第6話
あの日、ペットショップのガラス越しに、じっと丸まっていたグレーの猫。
あの子は、今、私の布団の真ん中で大の字になって眠っている。小さな寝息を立てながら、まるでここが自分の王国だと言わんばかりに、安心しきった顔で。
ミイ――私はそう名づけた。
ミイを初めて家に連れて帰った日のことを、今でも鮮明に思い出す。
キャリーケースの中で静かにうずくまっていたミイを見ながら、私は何か大きな決断をしたような気がしていた。
夫は、しかめっ面のまま言った。
「俺は世話は一切しないからな」
それっきり黙り込んだ彼の横顔に、少しだけ戸惑いと後ろめたさのようなものが見えた気がした。
その日から私の生活は確実に変わっていった。
朝はミイのために早起きし、ごはんを用意し、トイレを掃除する。
爪とぎ用の段ボールを新しくし、窓辺に光が差すようにカーテンを少しずつ調整する。
そんな小さなことの積み重ねが、いつの間にか私の心をじんわりと温めてくれていた。
「大切な誰かのために、何かをする」
それは、長い間忘れていた感覚だった。
ただ誰かの機嫌をうかがい、自分の気持ちを後回しにしてきた日々とは違っていた。
そして、不思議なことに、夫にも変化が現れた。
仕事から早く帰るようになり、私の作ったごはんを「おいしい」と言って食べるようになった。
昔のように、私の目を見て話し、時には笑顔すら見せるようになった。
そして、ミイを抱きしめながらこう言った。
「かわいいな。猫がこんなにかわいい存在になるなんて思わなかったよ」
まるで、何もなかったかのように。
私は、その変化を素直に受け入れることができなかった。
夫は、きっとまた同じことを繰り返す。
口がうまくて、時に優しく、時に無関心な彼の言葉に、これまで何度も心を揺さぶられてきた。
けれど、ふとした瞬間に気づいてしまうのだ。
「この人をもう一度信じたら、自分が壊れてしまう」
そう胸の奥で、直感がはっきりと囁いてくる。
私は、もうあの頃の私ではない。
ミイのことを大切に思うように、自分自身のことも、同じように大切にしよう。
そう、ようやく決めたのだ。
布団の上で眠るミイの寝息が、静かに響いている。
その無防備な姿を見るたびに、心の奥につかえていた塊が少しずつ溶けていくのを感じる。
私の生活は、本当に変わった。
誰かの顔色を伺いながら過ごしていた毎日から、自分の気持ちに耳を傾ける時間が増えた。
ほんの少しずつ、「わたし」が戻ってきた。
そして、ようやく気づいたのだ。
この人とは、もう一緒に生きていけない――と。
今すぐに出ていくわけではない。
荷物も、手続きも、何ひとつ準備はできていない。
けれど、私の中では、もうすべてが決まっている。
この決心を、私は裏切らない。
傷ついても、苦しくても、自分で選んだ道を生きる方が、ずっといい。
「ありがとう、ミイ」
そうつぶやきながら、小さな背中にそっと手を伸ばす。
ミイはごろりと仰向けになり、私の手をお腹で受け止めた。
その温かさに、思わず笑みがこぼれる。
これからの道のりは、決して平坦ではないだろう。
孤独を感じる日も、不安で立ち止まりそうな日もあるかもしれない。
でも、私はもうひとりじゃない。
ミイがいる。
これからの人生を、私は自分の手で選んでいく。
誰かに合わせて生きるのではなく、
自分の気持ちに嘘をつかず、
自分を大切にする、やさしい暮らしを選びながら。
少しずつでいい。
ゆっくりでいい。
ミイと一緒に、新しい毎日を歩いていこう。
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