小鼠

 その日はもう最悪だった。


 朝礼後にずっと走らされて、くたくたになった後に待っていた射撃のテストで、私はまた最低点を取って殴られた。


 給食ではデザートのゼリーが付いていたことに気付かなくて、意地悪のイワンに食べられてしまったらしい。


 そして今、放課後の唯一の楽しみであるラジオが壊れた。


「補給課に、行かないと…。」


 1人で外出するのは苦手だった。


 補給課は学舎からも寄宿舎からも離れていて、くたびれた身体で歩くのは気が重い。


 けれど今日は金曜日。


 補給課が開いている時間にラジオを交換しないと、週末の楽しみも無くなってしまう。


 ちっ、ちっ……。


 鼻歌のように舌を鳴らして歩く。

 通り過ぎる級友が私を見て笑う。いつものことだ。

 小鼠こねずみのグレーテ、それが私。

 私たち4組の子供は3組の子に時々意地悪をされる。いつものことだ。

 今日はちょっと運が悪かっただけ。


「いっ、た……」


 突き落とされた階段の下で、私は自分を見失った。


 鳴らないラジオは守ったけれど、補給課への道がわからない。

 それどころか、寄宿舎に帰るまでも莫大な時間がかかるだろう。


 門限破りは厳しく罰せられる。


「……最悪だ。」


 1人ぼっちの小鼠の鳴き声が、ただ広い空間に空しく響いた。

 


「君、大丈夫?」


 階段の上から、声をかける者があった。

 上背のある、がっしりした人影。体格の割にまだ少年の声だった。


「転んだの?足挫いた?」


 足音なく近付いて、座り込んでいた私の手を取った。


「あなたは、……どなた?」


 その顔を見上げると、彼が奇妙に沈黙した。

 敬礼を求めないと言う事は、少なくとも上官ではない様だった。


「……もしかして、見えない?」


 その問いに素直に頷いた。


 意地を張っても仕方がない。


 例え補給課は諦めるとしても、門限破りの懲罰は御免だった。


「補給課に行きたかったんだけど、迷子になっちゃって……。」

「わかった。」


 彼は頷いて、私の腕を掴み直した。

 掛け声もなく、気づいた時には彼の背に負われていた。


「あの!場所だけ教えて貰えれば大丈夫だから。」

「大丈夫。僕も補給課に用があるんだ。」


 多分声変わりが終わったばかりの、少しザラついた声が優しく響いた。


「君、名前は?何組?」

「グレーテ。……小鼠のグレーテ。」

「小鼠、かわいいね。」


 彼がふと笑い声を漏らす。

 私の事を知らない彼に、4組と答えられなかった。

 

 ──4組は、近いうちに「廃棄」される掃き溜めのクラス。


 

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