意味を知る前に、両親のに遭遇していたのである。


 当時は知らなかったから、裸の二人を見て奇妙には思っても、意味のある行為だとは思わなかった。けれど今は違う。私は性交渉のことを知っている。やったことはないが、どういうことをするのか、なぜ行うのかを知っている。


 それを両親が今、壁を一枚挟んだ向こう側でやっている……不快だ。吐き気が尿意を上書きしそうだ。


 ……いや、別に、悪いことではない。それも分かっている。今すぐ両親の部屋の扉を開けて、「ハッスルするのはやめろ!」などと言うつもりはない。男女が同じ部屋で寝ているのだから、そういうことに至るのはごく自然な流れだろう。


 たとえ六十歳手前の両親といえど、かつては一人の男と女として愛し合った仲なのだ。むしろ、そういうことをするのを唯一許された相手同士なのである。実の娘といえど、口出しはできない。


 それに、性交渉ができる年齢の下限は法的に定められているものの、上限はない。年老いても体が元気ならやってもいい。そう分かっているのに、不快に感じるのはなぜなのだろう……?


 両親の性交渉に対する不快感。自分という存在があるのは両親が体を重ねたからこそなのに、嫌な気持ちになるのはなぜなのか? 納得できる理由が見つからない。


 街中を歩く子連れの夫婦だって性交渉をしているはずなのに、夜の彼らをイメージしても嫌な気持ちはさほど湧いてこない。でも、「自分の両親がやっている」と思うと、吐き気まで込み上げてくるのはなぜなのか?


 ……などと考えたが、不快感の正体を明かして自分の気持ちを正確に把握できたとて、その先に良い結果があるとは思えない。今の私がやるべきなのは、耳を塞いでトイレを済ませ、さっさと自分の部屋に戻ることだけだ。幸い、私の部屋の中にまでスパンキング音は聞こえてこない。


 今はただ何も聞かなかったことにして、知らんぷりをして再び眠りにつけばいいのだ。


 私は階段を下り、トイレに入る。そして出すものを出し、まだ音が鳴っている両親の部屋の前を通り抜け、自分の部屋に戻った。


 ベッドの上でうつ伏せになり、頭を覆うように布団を被る。早く寝ようと思うが、聞こえないはずのぱんぱんぱんぱんという音が内耳に響く。幻聴が眠りを妨げる。


 分かっている……。私が性交渉について偏った考え方をしているということは……。「卑猥ひわいなだけの行為」だと捉えているということは……。中学生男子さながらのこの価値観を、いまだにアップデートできていないのだ。頭では分かっているのに、どうしても「いやらしいこと」だとしか思えない……。


 確かに、性交渉の目的の一つは性的欲求を満たすこと。各個人が抱えている欲求を満たすための、どすけべな行為。けれど、それがすべてではない。多くの生き物が子孫を残して種として繁栄するべく、魅力を感じる相手を探して愛を育み、本能的に性交渉を行う。そこに善悪はない。ごく自然に行われる営みだ。


 人間も同じ。人類という種を絶やさないために、性交渉したくなるようプラグラムされて生まれてくる。例外はあるかもしれないが。


 父と母も、人間という生き物として生まれながらに持つ本能に従って行為をしているだけのこと。それ以外に意味はない。私が穿うがった見方をしているだけだ。


 だから余計なことを考えるな……余計なことを考えるな……余計なことを考えるな……と考え過ぎるあまり眠れず、朝を迎えてしまった。





 目を擦りながら、キッチンでレタスを刻む。その途中、大きなあくびが出た。


 私の後ろに立ってコーチングする母が、「集中しないと、包丁で指切っちゃうわよ」と注意する。つい「貴様らのせいで眠れなかったんだよ! そもそもあんたは左腕折れてるんだから安静にしとけ! 腕の治療より性欲を発散することのほうが大事なのか!? このエテ公!」と口から出そうになったが、寸前で引っ込めた。


 朝になるまでの数時間で、私なりに性交渉に対する考え方を改めた、つもりだ。余計なことを考えるなと心の中で繰り返すことで、ひん曲がった思考を真っ直ぐにできた、はず。両親が夜中にぱんぱんと音を立てるのは、生物として自然かつ必要な営みなのだと考え直せた、と思う。


 とにかく、ここで母に悪態をついてしまっては逆戻りだ。


 私は「はぁい」と、わざと気怠けだるげに返事をする。そう、私は両親の性交渉の現場に遭遇したとしても一切動じない人間。何も感じないし、考えない。そういう人間になったのだ。……たぶん。





 朝食を済ませた後、家の中を回ってゴミ箱の中身を大きなビニール袋に集めていく。その途中、気になることがあった。両親の部屋のゴミ箱に、避妊具コンドームが捨てられていなかったのである。


 もしかして、避妊しなかったのか……?


 両親は恥ずかしさから、性交渉をしていたことが私と賢太郎にばれないよう避妊具コンドームを自室のゴミ箱に捨てず、別の方法で処分した可能性もある。あるいは他のやり方で避妊したのかもしれない。そもそも、母はすでに閉経しているということも充分に考えられる。


 だが、もし彼らが「せっかくこうして夫婦が元に戻れたんだから、三人目の子供を作っちゃおうかぁ」などという意見で合意し、昨夜の営みに及んでいたとしたら……。


 私の背筋がぞくっと震える。


 新しい弟か妹が増えるのか? 三十歳近く年が離れた末っ子が? あまりにも年が離れ過ぎていて、下の子として見れない。


 そもそも、父と母は還暦間近。今から妊娠、出産したとして、子供が成人する頃には八十歳を迎えるだろう。それまで二人が生きていられる保証はない。何歳になっても子供を作るのは自由だが、あまりにも向こう見ずというか、無責任ではないだろうか? 


 まさか、私か賢太郎に子育てさせるつもりなのか……? そのために、今のうちに散々贅沢をさせて恩を売り、いざ三人目の子供が産まれたら世話することを拒めないようにしているのか……?


 ゴミを集める中で両親が使った避妊具コンドームを触らずに済むことの安堵よりも、そんな不安が私の脳内に充満した。

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