監視
一睡もできないまま朝を迎えた。私は、いつもどおり母の代わりにキッチンで朝食を作り始める。
母と賢太郎が階段を下りてきた。数分遅れて、父も姿を見せる。
「仁美、おはよう」
父は、いつもどおり笑顔で私に挨拶をした。夜の出来事などなかったかのように。
炊飯器でご飯を炊き、レトルトの味噌汁とスクランブルエッグを作った。簡単にできる料理を三人分、私以外の分だけ。今は、彼らの前で長々と料理をする気分にも、一緒に食事をする気分にもなれない。つい数時間前に、実の父に刃物を突きつけられたのだ。命の危機に
階段を上って自分の部屋へ入り、ベッドの上で三角座りをした。そして、もう答えが分かっている疑問について考えを巡らせる。
これから先、私はどうすればいいのか……。できることは、二つだ。
一つは、賢太郎と同じくこの家に残って両親と暮らし続けること。特に父の機嫌を損ねないよう注意しながら、さっきのように料理をしたり、掃除をしたり、洗濯をしたりする。
もう一つは、父を殺して逃げること。自分の今後の人生を投げ捨てて父の息の根を止め、逃亡する。何も手を打たないままこの家を抜け出そうとしても、父に止められるだけだろう。昨夜の二の舞だ。それに、父にばれることなく上手く抜け出せたとしても、すぐに気付かれて追跡される。父の手から完全に逃れるには、やつを殺してからでなければ……。
それ以外に、私が自分自身を救える手段があるか?
この家の生活を動画で撮影して、SNSに投稿する……? それは無駄だろう。一見すると私たちは幸せな家族なのだ。私が感じる不信感や恐怖心を理解し、救出するために行動してくれる人がどこにいる?
そもそもSNSの中で起きていることは、多くのユーザーにとって他人事。私が置かれている状況に理解を示し、勇気ある行動を取ってくれる人など、世界中のどこを探してもいるとは思えない。
親戚を頼ることも難しい。父と母はひとりっ子のため、私には伯父も伯母も
あるいは、警察に通報してこの家の様子を見てもらうか……? それもたぶん無意味だ。きっと、家に来た警察の対応をするのは父。「何も起きていませんよ」などと言って、追い返してしまうだろう。
現にこの家では、私が包丁を向けられたことを除いて、これといった事件は起きていない。その唯一の事件も、今となっては過去の出来事だ。証拠は残っていない。あるのは私の証言だけ。
やはり私にできることは、家族との生活の継続か、父の殺害か……。何度考えても、この二つ以外の方法が思い浮かばない。
苦し
三階から一階まで下りながら、コードレス掃除機をかける。父も母も賢太郎も、それぞれ個室に入って扉を閉めていた。個室の掃除は後回しにして、家族で共用しているエリアのみ床の
家の中は階段が多いため、ロボット掃除機は思う存分に駆け回ることができない。だから、大きな音がする少し古めの掃除機を使って掃除をする。普段は、このけたたましい音にむかっ腹が立って仕方ないのだが、今日は全く気にならない。それは、私の脳みそが「この後の生き方」を考えることでいっぱいになっているからだろう。
父を殺す。この生活を最も手早く止められる方法だ。しかし、それには高いリスクが伴う。私は残りの人生を、狭い牢獄で、貧相な飯を食いながら暮らすことになる。
……けれど、もし「私が殺した」ということが分からないように父を始末できれば、罪を逃れられるかもしれない。たとえば、自殺に見せかけるとか、病死したように装うとか。……なんて考えてみるが、そう上手くいくとは思えない。日本の警察は優秀だ。父の死体を調べれば、自殺か他殺かなど簡単に見分けられるはず。誰が殺害したのかも……。ミステリー小説のような、自分のアリバイを作りながら憎い相手を殺す巧妙なトリックも思いつかない。
……では、父の死体が見つからないようにしたらどうか? ……それも難しい。私一人で、大人の男の死体を隠すことなどまず無理だ。動かすことさえできないかもしれない。第一、父がいなくなれば母と賢太郎が勘付き、警察に届け出る。
……ならば、父だけでなく家族全員殺してしまえば……やっぱりダメだ。私が消し去りたいのは父であり、母と賢太郎には殺したいと思うほどの恨みはない。それに、三人もの人間を殺そうものなら確実に足が付く。父一人を殺害するより隠蔽は困難だ。見つかった場合の刑罰も重くなる。
私の頭で想像するだけでも、父を殺すことで私自身に、そして母と賢太郎に及ぶ負の影響は凄まじい。
そもそも、誰にもばれないよう父を殺せたとして、「殺人を犯した」という事実に私の精神が耐えられるだろうか……。そう考えていくと、やはり父を殺すのは得策とは言えない。
だとしたら、私に残された選択肢は一つ。今の暮らしを続けること。この家に残り、父のご機嫌を取り続けることだ。
正直、この選択もベストとは思えない。私は昨夜、父に殺されかけたのだ。父に命を奪われる可能性がずっと付き
ただ、あれは私が家族から逃げるという反抗的な行動に出たことが引き金になって起きたイレギュラーケースとも考えられる。今までどおり父の言うことに逆らわなければ、殺意を向けられずに生活できるかもしれない。
