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勇1

 結月が降りたバス停は、なにもない場所だった。

 目的地は「バス停から北へしばらく歩いたところ」と聞いたときは、なんて不親切な説明だと思ったが、実際にこの場に立ってみて、それしか説明しようがなかったのだと納得する。雑草がすくすくと伸びる空き地にバス停があるだけで、他に民家や目印はなにもないし、車も人も通らない。スマートフォンの地図アプリで方角を確認して歩き始める。

 道路の山側には背の高い杉林の壁が続き、セミの鳴き声がどしゃ降りの雨のように降り注いでくる。反対側には河口湖が広がっていた。周囲の山の色を吸いこんだ湖面は緑がかった青色をしていて、向こう岸の山肌に沿ってもやが流れていくのが見える。いくつもの小さな山が重なり合い、遠くになるほど白くけぶっていく様子は、水墨画の世界に入りこんだみたいに神秘的だった。湖の向こうに富士山が見えると聞いていたが、今は影も形も見えない。

 五分も歩くと、雑木林の影に赤茶色の屋根が現れた。見つけられた安心感に、歩みが速まる。公道から目隠しするように木が植えられていて、それが横の雑木林と同化して家をすっぽりと覆い隠していた。傾斜の強い三角屋根、玄関には広いポーチがあり、壁から屋根までチョコレート色をしたログハウス風の別荘だ。二階の窓が開いているのか、白いカーテンが揺れているのが見える。家の前には車が三台は余裕で停められるスペースがあり、車はないが、敷かれた砂利には新しいタイヤの跡が残っている。

 ポーチに上がって呼び鈴を押したが、電源が入っていないようで、ボタンがカチッと鳴っただけだった。一応ドアをノックしてみるが、返事はない。

 留守かな、とドアに背を向けると、植えこみのすき間から河口湖が見えた。ずっとここで待っているのも退屈なので、湖に下りてみることにした。

 道路を渡って空き地に入り、雑草が薄くなっているところを通って土手を下りる。

 一段下がると空気がひんやりしたものに変わった。山と湖に囲まれているから湿度は高めだが、しっとりと肌を包むような優しさがある。関東で感じるような、まとわりついて体の内側に熱をこもらせるタイプの暑さとは大違いだ。

 地面は炭みたいな真っ黒な砂利に覆われている。セミの声が少し遠のいたかわり、波が静かに砕ける音が聞こえてきた。

 砂利を踏みながら湖畔を少し歩いていると、ドポン、と水面を割る音がした。音の方に顔を向けるが、なにも見えない。魚でも跳ねたのだろうか。そう思った瞬間、またドポン、と音がした。

 結月の身長よりも大きい岩の塊をぐるっと迂回すると、入江のような形になっている水際に、男の子がいた。足もとの黒い石を拾い上げると、ひょろりとした長い腕を思いきり振り抜く。ドポンと音がして、石は湖面に波紋を残して消える。

 もしかして。

 結月は男の子に向かって歩く。丁度そのとき、石を拾ったその子が顔を上げた。結月と目が合うと、きょとんとした顔で首をかしげた。だれだっけ? と考えこむその細面はもうすっかり男の子で、最後に会ったときのむちむち感はなかった。結月は頭の中で計算する。今年で八歳のはずだ。

「久しぶり。朋哉」

「〝ゆづちゃん〟?」

 朋哉は自信なさそうに言う。覚えていてくれた嬉しさに、つい笑みがこぼれた。

 そのとき、岩影で人が立ち上がった。こちらは声が出ないほど驚いているようだ。結月の顔をじっと見つめる瞳から、戸惑いや安堵が次々に流れこんでくる。

 四年ぶりに会う、加賀谷勇だった。

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