それに、この生活をもうしばらく続けていれば、また逃げ出すチャンスが巡ってくる可能性もある。問題を先送りにしているようでヤキモキするが、今すぐに何かしなくても死ぬことがないのであれば、待ちの姿勢を続けるほうが利口だ。
あれこれと思案しているうちに、私は掃除機を片付け、雑巾で家具を拭いていた。意識しなくても体だけが自然に動くくらい、この家での家事が板に付いてしまったようである。
“姉貴は考え過ぎなんだよ”
いつだったか、賢太郎に言われた言葉がふと思い浮かぶ。
そうだ。余計なことは考えなくていい。何も考えず、こうして家族の一員であるふりを続けていればいい。無駄な危険を冒す必要はない。この家族は一度滅びているのだ。今の暮らしにもやがて
何度も、何度も、何度も、何度も、自分に言い聞かせる。
そうやって私が「自分の心を殺す」ことを決めた瞬間、壁を拭いていた手が私の肖像画の額縁にぶつかった。がたんという音を立てて、絵画が床に落ちる。売り物ではないが、父が涙を流して見つめていた力作の一つだ。わざとやったわけではないものの、傷が付き、それが父に知られれば後で何をされるか……。
背中に寒気が走る。
顔が上側を向いた絵画を急いで拾い、傷がないかを確かめた。自分そっくりの顔をじろじろと見るのは気が引けるが、今はそれどころではない。自分の命を守るためなのだ。
どうやら傷は付いていないようである。ふぅっと吐いた息とともに、魂が抜け出そうになった。
再び壁にかけようと、絵画の裏面を見る。中心から少し上あたりに、黒くて小さな立方体の何かが貼り付いているのが目に入った。ゴキブリかと思ったが違う。足も触覚もない。プラスチック製のデバイスだ。
指先で摘むと、簡単に剥がれた。絵画に貼り付いていた面に、小さなレンズがある。
これは小型のカメラだ。
絵画の、カメラが貼り付いていた位置に小さな穴が空いている。ちょうど私の絵の右目に当たる場所。レンズの大きさにピッタリ合う穴だ。
ごくり、と唾を飲み込む。この小型カメラで、私たちの暮らしは監視されていたのか……?
私の絵画が飾られていたすぐ隣、母と賢太郎の肖像画も壁から剥がす。やはり裏面に、同種のカメラが貼り付けられていた。
こんなカメラを誰が仕掛けたのかは、考えなくてもすぐに分かる。父しかいない。日中、油絵制作のためアトリエに篭っている父は、家族が家の中で何をしているのかすべて把握できない。だから死角となる絵画の裏に監視カメラを仕掛けて、後でチェックできるようにしていた。そうに違いない。
家の中に飾られた絵に肖像画が多いのは、カメラのレンズに合わせてモデルの目の位置に穴を開ければ、気付かれにくいからだろう。他の絵にもカメラが仕掛けられていて、家の中全体を監視できるようになっているはずだ。
思い返せば、この家に来てから「監視されているのではないか?」と感じることが度々あった。夜中にトイレに行く回数を母が正確に数えていたり。賢太郎の漫画が出版社に評価されたことに嫉妬して、私が部屋で不貞腐れていたのを父と母が知っていたり。私が家を出ようとするのを妨げるために父が階段で待ち伏せていたり……。どれも、監視カメラで見ていたからできたことではないだろうか?
父は、いや母も、私と賢太郎を二十四時間見張っていた……。もしかしたら賢太郎は、父たちとグルなのかもしれない。この監視カメラのことも、父と母の思惑も知っていたから、昨夜「この家に残る」と言ったのかもしれない。
胸の奥底から、不快感が込み上げてくる。同時に、カメラを見つけてしまったことを家族に話すべきかどうか、という迷いが私の頭を支配した。
きっと、絵画の裏だけでなく家の至るところにカメラが隠されているだろう。私の個室にもあるはずだ。こんな家で暮らし続けるなんて、吐き気がする。
だが、カメラを見つけたことを家族の誰かに話し、それが父に伝われば……極めて反抗的な態度を取ったと見なされて、今度こそ殺される。
何も見なかった。そう判断するのが賢明だと考え、カメラを絵画の裏に貼り直し、絵を元の位置に戻した。自分の一挙手一投足を見られているのなんて不快で仕方がないが、命を奪われるより遥かにマシだ。
私は何も見ていない。これからも知らんぷりをして生活し続ける。そう胸に誓った直後、
「仁美」
と、背後から父の声が聞こえた。
カメラを発見したところを見られてしまっただろうか。だとしたら、言い逃れはできない……。
このまま包丁で突き刺されることを覚悟しながら、私はゆっくりと振り向く。視線の先にいたのは、父。その少し後ろに母と賢太郎が並んで立っている。やはりこの三人はつながっていたのだと、瞬間的に思った。
「仁美……母さんと賢太郎も、話がある」
途切れそうな弱々しい声で言う父。その右手に握られているのは、包丁ではなくスマホ。「話がある」という言葉から、私を今すぐ殺すつもりではなさそうである。
父はスマホを、目の前の床に置く。通話状態であり、スピーカーホンになっていた。
『陽子さん、仁美ちゃん、賢太郎くん、初めまして』
スマホから、聞き慣れない男性の声が響いた。低いがくぐもってはいない。さながら、アニメで黒幕役を務めることの多い男性ベテラン声優といった声音だ。
スマホの向こうにいる声の主は、続ける。
『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます